いつまでも残るものは信仰と希望と愛です―キリストを信じるという生き方ー

OLYMPUS DIGITAL CAMERAM141116 「キリストの手紙」 Ⅱコリント3:1~9

 

今日は、宣教主日となっております。ケニアのテヌエク病院で、看護師として働いている蔦田就子宣教師をお迎えして、その活動の一端を紹介して頂きました。宣教地のことを知り、祈り、私たちも、置かれた場所で、福音をお伝えさせて頂きたいと思います。今朝はⅡコリント3章から「キリストの手紙」という題で今朝のメッセ―ジを取り次がせて頂きます。

 

1、推薦状

1、2節  私たちはまたもや自分を推薦しようとしているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたにあてた推薦状とか、あなたがたの推薦状とかが、私たちに必要なのでしょうか。私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心にしるされていて、すべての人に知られ、また読まれているのです。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。

 

1節に「推薦」とか「推薦状」という言葉が出て来ます。現代において、たとえば、本の紹介をする帯のところに、短い「推薦文」が書いてあったりしますね。良く知られている有名な方が、「私は、こうこうこういう理由で、この本を推薦します。」と紹介していたりすると、私たちは、「それなら、買って読んでみようか。」と思ったりする訳です。

 

聖書の中にも「推薦状」が出て来ます。例えば、ピレモンへの手紙の中で、パウロは、ピレモンに対して、かつて、やんちゃをしてピレモンを困らせたオネシモが、イエスさまを信じて生まれ変わったので、受け入れてやって欲しいと推薦状を書きました。「彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。そのオネシモを、あなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。」(ピレモン1:11、12)と、オネシモをピレモンに推薦しています。

 

しかし、ここでは、推薦状が悪い意味で使われています。コリント教会のある人たちは、パウロに対して、「あなたは、自己推薦しているのでしょう。誰かの推薦状を持っているのですか。」と、パウロを批判しているのです。それに対して、パウロは、思いがけない答えをします。「私には、誰かの推薦状は必要ありません。あなた方こそ、私の推薦状ではありませんか。」と言うのです。

 

コリント教会の人たちは、はっとしたと思います。彼らは、自分たちこそ、「キリストの手紙」であることを忘れていたのですね。そのことを、もう一度、思い起こす必要がありました。この朝、私たちも、私たち自身が、「キリストの手紙」であることを、もう一度、認識させて頂きたいと思います。

 

2、キリストの手紙

3節  あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。

 

パウロは、私たちひとりひとりが、「キリストの手紙」だと言うのです。このキリストの手紙の差出人は、救い主イエスキリストです。受取人は、この世のすべての人々です。イエスさまは、「キリストの手紙」を、紙とペンでではなく、私たちの心の板に、生ける神の御霊によって書かれました。

 

この「石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。」というのは、旧約聖書に出てくる2つの出来事を指しています。一つは、この石の板とは、モーセの十戒が記された2枚の石の板を指しているということです。この石の板に書かれた内容は「~してはいけない。」という律法でした。「石の板」には、9節にあるように「罪に定める務め」がありました。

 

これは、私たちにとって何を意味するのでしょうか。「キリスト手紙」は、人を断罪するものではありません。もし、私たちが、誰かを裁くような態度を取るなら、それは石の板に書かれた手紙なのです。石の板に書かれた手紙は、冷たく、そして、人を罪に定めるものです。しかし、「キリストの手紙」は、石の板に書かれた手紙ではありません。「キリストの手紙」である私たちの務めは、人に、罪の赦しを伝えることです。神さまの大きな愛と憐みを伝えるのが「キリストの手紙」の務めです。

 

もう一つ、後半の「心の板に書かれた」ということが意味することは、神さまの愛に応える柔らかい心に書かれているということです。エゼキエル 11:19にこうあります。

「 わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。」

 

生ける神の御霊が、私たちの心から、頑なな冷たい石のような心を取り除き、神さまの愛に応える、あたたかく、柔らかい心を与えてくださるのです。その柔らかい心に、神さまのメッセージが書き込まれます。私たちの心の板に、どんなメッセージが書き込まれているか、ご存知ですか。神様は、こう書いておられるのです。「わたしの目には、あなたは、高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」神は、私たちの心の板に、「わたしはあなたを愛している」と書き込まれたのです。

 

神の愛が記されている、それが「キリストの手紙」です。その手紙を、光に向けて見ると、十字架の透かしが入っていることが分かります。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」(イザヤ43:1)イエスさまは、ご自分の血によって、私たちの罪を赦してくださいました。

 

私たちは、ひとりひとり「キリストの手紙」です。心の板に、「わたしは、あなたを愛している。」という御言葉が刻み込まれ、イエスさまの贖いのしるしである、十字架の透かしが入っているのです。周りの人たちは、その手紙を読みます。いや、読みたいと願っています。私たちが、勝手に「今日は、お休み。」と、心の板に覆いを掛けてしまってよいでしょうか。いえ、良い筈がありません。私たちは、いつも、心の板に記された「キリストの手紙」を、周りの人たちが読めるようにしておく必要があるのです。

 

先日、H兄が天に召されました。H兄は、昔、ほんとうに「やんちゃな方」だったそうです。しかし、神さまは、K姉を「キリストの手紙」として送られました。H兄は、徐々に、少しづつ、その「キリストの手紙」を読んで行きました。H兄は、活字を読むことはあまり得意ではなかったようですが、K姉という「キリストの手紙」は、よく読むことが出来たのです。その結果、ついに、イエス・キリストのメッセージがH兄の心に届きました。そして、イエスさまを信じて、救われました。もし、神さまが、K姉という「キリストの手紙」を送らなかったら、H兄は、イエスさまの救いを知ることは出来なかったでしょう。

 

そのようにして、2000年に亘り、神は、1通1通、世界の各地に、キリストの手紙を出し続けて来られました。読まれずに捨てられり、破り棄てられた手紙もたくさんあったと思いますが、ちゃんと届いて、イエスさまの救いに与った方々も多くいます。私たちこそ、「キリストの手紙」なのです。私たちは、家族のところに、職場に、送られた「キリストの手紙」なのです。

 

3、御霊の務め

5~9節  何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。 もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。 罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。

 

パウロは、最後に「何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。」と述べています。誰も、自分がキリストの手紙として相応しいとは思っていません。むしろ、自分には、そんな資格などないと思うのが普通です。しかし、神さまが、この資格を与えてくださいました。それは、御霊の務めです。

 

北海道旭川にある、三浦綾子記念館で、三浦綾子さんの手書きの原稿が展示してあるのを見たことがあります。その原稿には、何度も書き直した痕がたくさん残っていました。何度も書いては消し、書いては消しということを繰り返していたのだと思います。現代は、パソコンで書く場合が多くなりましたが、昔は、紙にペンで書く訳ですから、何枚も原稿用紙をまるめて、屑籠へということが繰り返されて来たと思います。何度も何度も繰り返し修正がされ、そして、より良い文章が作られて行きます。一つの文章が完成するまでに、たくさんの加筆、修正が加えられて行きます。

 

私たちの心の板に書かれる、キリストの手紙も、1回で完成することは、まずありえません。何度も何度も、失敗し、その都度、修正され、そして、より素晴らしい手紙が書かれて行くのです。味のある文章とは、よく練られた文章です。喜びの甘味料だけでなく、涙の塩味もほどよく入れられ、そして、多くの人の心に届く、文章が作られて行きます。「キリストの手紙」とは、最初から完成されているのではありません。私たちの痛み、涙、喜び、感謝、希望が、それら一切のことが、その文の中に織り込まれ、仕上げに、キリストの愛と恵みに包まれて、読む人に感動を与えるものとなります。

 

ですから、「私には、そんな資格はない。」と言ってはならないのですね。その資格は、神からのものです。イエスさまによって救われた人は、好むと好まざると関わらず、皆「キリストの手紙」です。周りの人たちは、その手紙を読んで行くのです。そして、この手紙は、読む者の人生を変えて行く力があります。それは、読む人の心をイエスキリストの救いに導き、罪の赦しと、信仰による義を与えることが出来ます。それは、その人の功績ではなく、御霊の力によるものです。

 

モーセは、シナイ山で、神と顔と顔とを合わせて話した唯一の預言者です。モーセが40日間、神さまの前で、神さまとじっくりと話すうちに、モーセの顔が神の栄光を受けて、輝いて来ました。モーセは、それを知らずに、山を下りてくると、人々はモーセの顔の輝きを見ました。その輝きがあまりにもまぶしくて、見つめることが出来ないほどでした。しかし、モーセは、自分の顔が光を放っていることを知りませんでした。

 

私たちのすべきことは、私たちの心の板に記された「キリストの手紙」を周りの方が読めるようにすることです。そのために必要なことは、私たちもイエスさまに向き合うことです。そして、御霊に満たされることです。主イエスさまの前に出て、イエスさまの御顔を仰ぎ見て、イエスさまと交わりを持ち、もう一度、しっかりと心の板に、イエスさまの愛を刻むことです。

 

もし、それを覆い隠している罪があるなら、主の前に悔い改め、イエスさまの十字架の血潮できよめて頂き、イエスさまのご愛で満たして頂く、その時、私たちは、「キリストの手紙」としての役割を果たして行くのです。今週も、御霊に満たされ、「キリストの手紙」として、それぞれの場所に遣わされて行きましょう。

 

3節  あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。

 

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