いつまでも残るものは信仰と希望と愛です―キリストを信じるという生き方ー

IMG_2486M150712  『連帯保証人』  箴言6章

1、保証人の覚悟
1~3節  わが子よ。もし、あなたが隣人のために保証人となり、他国人のために誓約をし、あなたの口のことばによって、あなた自身がわなにかかり、あなたの口のことばによって、捕らえられたなら、わが子よ、そのときにはすぐこうして、自分を救い出すがよい。あなたは隣人の手に陥ったのだから、行って、伏して隣人にしつこくせがむがよい。

最初に、保証人になるときの注意が記されています。箴言においては、6回も、保証人になることに対する注意が記されています。一番ストレートに言っているのは、箴言 22章26節です。「あなたは人と誓約をしてはならない。他人の負債の保証人となってはならない。」とあります。

現代においても、「保証人になって欲しい」と頼まれたり、こちらから、保証人をお願いしなければならない時があります。私も、子どもの奨学金を借りるとき、兄弟に保証人をお願いしました。保証人がいないと、借りることが出来ませんから、保証人を引き受けてくれる人がいるということは、本当に有難いことです。

聖書は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(レビ19:18)また、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」(マタイ7:12)と教えていますが、こと、隣人の保証人になる時は、非常に慎重であるべきだと教えています。箴言の知恵は、実際に即した知恵です。

もし、皆さんが、親しい友人から、独立して事業を始めるので、事業資金を借りるときの連帯保証人になって欲しいと頼まれたらどうされますか。「いいよ。君のためになら、喜んで引き受けよう。」と言うでしょうか。しかし、もし、事業が失敗し、保証人にその請求が来たら、自分が破産に追い込まれるケースもあります。そうしますと、その被害は、自分の家族にも及ぶことになりますから、聖書は、そう簡単に、保証人を引き受けてはならないと言うのですね。

この個所で、「あなたの口のことばによって」と2回繰り返されていることに、注意したいと思います。「あなたの口のことばによって、あなた自身がわなにかかり、あなたの口のことばによって、捕らえられたなら」というのは、頼まれた時に、契約内容をよく確認せず、後先考えずに、「いいよ。いいよ。」と軽く引き受けてしまうような場合のことを言っているのでしょう。

箴言17:18には「思慮に欠けている者はすぐ誓約をして、隣人の前で保証人となる。」あります。また、箴 27:13には、「他国人の保証人となるときは、その者の着物を取れ。見知らぬ女のためにも、着物を抵当に取れ。」とあります。決して「安請け合い」してはならないと言うのです。

保証人となるということは、自分も、その責任を負うということです。特に、連帯保証人は、その人が負債を負った場合、その人に代わって、すべての責任を負う義務があります。保証人になるには、それだけの犠牲を払う覚悟があるか、問われるのですね。もし、覚悟がないなら、あるいは、良く考えてとても無理だと思ったら、引き受けてはならないと聖書は、教えるのです。

2、霊的勤勉さ
6~15節  なまけ者よ。蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。 蟻には首領もつかさも支配者もいないが、夏のうちに食物を確保し、刈り入れ時に食糧を集める。 なまけ者よ。いつまで寝ているのか。いつ目をさまして起きるのか。しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また休む。 だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。 よこしまな者や不法の者は、曲がったことを言って歩き回り、 目くばせをし、足で合図し、指でさし、そのねじれた心は、いつも悪を計り、争いをまき散らす。それゆえ、災害は突然やって来て、彼はたちまち滅ぼされ、いやされることはない。

6~15節は、蟻から学ぶようにとのお勧めです。聖書の中には、自然界から、学ぶようにというお勧めが良く出て来ます。イエスさまは、「空の鳥を見なさい。」「野のゆりがどうして育つかよくわきまえなさい。」と仰いました。自然界は、神の知恵の宝庫です。ここでは、「蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ」と言われています。

蟻は、誰から強制されるわけではないのに、やがて来る冬に備えて、夏のうちに食料を蓄えておきます。イソップの「蟻とキリギリス」を思い出しますが、備えの大切さを改めて教えられます。怠りは、貧しさを招くと、知恵は、教えるのです。私たちは、あの小さな蟻から、怠けてはならないこと、勤勉であることを教えられます。

日本人は、とても勤勉な民族と言われます。初めて、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルは、日本人の勤勉さ、礼儀正しさに驚きました。ローマ教皇に充てた手紙に、こう記しました。「この国民は自分たちがこれまで接触してきた諸国民の中で最高に傑出した人々である。まだキリスト教化されていない国民で日本人ほどに優秀な者はない。彼らは総体的に親しみやすく、善良で悪意がない。……日本人は大概貧乏である。だが武士たると平民たるとを問わず、貧乏を恥だと思っている者は一人もいない」

確かに、勤勉さは、日本人の特質の一つだと思います。その点においては、非難されることはないと思います。しかし、イエス様は、まじめで、働き者の青年に、こう仰ったこととがあります。「あなには、欠けたとことが一つあります」。それは、勤勉に働いて、物質的な備えについては怠りはないけれども、霊的な備えについてはどうですかという、イエス様からの問いかけでした。

「しばらく眠り、しばらくまどろみ、しばらく手をこまねいて、また休む。 だから、あなたの貧しさは浮浪者のように、あなたの乏しさは横着者のようにやって来る。」いつの間には、祈りはおろそかになり、聖書も開かず、礼拝やお祈り会の集会出席は後回しになり、献金や奉仕といった恩寵の手段が、おざなりになってしまってはいないでしょうか。それらは、知らず知らずのうちに、霊的貧しさをもたらすことになります。

ローマ 12章11節に「 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」とあります。私たちインマヌエル教会は、メソジストの伝統に生きる教会です。メソジストとは、神様が備えていてくださる恩寵の手段を用いることにおいて、勤勉であるということです。律法主義的だと批判する人もいますが、聖書は、「蟻のところへ行き、そのやり方を見て、知恵を得よ。」と言います。実際的にも、霊的にも、「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕え」させて頂くお互いでありたいと思います。

3、契約を守る
25~35節  彼女の美しさを心に慕うな。そのまぶたに捕らえられるな。 遊女はひとかたまりのパンで買えるが、人妻は尊いいのちをあさるからだ。 人は火をふところにかき込んで、その着物が焼けないだろうか。 また人が、熱い火を踏んで、その足が焼けないだろうか。 隣の人の妻と姦通する者は、これと同じこと、その女に触れた者はだれでも罰を免れない。 盗人が飢え、自分の飢えを満たすために盗んだとしたら、人々はその者をさげすまないであろうか。 もし、つかまえられたなら、彼は七倍を償い、自分の家の財産をことごとく与えなければならない。 女と姦通する者は思慮に欠けている。これを行う者は自分自身を滅ぼす。彼は傷と恥辱とを受けて、そのそしりを消し去ることができない。 嫉妬が、その夫を激しく憤らせて、夫が復讐するとき、彼を容赦しないからだ。 彼はどんな償い物も受けつけず、多くの贈り物をしても、彼は和らがない。

ここに書いていることは、一言でいえば、「不倫をしてはいけない」ということです。現代は、固いことは言わずに、いろいろな価値観を認めてあげましょうという時代です。先日、アメリカの最高裁が、同性婚を認めない法律は、憲法違反だという判決を出しました。同性婚をしている人たちが、社会サービスを受けられるように、法律で認めてあげようということらしいですが、個人的には、とても残念に思っています。

聖書は、結婚は神が定めたもので、一人の男と、一人の女との間に成り立つものだとはっきり書いてあります。社会が移り変わる中で、共同生活の多様性を認めて行くことは必要なことかもしれません。男性と男性が、協力して、子どもを育てるというスタイルもあって良いのかもしれません。

しかし、こと、結婚に関して言えば、やはり神聖なもので、一人の男と、一人の女の間に成立するというのが聖書の教えです。もし、同性婚を認めるなら、一夫多妻制や、ペットとの結婚や、獣婚も認めろということになるのではないでしょうか。枠組みがどんどん崩れて、この世界はカオスの世界となって行くでしょう。

私たちの基準は、聖書にあります。いくら、周りの人たちがしているからと言って、いくら世論が認めたとしても、私たちは、聖書に忠実であるべきです。20、21節に「わが子よ。あなたの父の命令を守れ。あなたの母の教えを捨てるな。それをいつも、あなたの心に結び、あなたの首の回りに結びつけよ。」とある通りです。

聖書は、誰が何と言うと、不倫は罪であり、「大きな代償を払うことになる」と教えています。「人は火をふところにかき込んで、その着物が焼けないだろうか。 また人が、熱い火を踏んで、その足が焼けないだろうか。 隣の人の妻と姦通する者は、これと同じこと、その女に触れた者はだれでも罰を免れない。」不倫の代償は、滅びです。とたえ、うまく立ち回ったとしても、神様の裁きを逃れることは出来ません。私たちは、聖書の言葉を軽んじてはならないと思います。

4、連帯保証人
最後に、もう一度、3~5節に戻って締め括りたいと思います。

3~5節  わが子よ、そのときにはすぐこうして、自分を救い出すがよい。あなたは隣人の手に陥ったのだから、行って、伏して隣人にしつこくせがむがよい。あなたの目を眠らせず、あなたのまぶたをまどろませず、かもしかが狩人の手からのがれるように、鳥が鳥を取る者の手からのがれるように自分を救い出せ。

私たちは、どんなに気をつけていても、罠にはまってしまう可能性があります。あの信仰の勇者ダビデさえ、神様との誓いを破り、バテ・シャバと姦淫の罪を犯してしまいました。人間は、弱いものです。しかし、聖書は、たとえ、罠に陥ってしまった場合でも、自分を救い出す道があるというのです。自分の負債を、免じてくれる人の所へ行って、一生けん命お願いしなさい。そうすれば、逃れることが出来るというのです。

「かもしかが狩人の手からのがれるように、鳥が鳥を取る者の手からのがれるように自分を救い出せ。」とありますが、罠にはまったまま、なすすべもなく、自滅するのを待っていてはいけない。いのちがけで、そこから、逃れるようにしなさいというのですね。神様は、どんな場合でも、脱出の道を、用意していてくださいます。

Ⅰコリント10:13にこうあります。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」

最初に「保証人になるためには、覚悟が必要だ」ということを学びました。特に、連帯保証人は、負債者が返済できないとき、負債者に代って、全責任を負うことが求められます。まさに、身代わりとなるのです。それだけの覚悟といいますか、愛がなければ、とても保証人になることは出来ません。たとえ、愛していると言っても、軽々しくなってはいけないのです。

しかし、救い主イエス・キリストは、自ら進んで、私たちの連帯保証人、身元引受人となって下さいました。私たちが、自分では返済不可能な、罪という負債を負わされていることを知りながら、自ら進んで、私たちの保証人、身元引受人となって下さいました。イエス様は、ご自分のいのちを、私たちの負債の代わりに差し出す覚悟をもって、私たちのれ保証人、身元引受人となってくださったのです。

私たちは、罪という負債を負わされました。自分ではとても払いきれません。しかし、イエス様が、「心配しなくもよい。わたしが、あなたの負債を、全部払ってあげよう。」と仰って、十字架にかかり、ご自身のいのちという代価を払って、私たちを、買い戻して下さいました。私たちの罪の負債は、すべて、イエス様の十字架によって、取り除れたのです。

コロサイ 2:14にこうあります。「いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」

イエス様は、私たちの「連帯保証人」となってくださいました。誰も引き受けたいとは思わない、軽々しく引き受けるべきではない、その連帯保証人を、イエス様が受けてくださったのです。もし、罠に陥ってしまったと思ったら、すぐに、私たちの連帯保証人であるイエス様の所に駆け込んで行って、「主よ、私をお赦しください。私をお救いください。」とお願いすればよいのですね。イエス様は、私たちを救い出すことがお出来になります。

今週も、私たちの連帯保証人である、イエス様の大きな愛の中に守られ、感謝し、信頼し、喜んで、イエス様の御心に沿って歩んで参りたいと思います。

1~3節  わが子よ。もし、あなたが隣人のために保証人となり、他国人のために誓約をし、あなたの口のことばによって、あなた自身がわなにかかり、あなたの口のことばによって、捕らえられたなら、わが子よ、そのときにはすぐこうして、自分を救い出すがよい。あなたは隣人の手に陥ったのだから、行って、伏して隣人にしつこくせがむがよい。

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