いつまでも残るものは信仰と希望と愛です―キリストを信じるという生き方ー

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M141207 「東方の博士たちとヘロデ王」 マタイ2:1~12

 

今日のメッセージの中心テーマは、「王」です。東方の博士たちは、新しく生まれた「王」に会うためにはるばるやって来ました。博士たちが会いたいと切に願った「王」は、人類がずっと待ち望んでいた、いわば「理想の王」です。聖書の中で、良い王様の代表と言えば、ダビデ王ですが、何故ダビデが良い王様かというと、リーダーシップがあり、それでいて神を恐れ、不正を嫌うクリーンな王だったからです。

 

一方、ヘロデ王は、リーダーシップはありましたが、腹黒い王でした。自分の保身の為なら、平気でうそをつき、人殺しもいとわないダークな王でした。ユダヤの民は、長い間、ダビデのような良い王様が再び現れることを待ち望んでいましたが、そうそう「理想の王」が現れることはありませんでした。ダビデから千年の時が流れました。しかし、ついに時が来て、王の王、主の主であるイエス・キリストがお生まれになりました。

 

しかしながら、この新しい王は、地上の王国の王としてではなく、神の国の王としてお生まれになりました。この神の国は、今すでに信じる者の心の中に始まっており、やがて、とこしえに続く王国として出現します。この神の国の「王」としてお生まれになったのが、救い主イエス・キリストです。クリスマスは、神の国の「王」としてお生まれになったイエス・キリストの誕生をお祝いする時です。

 

1、東方の博士たち

1、2節  イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

 

クリスマスが巡って来る度に、東方の博士たちは、いったいどのような人たちなのか、思いを巡らすことです。後代の人たちは、博士たちが持ってきた贈り物から、この博士たちを、メルキオール、バルタザール、カスパールと呼びました。

 

「博士」と訳されている言葉は、マゴスというギリシャ語ですが、一般にワイズマン「賢者」という意味です。天体に関する研究をしていたと考えられます。東方とは、エルサレムのずっと東にあるバビロニア地方であったと思います。そこには、昔、バビロン捕囚のときに連れて来られたユダヤ人たちが、住みついていました。彼らの会堂シナゴーグでは、毎年1年かけて、創世記から申命記まで朗読されていました。

 

2節に「私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」ありますが、「その方の星」というところの横に、小さく(2)と書いてあります。下の欄外注の2の②ということろを見ますと民24・17とあります。これは、モーセ五書の中の民数記24章17節を見て下さいという意味です。それで民数記の24章17節を開いて見ますとこうあります。

 

「私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。」少し過激な表現がなされていますが、要するに、「やがてイスラエルから、一つの星が上り、ユダヤ人の王、さらには世界の王となる。」という預言が、そこに書かれているのです。

 

これは、キリストがお生まれになる1,500年も前になされた預言です。博士たちは、その預言を知り、星空を研究しているうちに、「その方の星」を見たのでした。どうして「その方の星」だと分かったのかは分かりませんが、彼らは、新しくお生まれになった王に会うために、はるばるやって来たのです。

 

2、理想の王とは誰か

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7,8)とあります。確かに言えることは、神は求める者に、与えてくださる方だということです。捜す者は、見つけることが出来ます。そして、門を叩く者には、道が開かれます。

 

この東方の博士たちの関心は「王」でした。博士たちはエルサレムにやって来て、開口一番「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。」と尋ねています。彼らは、きっと王に仕える立場であったのでしょう。いろいろな王様を見て来ました。国民のことを考え、良い政治を行う王様もいれば、自分や自分のたちの事しか頭になく、私利私欲に走る暴君のような王もいたと思います。王によって、国民は幸福にもなり、不幸にもなることを良く知っていました。

 

博士たちは、いつしか理想の王を求めるようになって行ったのだと思います。理想の王を追求するうちに、王の王、主の主としてお生まれになった御子イエスキリストのところへ導かれたのです。博士たちが、追い求めて来た理想の王とはどのようなお方か、博士たちが用意して来た贈り物を通して知ることが出来ます。

 

11節  そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。

 

黄金は、王の権威、王の力にふさわしい捧げものでした。王には本物の権威が必要です。乳香は、祭司が祭壇で焚くものです。つまり、天の神と地に住む人々の間に在って、とりなしをする祭司のような存在ということです。そして、没薬は、死体を埋葬するときに、腐らないようにする薬でした。イエス・キリストが、十字架に掛かって死なれ、墓に葬られるとき、その亡骸の腐敗を防ぐために、ニコデモは30キロの没薬を持ってきました。

 

生まれたばかりの幼子に、没薬を贈り物として捧げるなんて普通あり得ないことです。しかし、この没薬には特別な意味がありました。この没薬が意味することは、自己犠牲です。理想の王の姿を追求して行くと、自己犠牲に至ります。イザヤ書53:5にこうあります。「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」

 

全世界を治める権威を持ちながら、決して威張ることなく、民のために執り成し、そして自己犠牲の愛をもって私たちを導いてくれる王、それが、彼らが求めていた理想の王の姿でした。そのような理想の王は、イスラエルの名君と言われたダビデ王ですら、遠く及びませんでした。しかし、ついに時が来て、この理想の王が、ついにお生まれになったのです。東方の博士たちは、この幼子に出会って、この方こそ、人類が長い間待ち望んでいた、王の王、主の主、救い主メシアだと確信しました。

 

9、10節  彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。

 

彼らは、幼子のイエスさまと出会い、ひれ伏して拝みました。地位も名誉もある、大の大人である博士たちが、幼子に向かって平伏して拝むのは、どこかしら滑稽にも見えますが、しかし、その姿は、人間として最も弱い幼子の姿でしたが、しかし王の王、主の主、すべてを治める権威を持つお方、ご自分の命さえも犠牲にしてでも愛してくださる、まことの王なのです。このお方の前に、ひれ伏して礼拝をお捧げすることこそ、博士たちの最高の喜び、最高の栄誉でした。

 

ある方がこう言ったそうです。「もし、ソクラテスが部屋にはいって来たら、私たちは、みな立ち上がって、彼に敬意を表するであろう。しかし、もし、イエス・キリストが部屋にはいって来たなら、私たちはひれ伏して、彼を拝するであろう。」

 

3、救い主を拒絶したヘロデ

3~8節  それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。 そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」

 

東方の博士たちと全く対照的なのが、ヘロデ王です。彼は、救い主誕生の知らせを聞いて、喜んだのではなく、恐れ惑いました。何故かと言えば、迷惑だったからです。本物の王が来られたたら、自分の地位が脅かされることになります。

 

クリスマスは、東方の博士たちにとっては、この上もない喜びの知らせでしたが、ヘロデ王にとっては、恐れ惑う出来事でした。それは、自分の悪い行いが明るみに出されるからです。ヘロデ王は、王の権力を使って、多くの不正を行いました。しかし、正しい王が来たら、そんなことは出来なくなります。ですから、キリストに来てもらっては困るのです。

 

王だけはなく、エルサレム中の人も同様であったとあります。エルサレムの人たちが望んでいたのは現状維持でした。誰かに罪を指摘されたり、自分を変えたりすることを好みませんでした。要するに、自分の好きなようにやりたかったのです。

 

7、8節  そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」

 

ヘロデ王は、「私も行って拝むから。」とうそをつきました。そんな思いなど、みじんもありませんでした。最初から、幼子を亡き者としようとしていたのです。16節にこうあります。「その後、ヘロデは、博士たちにだまされたことがわかると、非常におこって、人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた。その年齢は博士たちから突き止めておいた時間から割り出したのである。」

 

ヘロデ王は、嘘つきであり、人殺しです。祭司長、律法学者たちも、やがて、民衆を扇動して、「イエスを十字架につけろ」と叫ばせます。彼らもまた、嘘つきであり、人殺しでした。罪とは、恐ろしいものです。罪は、正しいことを拒絶します。すべての人を照らすまことの光として来てくださった救い主イエスさまを拒絶したのです。それ故、彼らは、罪の中に残されました。CSルイスは、「地獄の扉は内側から鍵が掛けられている。」と言いったそうです。

 

4、心を開いて迎えよう

クリスマスを迎えます。神のひとり子であるイエス・キリストは、天の御座を降りて、人なって私たちのところに来てくださいました。神の国の王として、天においても地においても、一切の権威を持つ王として、しかし、低く低くへりくだって、幼子となってお生まれになりました。

 

私たちが心を開き、新しい王として来てくださったイエス・キリストを、私たちの心にお迎えするとき、そこに神の国が始まります。本当に小さな、小さな始まりですが、やがて、全世界、全宇宙に、この神の国は拡大して行きます。主イエス・キリストは、この神の国の王として来て下さいました。

 

残念ながら、ヘロデ王は、心を閉ざしました。あくまでも自分が自分の主あり、自分の好きなように生きることを願ったのです。彼らは、救い主を拒絶し、冷たい罪の中に取り残されました。

 

主イエス・キリストに対して、心を開くか、心を閉ざすかによって、私たちの人生は大きく変わって来ます。ヘロデ王や律法学者、エルサレム中の人々のようにではなく、東方の博士たちのように、救い主に向かって心を開きましょう。そして、幼子して来てくださったイエス・キリストを、私の王、私の主としてお迎しようではありませんか。そこに、クリスマスのほんとうの喜びがあります。

 

9~11節  彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。