いつまでも残るものは信仰と希望と愛です―キリストを信じるという生き方ー

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「心の奥底に、主のきよさと愛を」 ヨハネ7:37~39

1,仮庵の祭り
37節「祭りの終りの大いなる日にイエスは立ちあがって大声で言われた。」

ヨハネ7:2~10も読みたいと思います。
「さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた。 そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。 自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行う者はありません。あなたがこれらの事を行うのなら、自分を世に現しなさい。」 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。 そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。 世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行いが悪いことをあかしするからです。 あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。」 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。しかし、兄弟たちが祭りに上ったとき、イエスご自身も、公にではなく、いわば内密に上って行かれた。

この祭りというのは、ユダヤの3大祭りの一つで、「仮庵の祭り」という最も大きな祭りでした。クリスチャンは、祭りというと、偶像の祭りと結びついて、あまり良いイメージがないかもしれませんが、イスラエルの人たちにとっては、神様が、エジプトの奴隷状態から解放し、約束の地に入れてくださった出エジプトの恵みを思い起こし、その出来事を子供たちに伝えて行く大事な行事でした。

旧約聖書のレビ記 23章42、43節でこう命じられています。「あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな、仮庵に住まなければならない。これは、わたしが、エジプトの国からイスラエル人を連れ出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたがたの後の世代が知るためである。わたしはあなたがたの神、【主】である。」

「1週間テント暮らしをしてご御覧なさい。」というのですね。それで、彼らは、ナツメヤシの葉っぱや、木の枝などを取って来て、自分たちの家の庭や屋上に、簡単な小屋、仮庵を作り、祭りの期間、その小屋で生活をします。子供たちは、大喜びです。まるで、キャンプのようで、とても楽しい祭だそうです。

もし、現代に生きる私たちが、1週間、テント生活を続けたらどうでしょうか。家の庭や、屋上に、テントを張って、そこで、生活をする。エアコンもない。冷蔵庫もガスコンロもない。暑くて、不便で、3日もすれば、音を上げてしまうでしょう。しかし、そうやって、彼らは、先祖たちが、荒野で天幕生活をしてきたことを少しでも思い起こしたのです。

「ああ。本当に大変だったんだろうなあ。それにしても、よく神様が守ってくださったものだ。」と、神様が、40年間、水も食べ物もない荒野の旅を導き、水や、食べ物、すべての必要を与えてくくださったことに感謝し、信仰を新たにしたことと思います。仮庵の祭りとは、出エジプトの荒野の旅を思い起こし、道中のすべてに、神の守りがあったことを思い起こし、同じ神様が、私たちをも導いてくださると、信仰を

ヘブル 11:13 「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。」とあります。私たちも、永遠の住まい、天の住まいを目指して、旅を続ける旅人です。

晴れの日も、曇りの日も、雨の日も、嵐の日も、神の守りの中で、歩み続けて行きます。主は、イスラエルの人たちにしてくださったように、その全行程を守り、約束の地に導き入れてくださいます。教会シークワーサーの木に「蛹」がいますが、やがて、美しい蝶になるでしょう。

私たちは、死んで終わりではなく、変えられるのです。イエス様の復活の力によって、私たちの朽ちて行く体は、不死を着せられ、栄光の体に変えられるのです。蛹が蝶に変わるように、私たちは変えられるのです。この「栄化の希望」を、しっかりと持ちましょう。私たちの永遠の住まいは、天にあります。

2、魂の渇き
37、38節  さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

出エジプト記17章を読みますと、荒野を旅する中で、イスラエルの人々が、喉が渇いたといいって、神様に呟いたことが記されています。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」と、モーセと神様に文句を言ったのです。水がないと、人は生きて行けませんから大問題です。

そのとき、神様は、モーセに、エジプトで奇跡を起こしたあの杖で、ホレブの岩を打つように言われました。モーセが、そのようにすると、岩が裂け、岩からおいしい水が流れ出ました。人々は、その水を飲み、喉の渇きをいやすことが出来ました。仮庵の祭りでは、その出来事を記念して、祭司が、シロアムの池から水を汲み、黄金の器に入れて神殿に運び、祭壇に注ぐという儀式が行われていました。それが祭りのクライマックスです。

荒野を旅するイスラエルの人たちにとって、水こそ命でした。荒野ではお金がなくても生きて行けますが、水がないと生きて行けません。私たちの体の6割は水でできているそうです。赤ちゃんの体は75%が水、老人の体は50%が水だそうです。水がないと生きて行けません。

私たちの体に水が必要であるのと同様に、私たちの魂には、「生ける水」である聖霊は、どうしても必要なのです。詩篇42篇に「鹿が谷川の流れをしたいあえぐように、神よ。私の魂はあなたを慕いあえぎます。私の魂は神を、生ける神を求めて渇いています。」とあります。

私たちの魂は、渇きます。生ける神を求めて渇いています。イスラエルの人たちが、荒野を旅する中で、のどが渇いて、叫んだように、この世を旅する私たちも、しばしば、魂の渇きを覚え、神に叫びます。たとえ、それが声にならない求めであっても、主は、その求めを受け止めてくださいます。渇いているなら、主に向かって求めましょう。神様の愛を求め、神様の義を求め、神様の憐みを求め、神様の救いを求めて、生ける神ご自身を求めて、イエスさまのところに行きましょう。

3,生ける水の川
38、39節 「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」

「人の心の奥底」とは、どこにあるのでしょうか。心の奥底とは、私たちの存在の根源、私たちの思いが出てくるところ、私たちの言葉や行動が表れてくる、人格の最も深いところと言えるでしょう。「心の奥底」イコール「魂」です。あるいは、私たちの「心の王座」ということも出来ると思います。心の奥底も、魂も、神様と霊的に交わる場所です。神様のいのちを受け取る場所です。

その心の奥底が、何かで塞がれていたら、生ける水の川は、流れてきません。今、私たちの心の奥底は、どんな状態でしょうか。生ける水の川がこんこんと、湧き出してきているなら幸いです。しかし、からからに渇いて、流れは止まり、不平や心配というゴミがたまっているなら、そのままにしておいてはいけません。

ヨハネが、「生ける水の川」と表現しているように、私たちの魂は、絶えず新鮮な聖霊の恵みが流れている状態こそ、神様が望んでおられる正常な状態です。この生ける水は、神様から供給され続け、こんこんと、湧き出て、流れ出して行くのです。私たちの心の奥底は、聖霊の恵みが湧き出てくる泉なのようなものです。

先週の前半、お休みをいただいて、富士山の麓を歩いて来ました。天気は、曇り時々雨でしたが、山に登り、神様の創造された大自然を見ながら、創造主をほめたたえました。富士山の麓には、大小様々な泉があります。富士山に降った雨や、雪が解けて、地下のフィルターを通り、ミネラルを豊富に含んだ、冷たくておいしい水が、泉から湧いています。常に、水が流れているので、きれいです。

入ってくる流れが止まれば、泉は枯れてしまいます。出てゆく流れが止まれば、沼となり、底に泥がたまり、水は濁ってきます。ボウフラがわき、メタンガスが発生してきます。私たちの心の奥底も、絶えず、神様の恵みが流れ込み、その流れが、外に流れだしていることが、健康なあり方です。

私たちの魂の奥底に、生ける水の川が流れているでしょうか。聖霊の供給がストップしていませんか。受けた恵みは、ちゃんと他の人に流れているでしょうか。私たちは、様々な問題課題のの中で、知らず知らずのうちに疲れ、魂がからからに渇いてしまっていることがあります。

深川教会の今年の標語聖句は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」です。魂が渇くと、喜びがなくなり、祈れなくなり、感謝がなくなってきます。そんな状態を続けて行くのは大変危険です。イエスさまは、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と招いてくださっています。イエス様のところに行って、飲みましょう。

士師記に出てくるサムソンは、大きな戦いをした後で、ひどく渇きを覚えて、神様に言いました。「今、私はのどが渇いて死にそうで、無割礼の者どもの手に落ちようとしています。」すると、神様は、レヒにあるくぼんだ所を裂かれ、水を飲ませてくださいました。サムソンは、その水を飲んで元気を回復しました。その場所は、エン・ハコレと呼ばれるようになりました。

エン・ハコレのエンは泉、ハは定冠詞、コレは英語のコールです。「呼ばわる者の泉」です。神様が、疲れたサムソンの叫びに答えて、泉を用意してくださいました。エン・ハコレ、エンヤコーラと似ていると思いませんか。「おとうちゃんの為ならエンヤコーラ、おかあちゃんの為ならエンヤコーラ」「さあ、もういっちょ、頑張りましょう。」という意味でしょうか。

私たちの場合は、「イエス様のためなら、エン・ハコーレ」ですね。もう一度、「呼ばわばる者の泉」から、生ける水を飲ませて頂き、サムソンのように、元気を回復し、下半期の営みに、家庭建設、教会建設に、立ち上がって行きたいと思います。大胆に、恵みの御座に近づき、今、必要な助けと恵みを受け取らせて頂きましょう。

4、信じて飲もう
黙示録22章17節に「渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、それをただで受けなさい。」とあります。

この貴重な「いのちの水」を、何とイエスさまは、「ただで」与えてくださるのです。それは、イエスさまが、私たちを愛しておられるからです。親が子に、自分を犠牲にしてでも、最も良きものを与えるように、イエスさまは、私たちに「ご自分のいのち」とも言える聖霊を与えてくださいました。この「生ける水である聖霊」は、イエス様の十字架の犠牲と引き換えに、私たちに与えられました。

イエスさまは、「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」と言われました。神様は、求める者に、惜しみなく与えてくださいます。

イエス様は、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」と仰いました。皆さんの魂は、渇いておられないでしょうか。魂の渇きをいやす唯一の方法は、イエス様のところに行って、いのちの水である聖霊に、満たされることです。それ以外に、渇きをいやす道はありません。イエスさまは「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」と言われました。

「イエス様を信じる」とは、心の奥底に、イエス様をお迎えすることです。自分が、心の王座から降りて、イエス様を我が主、我が神として、お迎えするのです。ヘリ下って、心の王座に、主イエスさまを迎えるとき、私たちの心の奥底から、生ける水が川のように流れ始めます。

生ける水である聖霊は、私たちの心をきよくしてくださいます。私たちの心を塞いでいた、失望や、恐れや、不信仰を押し流し、主にある平安と、救いの喜び、永遠のいのちの希望を新しくしてくださいます。私たちの心に、聖霊によって、神の愛が注がれます。それによって、私たちは、神のいのち、永遠のいのちに生きることが出来るのです。

エゼキエル47:9には、「この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。」とあります。生ける水である聖霊は、私たちの魂をいやし、そして、周りの方々に、その恩沢が流れて行くようになります。

イエスさま、私たちの心の奥底を、ご自身の十字架の血潮できよめてくださいます。罪や、不信仰、汚れを洗い清めてくださり、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という御霊の実を結ばせてくださいます。

難しいことではありません。誰でも、渇いているなら、イエス様のもとに行き、イエス様を我が神として、心の奥底に迎えればよいのです。問題は、飲むか、飲まないかです。何を差しおいても飲ませてください。という人に、イエスさまは、喜んで聖霊を与えてくだいます。

37~38節 をご一緒にお読みしましょう。
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」