M150913 『わたしは背負う』 イザヤ46章
1、背負いたもう神
3、4節 「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」
「あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。」若くて、元気で、何でもできるときだけでなきく、年をとって、何かするもの億劫になって来たとしても、だからこそ、「わたしは背負う」と言われるのです。新改訳は、「わたしはそうしてきたのだ。」と訳していますが、口語訳と新共同訳は「わたしは、あなたを造った故」と訳しています。「わたしが、あなたを造ったのだ。だから、最後まで背負うのは当然だ。」というのです。天のお父さんが、子である私たちを背負って、天の御国まで運んでくださると言われるのですね。
皆さんは、子どもの頃、お父さんやお母さん、おじいさんやお婆さん、あるいは、学校の先生とかに、おんぶしてもらった記憶があるでしょうか。私は、子どもの頃病弱で、夜中によく高熱を出して、母がおぶって病院に連れて行ってくれました。残念ながら、その時のことは、よく覚えていないのですが、おんぶするときに使われた「えんじ色のおんぶひも」のことは、思い出します。高熱で意識が薄れる中で、母がそのおんぶひもで私を負ぶって、病院に連れて行ってくれたのです。
3・11の大津波が襲ってきたとき、岩手県の大槌保育園では、園児たちはお昼寝から目が覚めたばかりでした。保育士さんたちは、寝ぼけ眼の子供たちをパジャマのままバギーに載せ、とりあえず近くのコンビニに避難しました。しかし、さらに津波が押し寄せてくる危険を感じた園長は、「山に逃げよう。」と決断しました。「怖い、怖い」と言って泣きじゃくる子供たちを、保育士さんたちが背負って、斜度が30度もある山の急斜面を、木や切株に手を掛けながら、必死で上って行きました。下を見ると、大槌湾から押し寄せる大波が、すべてを押し流して行くのが見えました。保育士さんたち背負われて、山に逃げた子供たちは、その背負われた時のことを一生忘れることはないと思います。
聖書は、私たちが母の胎にいるときから、私たちひとりひとりを背負っておられると、言っています。背負うというのは、もちろん、比喩的な表現ですが、母が愛する子をおぶるように、神は私達を、背負って運んでくださるのです。私達が、若くて力のある時だけでなく、重荷に疲れて歩けなくなったとき、私達をただ、遠くから見守っていてくださるだけでなく、私達を背負って運んでくださるのです。
有名な「あしあと」という詩があります。
ある人が、夢を見ました。それは主とともに海岸を歩いている夢でした。砂浜に二組の足跡が、続いていました。ひとつは主のもの、そしてもうひとつは自分のものでした。ところが、ある個所にくると、ひとつの足跡しかありませんでした。そして、それは、彼の人生で、最も困難で、悲しみに打ちひしがれているときでした。
彼は、主に尋ねます。「主よ、かつて私があなたに従うと決心した時、あなたはどんな時も私とともに歩んでくださると約束されたではありませんか。でも私の人生で最も苦しかった時、ひとつの足跡しかありません。私が最もあなたを必要としていた時、どうしてあなたは私を置き去りにされたのですか?私には理解できません。」
主は答えます。「わが子よ、わたしは、あなたを見捨てたりはしない。あなたが試練や苦しみの中にあった時、たった一組しか足跡がなかったのは、私があなたを背負って歩いていたからだよ。」私たちも、改めて、自分のこれまでの歩みを振り返ってみますと、試練のとき、辛かったとき、不思議な助けがあったことに気が付くのではないでしょうか。私たちが、気づかなくても、神様が私を運んでくださったのですね。
2、偶像に注意せよ
それと、対照的なのが、偶像を頼りにする人生です。
1、2節 「ベルはひざまずき、ネボはかがむ。彼らの偶像は獣と家畜に載せられ、あなたがたの運ぶものは荷物となり、疲れた獣の重荷となる。彼らは共にかがみ、ひざまずく。彼らは重荷を解くこともできず、彼ら自身もとりことなって行く。」
6、7節 「袋から金を惜しげなく出し、銀をてんびんで量る者たちは、金細工人を雇って、それで神を造り、これにひざまずいて、すぐ拝む。彼らはこれを肩にかついで運び、下に置いて立たせる。これはその場からもう動けない。これに叫んでも答えず、悩みから救ってもくれない。」
「ベル」とか「ネボ」というのは、バビロニアの偶像の名前です。なかなかしゃれた名前ですが、人間が作った神で、いくら叫んでも答えはなく、いざというとき全く役に立ちません。どうも、人間は、目には見えないけれども、人格を持った神さまを礼拝するより、より、目に見える、分かりやすい神を拝みやすい傾向があるのだと思います。
偶像は、何も答えてくれないばかりか、礼拝する者を、間違ったところに導いて行きます。偶像は、「人間の欲望」「人間の願い」を形にしたものです。「ベル」は、もともと農耕の神さまでしたが、やがて、バビロンの守護神に昇格したそうです。「ネボ」は、その息子です。「雨を降らせてくださる神」だから、彼らが戦いに負けたときに、荷車に積んで、一緒に逃げたのです。重たい偶像を引いて行くのは、大変でしたでしょう。
「担われる神と担いたもう神」という説教をされたことがあります。「担われる神」とは、お神輿のように、人から、わっしょい、わっしょいと担がれて、人間の欲望を達成するために、利用される偶像です。それに対して、「担いたもう神」は、私たちの悲しみや、苦しみ、痛みを、共に背負ってくださる神です。
8、9節にこうあります。「このことを思い出し、しっかりせよ。そむく者らよ。心に思い返せ。遠い大昔の事を思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。」偶像の最大の欠点は、私たちを真の神から、引き離すことにあります。私たちは、頼りにならない偶像に、より頼むことがないよう、注意しましょう、私たちを造られ、今も、私たちを愛して、導いてくださっている神様に、信頼して歩んで行きましょう。
3、勝利は近い
13節 わたしは、わたしの勝利を近づける。それは遠くはない。わたしの救いは遅れることがない。わたしはシオンに救いを与え、イスラエルにわたしの光栄を与える。」
イエスさまは、信じる者たちを、罪から贖い、天の御国へと導き入れてくださいます。イエスさまは、単に行くべき道を示されるだけではありません。時に、道を見失い、罪の中をさまよい、疲れ果てて動けなくなってしまった私たちを、背負って、正しい道へと連れ戻してくださいます。
エルサレムに、イエス様が、十字架を背負って歩まれた道「ビア・ドロローサ」「悲しみの道」があります。イエス様が、ローマの総督ポンテオ・ピラトの前で裁判を受けられ、何も悪いことはされなかったのに、鞭打たれ、いばらの冠を被らされ、つばを吐きかけられ、十字架を背負わされて、ゴルゴダの丘まで歩かせられました。イエス様の肩に、十字架の重荷が、ずしりと置かれました。
この十字架は、本来、私たちが負うべき十字架でした。イエス様が背負われた十字架には、すべての人の罪が凝縮されているのです。しかし、イエス様は、私たちに代わって、罪の重荷を負われました。イエス様は、ゴルゴダの丘で、ご自分を罪過のための捧げものとして、捧げられました。イエス様は、十字架の上で、「完了した」と仰いました。
イエスさまが、最後まで、十字架を背負ってくださったがゆえに、私達は、罪が赦され、天国に入る道が開かれました。私たちは、自力で、天国に入ることは出来ないのです。そんな力も、そんな資格も持っていません。ただ、主に背負われてのみ、天の御国に入ることが出来るのです。主イエス様が、私たちを背負って御国に入れてくださる以外に、道はありません。
「あなたがしらがになっても、わたしは背負う。」これは、天の御国に入るその時まで、決して見捨てることなく、責任をもって、背負ってくださるということです。老年の良いところは何でしょうか。富士山に登ったことがある方は、分かると思いますが、だんだんと登って行くにつれ、視界が開けてきます。それまで、それまで辿って来た道がはるか下に見えます。そして、頂上、ゴールがまじかに見えてくるのです。
9合目までくると、頂上がはっきりと見えます。登山の初心者には、最後の1区間が、けっこうきついのですが、しかし、もうそこに頂上が見えているので、「あと、もう少し。あともう少しだ。」と自分に言い聞かせて、1歩1歩、上って行きます。そして、頂上に着いた時の喜びと、達成感は格別です。それまでの疲れが吹っ飛びます。
神様は、「わたしは、わたしの勝利を近づける。それは遠くはない。わたしの救いは遅れることがない。わたしはシオンに救いを与え、イスラエルにわたしの光栄を与える。」と言われるのです。私たちは、死という敗北に近づいているのではありません。永遠のいのちという勝利に近づいているのです。そして、その勝利は、自分の力によってではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって与えられる勝利です。
「わたしの勝利」「わたしの救い」「わたしの光栄」を与える。とあります。「わたし」とは、十字架で罪の贖いを成し遂げてくださったイエス・キリストに他なりません。私たちは、イエス様によって、勝利者となるのです。死を打ち破って、復活されたイエス様に、信仰によって繋がるとき、私たちも勝利者となるのです。「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」とある通りです。
先ほど、富士山登山の話をしました。私は1度しか上ったことがありませんが、普段運動不足のせいもあり、最後の9合目から頂上までが、体力的にはきつかったですね。「9合目まで来たから、もう、ここで終わりにしてもいいじゃないか。」とも思いました。でも、「今、見えているあの頂上に立ってみたい。」その思いが、勝ちました。
私たちの人生も、この富士山登山に似ているところがあると思います。ご高齢の皆さまは、今、9合目におられるのです。もう、頂上は見えています。天の御国に入る栄光の時は、遠くはありません。しかし、霊的にも、この9合目から頂上までが、最後の難関です。「もう、これくらいでいいではないか。」という誘惑がやってきます。いえ。9合目で、終わってしまってはだめです。ちゃんと、ゴールしないと、勝利はありません。
しかし、心配することはありません。神様は、約束してくださっています。
「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」
最後の難関だからこそ、主は背負って運んでくださるのです。私たちは、信仰の手で、しっかりと、主の背中につかまって、運ばれてゆきます。神の背につかまるその手は、祈りの手です。私たちは、祈りによって、神様に背負われて行くのです。最後まで、祈りの手を放してはいけません。何も出来なくても、祈ることは出来ます。それが、神の背中に背負われることです。
ヘルマン・ホイヴェルスの「祈りこそ、最上のわざ」という詩があります。「神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ。手は何もできない。けれども、最後まで祈ることはできる。愛するすべての人のうえに、神のめぐみを求めるために。すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。「来なさい。わが友よ。わたしは、あなたを見捨てない。」と。
老いるとは、それまでがっちり握っていたその手を離し、神様の大きな愛の中に、自分の身も心も委ねて行く訓練です。「わたしは背負う」と言われる神様に、素直に背負って頂きましょう。そして、安心して、のびのびと、残された地上生涯を歩んで行きましょう。祝福をお祈りいたします。
13節 わたしは、わたしの勝利を近づける。それは遠くはない。わたしの救いは遅れることがない。わたしはシオンに救いを与え、イスラエルにわたしの光栄を与える。」
3,4節 「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」