いつまでも残るものは信仰と希望と愛です―キリストを信じるという生き方ー

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

M150816 「争いと平和」 箴言17章

1、平和への祈り
1節  一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。

箴言の中に「争い」という言葉が、28回出てきます。どうして「争い」が起こるのか、また、「争い」がいかに、愚かで、つまらないものであるか、どうしたら、争いを避け、平和な関係を構築できるのか、その知恵が語られています。今日は、「争いを避ける知恵」「平和な関係を築く知恵」を、学んでみたいと思います。

「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」
箴 15:17には「野菜を食べて愛し合うのは、肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。」とも書いてあります。どちらも、たとえ貧しくとも、平和な家庭の方が、どんなに豊かであっても、争いに満ちた家庭よりも勝っていることを教えています。「争い」には価値はなく、「平和」こそ尊いものだと教えています。

林竹治郎の「朝の祈り」という絵をご覧になったことがあるでしょうか。丸いちゃぶ台の上に聖書が置いてあり、その周りに、お母さんと4人の子供たちが座って、朝の祈りを捧げている絵です。一番小さな子は、お母さんの膝に顔をうずめ、その子の前のテーブルの上には、飲み薬(たぶん)が置かれています。お父さんは、戦地に出ていて、不在のようです。

その絵を見ながら、彼らは、何を祈っていたのだろうかと思い巡らしてみました。「早く戦争が終わって、お父さんが無事に帰って来ますように」と祈っていたのかもしれません。「子供の病気が治りますように」と祈っていたのかもしれません。いずれにしても、「平和を求める祈り」に思いを馳せました。

人は、富を求めるあまり、平和という最も大事なものを見失ってしまうことがあるようです。人の貪欲というのは、人間の理性を狂わせ、いのちさえも、蹴散らして行きます。私たちは、そんなことはないだろうと甘く考えるのですが、戦争というのは、人を狂わせ、人のいのちを飲み込んで行きます。先の大戦では、日本だけで310万人、中国では1000万人以上の尊いいのちが犠牲となりました。

箴言 28章25節に 「欲の深い人は争いを引き起こす。しかし【主】に拠り頼む人は豊かになる。」とあります。私たちが求めるべきは、主イエスさまです。主イエスさまの愛だけが、私たちの心を完全に満たすことが出来ます。イエスさまという宝こそ、すべてに勝る宝です。イエス様を信じるところに、平和が訪れます。クリスチャンは、かたじけなくも、イエスさまという宝を心に頂いています。すべての必要を満たしてくださる主に、しっかりとより頼り頼ませていただきましょう。

14節に「争いの初めは水が吹き出すようなものだ。争いが起こらないうちに争いをやめよ。」とあります。平和は、壊れやすいのです。油断していると、敵によって、争いの種が撒かれ、気が付いたときには、争いに巻き込まれているということにならないように、目を覚ましていましょう。

70回目の終戦記念日を迎え、私たちは、もう一度、平和の誓いを新たにしたいと思います。この平和は、まず、私たちの内から始まります。神との平和が土台です。そして、家族の平和、教会の平和、国家の平和、近隣諸国との平和と平和の輪が広がって行くなら、何と幸いでしょうか。「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」それぞれの家庭に、主の平和がありますよう、お祈りいたします。

2、相手が誰でも、人格を尊重する
では、具体的に、どうやって、争いを避け、平和な関係を築いて行けるのでしょうか。特に、箴言は、身近な人間関係における平和について、そのヒントをたくさん教えています。そのついの幾つか取り上げてみたいと思います。

5節 貧しい者をあざける者は自分の造り主をそしる。人の災害を喜ぶ者は罰を免れない。

リビング・バイブルではこういう訳です。「貧しい人をばかにするのは、その人を造った神様をばかにするのと同じです。神様は人の不幸を喜ぶ者を罰せられます。」その人の立場や外見で、判断してはいけないというのです。貧しい人を軽く見るのは、その人にいのちを与え、その人に個性を与え、その人をご自身のかたちに似せて造られた創造主なる神様をばかにすることだと聖書は教えます。

相手の人格を尊重する。相手が子供でも、貧しい身なりをした人でも、その人の人格を尊重することが、良い関係を築いて行く秘訣だと聖書は言います。人をさげすむような心、態度で接すると、相手にも伝わります。争いは、相手の人格を軽んじるところから、生じてきます。箴言 13:10に「高ぶりは、ただ争いを生じ、知恵は勧告を聞く者とともにある。」とある通りです。

人のいのちを軽んじるところに真理はありません。イエスさまは、貧しい者、病める者、罪人たちにのところに、福音を伝えるために来られました。私たちは、イエスさまから、他の人に対する態度を学びます。イエス様に罪を許してもらった人は、皆、イエスさまが、罪ある自分を穢れた者としてではなく、一人の人間として、愛と尊厳をもって接してくださったことに感動しました。それは、イエスさまが、私たちが神のかたちに似せて造られた、尊い者であることを、認めてくださったからです。

社会の片隅で、人目をはばかって暮らしていたサマリヤの女にも、イエスさまの方から近づき、彼女を見下すことなく、対等に話しをしてくださいました。イエス様ほど、人の尊厳を認めてくださった方はいませんでした。人々から嫌われていた取税人サアカイに対しても、イエスさまは、「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と、イエス様の方から友となってくださいました。

3度も「イエスなんて知らない」とイエスさまを裏切ったペテロに対しても「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と、見捨てることなく、祈り続けてくださいまいた。イエスさまこそ、私たちの人格を尊重してくださる方です。ですから、私たちも、イエス様に倣って、相手の人格を尊重するのです。

3、がみがみ言わない
9、10節  そむきの罪をおおう者は、愛を追い求める者。同じことをくり返して言う者は、親しい友を離れさせる。 悟りのある者を一度責めることは、愚かな者を百度むち打つよりもききめがある。

9節には、「そむきの罪をおおう者は、愛を追い求める者。同じことをくり返して言う者は、親しい友を離れさせる。」とあります。「同じことを繰り返し言う」とは、がみがみといつまでも言い続けるということでしょう。聞く方も、同じことをくどくどと言われると、気持ちが滅入ってきます。「がみがみ言わない」ことが、争いを避ける秘訣だというのです。

10節にありますように、1度言えば良いのですね。リビングバイブルではこう訳しています。「思いやりのある人は人のまちがいを水に流し、いつまでもこだわる者は親友までも失います。物わかりのいい人は一度しかれば十分です。」祈りもって、愛を持って、穏やかに言ったら、あとは主に信頼して、聖霊の導きに委ねつつ、祈ればよいのですね。同じことを繰り返し言うのは、逆効果です。忍耐をもって、そむきの罪をおおう愛をもって、くどくど言わず、短く言ったら、あとは、聖霊の導きに委ねて祈る、それが知恵だと言います。

女性には、少し失礼な言い方かたもしれませんが、箴 27:15には、「長雨の日にしたたり続ける雨漏りは、争い好きな女に似ている。」ともあります。箴 21:19 には「争い好きで、うるさい女といるよりは、荒野に住むほうがまだましだ。」とも言われています。怒られるしれませんが、女性は、がみがみ言うことが多いのでしょうか。もちろん、そうでない方もおられますし、男性でもそういう人はいると思います。

私たちの伴侶者への態度、子供に対する態度、会社の同僚に対する態度、隣人に対する態度は、どうでしょうか。がみがみ、ねちねち言い続けると、嫌われます。「もう聞きたくない」「うざい」とか、「うっせ」とか言われて、拒絶されてしまうでしょう。箴言は、一度言えば十分と言っています。「罪をおおう愛をもって少し言う」そして、あとは、聖霊の導きに委ねて、静かに祈る。私の経験から言っても、その方が、伝わるようです。お互い、この聖書的な方法を身に着けたいですね。

箴言 20章3節には「争いを避けることは人の誉れ、愚か者はみな争いを引き起こす。」とあります。争いを避けることは、人の誉れです。愚か者は、そのまま突っ込んで行きます。争いが起こらないよう、穏やかで、平和な心で、愛を込めていうことがカギだと思います。「愛をもって少し言う」「赦しの心をもって少し」箴言の知恵を実践してみたいものですね。

4、苦しみを分け合う
17節  友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。

ただ争いを避けるだけではなく、より堅固な信頼関係でむすばれれてこそ、平和はゆるぎないものとなってゆきます。何よりも、イエスさまが、私たちの友となってくださいました。私たちが罪に悩み、苦しんでいるとき、イエス様は、私たちのところに降りてきてくださって、一緒に、その苦悩を負ってくださいました。

私たちが、自分の罪と咎を背負いきれず、沈む込んで行くとき、「恐れるな。私が、あなたの罪と咎を背負った。」と仰り、右の手を握ってくださいました。そして、私たちを滅びから引き上げてくださいました。私たちを見捨てることなく、十字架にまで下られ、私たちの罪と咎を、一緒に負ってくださいました。イエスさまこそ、私たちの苦しみを分け合うために、来てくださったお方です。

イエス様は、私たちの友となってくださいました。私たちが、どんな状態の時にも、変わらぬ愛で、愛してくださいます。そして、私たちが重荷にあえぐときも、主は、その重荷をともに背負ってくださいます。イエスさまこそ、私たちの苦しみを分け合うために来てくださいました。

そのイエスさまに救われた私たちは、今度は、他の人の苦しみを分け合って行くのです。
Ⅰヨハネ 3:17 世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。とあります。

週報の中ほどのページに「平和を求める祈り」を載せておきました。 

主よ、わたしを平和の器とならせてください。
  憎しみがあるところに愛を、
  争いがあるところに赦しを、
  分裂があるところに一致を、
  疑いのあるところに信仰を、
  誤りがあるところに真理を、
  絶望があるところに希望を、
  闇あるところに光を、
  悲しみあるところに喜びを。

ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
  理解されるよりも理解する者に、
  愛されるよりも愛する者に。
  それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、
  許すことによって赦され、
  自分のからだをささげて死ぬことによって
  とこしえの命を得ることができるからです。

私たちも、「主よ わたしをあなたの平和の器としてお使い下さい」と祈りましょう。
キリストの平和が、まず、私たちの内にありますように。次に、私たちの家、私たちの家庭にありますように。そして、教会に、国家に、近隣諸国に、キリストの平和が満ちてゆくように、お祈りしましょう。

争いは、愚かです。平和ほど尊いものはありません。
キリストの平和がありますように。

1節  一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。
14節  争いの初めは水が吹き出すようなものだ。争いが起こらないうちに争いをやめよ。
17節  友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。