いつまでも残るものは信仰と希望と愛です―キリストを信じるという生き方ー

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まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行わせようとするのか」と言わなくてもよい。また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行わせようとするのか」と言わなくてもよい。まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。見よ。私は、確かにきょう、あなたの前にいのちと幸い、死とわざわいを置く。私が、きょう、あなたに、あなたの神、【主】を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。確かに、あなたは生きて、その数はふえる。あなたの神、【主】は、あなたが、入って行って、所有しようとしている地で、あなたを祝福される。しかし、もし、あなたが心をそむけて、聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、きょう、私は、あなたがたに宣言する。あなたがたは、必ず滅びうせる。あなたがたは、あなたが、ヨルダンを渡り、入って行って、所有しようとしている地で、長く生きることはできない。私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、【主】を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは【主】が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。

 

1、選択の自由と責任

19、20節  私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、【主】を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは【主】が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。

 

「あなたはいのちを選びなさい。」「あなたは、生きることを選びなさい」というのですね。人は、深く絶望したり、とても苦しいときには、自ら死を選んでしまうこともあり得ますから、「死を選んではいけない。生きることを選びなさい。」「生きよ」というのは、現代に生きる私たちへのメッセージでもあります。

 

しかし、精神分析学者のエーリッヒ・フロムは、この「いのち」とは、生物学的ないのちではなく、成長し、反応し、進歩していることを意味していると述べています。つまり、肉体は生きていても、魂が死んでいるような生き方をしてはいけないと言う意味だというのです。

 

私は、神のいのち、永遠のいのちを選びなさい。という意味であろうと思います。死んで終わりという動物的ないのちではなく、神と共にいつまでも生きる永遠のいのちに生きるようにというのが、「あなたはいのちを選びなさい。」の本当の意味ではないかと思うのです。そして、この選択は、一度イエスさまを信じて救われたらそれでお仕舞ではなく、私たちの生きている限り、一生涯、神のいのちを選び続けなさいということだと思います。

 

私たちの人生は、選択の連続です。いのちと祝福に至る選択もあれば、死とのろいに至る選択もあります。私たちの前には、大小様々な選択が置かれています。私たちは、そのどちらかを選び取って行くのです。神様は、私たちが間違える前に、もっとはっきりと教えてくれたらいいのにと思うかもしれません。もちろん、神さまは、教えてくださっています。しかし、人は、なかなか頑固であり、そう簡単に主の道を選ぼうとはしないのですね。

 

選択の自由と責任、これは、人間が人間であるゆえんでもあります。神様は、私たちに選択の自由を与えておられ、それには責任が伴います。そういう意味で、人生は厳粛だなあと思います。ガラテヤ 6:8に「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」とありますが、人は種を蒔けば刈り取ることになります。

 

選択の機会は、私たちが成長するチャンスでもあり、同時に、恵みを失う危機でもあります。ですから、モーセは、「あなたは、いのちを選びなさい。」と言うのですね。「決して、滅びを選んではいけない。あなたは、生涯、最後まで、いのちを選び続けなさい。」というのです。私たちは、生涯、いのちを選び続けたいと思います。

 

2、主イエスの道を選ぶこと

16節「私が、きょう、あなたに、あなたの神、【主】を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守るように命じるからである。確かに、あなたは生きて、その数はふえる。あなたの神、【主】は、あなたが、入って行って、所有しようとしている地で、あなたを祝福される。」

 

いのちを選ぶとは、主を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めを守ることです。イエスさまは「私が道であり、真理であり、いのちなのです。」と仰いました。「あなたはいのちを選びなさい」とは、主イエスさまの御心に沿って生きることを選びなさいということですね。

 

その反対は、17、18節にあります。

「しかし、もし、あなたが心をそむけて、聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝み、これに仕えるなら、きょう、私は、あなたがたに宣言する。あなたがたは、必ず滅びうせる。あなたがたは、あなたが、ヨルダンを渡り、入って行って、所有しようとしている地で、長く生きることはできない。」

 

いのちを選ぶことをやめるとは、主から心を背け、聞き従わず、誘惑されて、他の神々を拝み、仕えることです。その行き着くところは、滅びです。私たちの前に、2つの道が置かれています。一つは、【主】を愛し、主の道に歩み、主の命令とおきてと定めとを守る道です。もう一つは、主から心をそむけ、聞き従わず、誘惑されて、ほかの神々を拝む道です。私たちは、生涯、いのちを選び続ける者でありたいと思います。

 

3、死とのろいを受けられたイエス

私たちは、迷いやすい者です。いつも正しい判断が出来る訳でもありません。もし、私たちがすべての選択の責任を、自分で負わなければならないとしたら、もう絶望的です。私たちの人祖アダムとエバは、サタンの誘惑に惑わされて、間違った選択をしてしまいました。取って食べてはいけないと言われていた善悪の知識の木から、取って食べ、その結果、「死とのろい」を自分の身に負う者となりました。

 

私たちも、アダムとエバ同様、いのちを選ぶことに失敗し、「死とのろい」を身に負う者となりました。聖書は、「すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:12)と言っています。しかし、神様は、「それは、あなたの自己責任だ。仕方ない。あきらめなさい。」とは仰いませんでした。主イエス・キリストは、ゴルゴダの丘で、自ら十字架に掛かり、本来、私たちが受けるべき「死とのろい」を、身代わりとなって受けてくださいました。主イエスさまは、「あなたの間違った選択のすべての責任を私が負う」と言われたのです。

 

Ⅰペテロ 3:18「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」とあります。

 

思い返しますと、救われる前も、救われてからも、たくさん間違った選択をして来たなあと思います。これからもするのではないかと思います。そのことを思うと、自分の愚かさに絶望するばかりです。しかし、多くの間違った選択にも関わらず、「死とのろい」は、私を支配しませんでした。何故なら、愛するイエスさまが、私の愚かな選択のすべての責任を、代わって負ってくださったからです。

 

聖書の中にも、人生の選択を誤った人がたくさん登場します。しかし、イエスさまは、「それは自己責任だ。諦めなさい。」とは仰らず、「悔い改めて、わたしを信じなさい。あなたの罪は赦された。」と仰ってくださいます。イエスさまは、私たちを「死とのろい」に定めるためではなく、神のいのちに生きるようにするために、来てくださいました。

 

私たちは、選択を誤ることの多い者です。しかし、その結果である、死とのろいは、主イエスさまが代わって、全部を受けてくださいました。ですから、私たちの過去の罪、咎は、全部、イエスさまの十字架によって赦されています。過去の失敗だけでなく、私たちの生涯のすべての罪と咎も、既に、イエスさまの十字架で赦されているのです。神さまは、その上で「あなたはいのちを選びなさい」と仰っておられるのですね。ここに私たちの救いと希望があります。

 

4、みことばによって

11~14節  まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行わせようとするのか」と言わなくてもよい。また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行わせようとするのか」と言わなくてもよい。 まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。

 

私は、つい「難しいなあ」とつぶやいてしまうことがあります。自分の欠しい知識で、いろいろと考えて、「難しい」と結論を出してしまうのです。今年、ここから脱却したいと願っていますが、聖書は、私の心を見透かしたように「私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。」と言うのです。そればかりか「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。」と言います。「あなたはこれを行うことが出来る」と、断言しています。

 

私たちは、自分で考えて「難しい」と結論を出すのではなく、「み言葉によって判断する」必要があるのですね。「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる。」とは、言葉が人となって来られた、主イエスさまが、その言葉とともに、私たちと共に、わたしたちのうちに、共にいてくださるのです。

 

今年の深川教会の標語聖句は、Ⅰテサロニケ5章16~18節「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい。」です。このお言葉を、自分の頭で考え、自分の力でやろうとすると、「難しい」と思います。こんな状況で、とても、そんなことできないと思ってしまうのです。ところが、そのお言葉を口ずさみ、思い巡らし、心に刻んで行くとき、み言葉とともにおられるイエスさまが、その恵みも力も与えてくださるのです。

 

5、今日と言う日に

最後に「きょう」と言われていることに心を留めたいと思います。

19節「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、【主】を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。」

 

ヘブル3章7,8節  ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、 荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」

 

私たちにとって大切なのは、過去の選択でもなく、未来の選択でもなく、今日と言う日の選択です。私たちは、今日、いのちを選ぶのです。私たちの選択は、好きとか嫌いとかか、損になるとか得になるとか、自分の感覚や、自分の考えだけで選ぼうとするのではなく、主のみ言葉によります。私たちは、今日と言う日に、主に対して、「はい。」とお答えする者でありたいと思います。神さまは、私たちにも「あなたは、いのちを選びなさい」と仰っておられます。「あなたは」です。誰か、他の人ではなく、「あなたは」です。

 

「人生における重要な選択」という詩をお読みます。

「絶望が私を破壊しそうになるとき、私はいのちを選ぶ。神はいったい何を考えておられるのか、と思うとき、私は信じることを選ぶ。仮借なき現実に苦しみ、逃げ出したくなるとき、私は忍耐を選ぶ。失望と悲しみに押し潰されそうになるとき、私は弱さを打ち明けることを選ぶ。自分の思い通りに進まぬとき、私は、手放すことを選ぶ。人に向かって指をさしたくなるようなとき、私は赦すことを選ぶ。諦めたくなるとき、私は目的を持って行動することを選ぶ。」

 

いのちを選んで行きましょう。