いつまでも残るものは信仰と希望と愛です―キリストを信じるという生き方ー

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

M151018 「いのちは、心の新陳代謝」 コロサイ3章1~12節

1、心の新陳代謝
9、10節 「あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」

インマヌエル教会の特色は「きよめ」にあります。英語でいうとホーリネスです。「きよめ」とは、いろいろな言い方が出来ると思いますが、一言でいえば、「イエス様の似姿に、日々新しくされて行く」ということです。「古いものを脱ぎ捨てて、新しい人を着る、そして、イエス様の似姿に、ますます造り変えられてゆく」のです。

皆様は、意識せずとも、私たちの体が、日々新しくされていることをご存じだと思います。新陳代謝と言いますが、新陳代謝とは、古い細胞が、次々と新しい細胞に入れ替わって行くことです。この新陳代謝は、生命維持に不可欠なもので、新陳代謝がストップしてしまいますと、人は死んでしまいます。たとえば、胃腸の細胞は5日間で、心臓は22日間、肌の細胞は28日間、骨の細胞は約3か月で、すっかり入れ替わるそうです。

そのおかげで、多少の傷や不具合は、治ってしまうのですね。そして、これは、人が意識して行うものではありません。多くの新陳代謝は、私たちが寝ている間に行われるそうです。まさにいのちというのは、神様によって与えられているものなのだなあと思います。しかし、年齢とともに、この代謝能力は落ちてきます。それで、新陳代謝を高めようとして、サプリを飲んだり、適度な運動をしたり、いろいろ努力する訳です。

一方、私たちの心は、どうでしょうか。心にも、新陳代謝が必要です。心の新陳代謝が下がってきますと、いらいらしたり、暗くなったり、怒りっぽくなったり、恵まれな状態に陥ります。古い心が新しくされて行かないのです。これは、大問題です。心の新陳代謝は、肉体の新陳代謝と大きな違いがあります。それは、肉体の代謝能力は、年齢と共に落ちて行きますが、心の代謝能力は、クリスチャンの場合、むしろか活発になって来るのです。

パウロは、Ⅱコリント 4:16でこう言っています。「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」年齢と共に、体の新陳代謝が下がって来るのは避けられませんが、心の代謝能力は、むしろ活発になって来るとパウロは言っているのです。これは、パウロだけでなく、イエスさまを信じる人、皆に当てはまります。

同じくⅡコリント 5:17 には、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とあります。イエスさまを信じた時に、このお言葉を、救いのみ言葉として頂いた方もおられると思います。しかし、心の新陳代謝は、イエスさまを信じて救われたときの1回で終わりではなく、1年に1回行われるものでもなく、日々、行われるものです。

私たちの肉体において、新陳代謝が必要不可欠なように、私たちの心が日々、イエスさまを信じる信仰によって、新しくされてゆくことは、私たちが永遠のいのちを生きて行くために、必要不可欠なことです。永遠のいのちとは、物みたいに、ポンと与えられるものではありません。日々、聖霊によって新しくされて行く、そこに生ける神が下さる霊的ないのちがあるのです。神のいのちとは、心の新陳代謝です。

2、古いものを捨てる
8、9節 しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、

新しくされる為には、その前に、古いものを捨てなければなりません。古いものを持ちながら、新しくされることは不可能です。古いものは捨て、そして、新しいものを得ます。古いものとは、私たちがイエス・キリストを信じる以前に、持っていた肉の性質です。古いものとは、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、私たちの口から出る恥ずべきことば、そして偽りといったものです。

イエス様を信じて救われた私たちは、それらが、罪であり、持っていても意味がなく、むしろ私たちに害を及ぼすものだということが分かりました。害になるのものを捨ててしまうのは当然のことです。しかし、ある人は、なかなか捨てられません。何故なら、それらのことが、癖とか、習慣になってしまっているからですね。「やめたいけれども、やめられない」そう言って悩みます。

パウロもローマ書7章で、そのような悩みを告白しています。なかなかローマ書8章に至りません。しかし、イエス・キリストは、私たちに罪を捨てる力を与えてくださる、それが、「きよめ」です。3節の前半に「 あなたがたはすでに死んでおり」とあります。この「死んでおり」というのは、イエス・キリストが十字架につけられて死なれたことを信じた私たちは、イエス様の十字架によって、私たちも、古い自分に既に死んでいるということです。

ガラテヤ 2:20でパウロはこう述べています。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

私たちの古い人は、イエスキリストとともに、十字架につけられました。そして、イエスさまが、3日目に蘇られたように、私たちも新しい人に、生きることが可能となりました。私たちの、古い人は、十字架で死に、キリストの復活の力によって、新しく生きるように変えられたのです。これが、「きよめ」です。

皆様は、如何でしょうか。捨てたいけれども、捨てられずに悩んでいる「怒り」とか、「憤り」とか、「そしり」とか「偽り」とか、そんなもので、苦しんでおられないでしょうか。「これは、私の性格だから」とか言ってごまかしたり、あきらめたりせずに、パウロのように、「古い私は、キリストの十字架で死にました。」と信仰を告白したいものです。イエスさまは、私たちをきよめるために、十字架に掛かり、そして、よみがえられたのです。

3、新しくされる
10~12節  新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。 そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

イエス様を信じた人は、心が新しくされて行きます。古いもの、怒りや憤り、悪いことばや、偽りといった穢れたものを捨てて、新しいものを得て行きます。「新しいもの」とは、12節にありますように、「深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」という性質です。これらは、イエス・キリストによって、聖霊を通して、私たちの品性として与えられてゆくものです。

ガラテヤ5:22~25にこうあります。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」

「新しい心」とは、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」といった聖霊によって結ばれる品性の実です。それは、キリストに似た者とされてゆくことを意味します。私たちは、日々、神様に愛されている者として、古い人を脱ぎ捨てて、新しくされるように、神様に選ばれているのです。「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として」とある通りです。

私たちの体において、古い細胞が死んで排出され、新しい細胞と取り換えられて行くことのよって、いのちが維持されて行くのと同じように、私たちの心も、古い自分に死んで、キリストにある新しい人に作り替えられて行くことのよって、永遠のいのちが維持されて行きます。聖霊による心の新陳代謝こそ、永遠のいのちそのものであると言えます。

4、キリストにあるいのち
1~4節  こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。 私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。

私たちのいのちは、キリストともに、神のうちに隠されていると、聖書は言います。これは、いったい、どういうことでしょうか。イエスさまを信じた時、私たちのいのちは、既に、キリストと共に、神のうちに隠されました。なぜ、隠されているかというと、やがて、現れるためです。やがて、キリストが再臨されるとき、私たちも、キリストとともに、栄光のうちに現れるのです。

クリスチャンの栄光は、この世においては、残念ながら100%輝いているとは言えません。もちろん、マザー・テレサや、杉浦千畝さんや、ナイチン・ゲールや、ヘレンケラーや、綺羅星の如くに輝きを放った人たちもいます。しかし、皆、苦難を負って生きた人たちでした。この世においては、多くの幸せを得ることは出来ませんでした。彼らのいのちも、また、キリストと共に神のうちに隠されていたと言えます。

しかし、隠されているものは、やがて必ずあらわされます。この地上を生きている間、多くの苦労を味わい、涙を流し、痛みを覚えたとしても、神様は、彼らのいのちを、ご自分の恵みのうちに守ってくださり、やがて、キリストの再臨のとき、その栄光は100%輝くのです。すべての労苦、涙はぬぐわれ、永遠のいのちの栄光に輝く時が来ます。

私たちのいのちが、キリストとともに、神のうちに隠されているのは、この世を支配するものから、守られるためでもあります。もし、私たちの心が、神の恵みのうちに、守られなかったとしたら、この世の欲と欲望にどっぷりと浸り、私たちの敵であるサタンの手に奪い取られてしまっていたでしょう。

しかし、神は、栄光の時まで、私たちの心を、神の恵みの中に隠してくださいました。私たちは、この世の悪に染まらず、神のきよさに与ることが出来るよう、守られているのです。憐み深い神様は、私たちの心を、キリストと共に、神の愛ときよさのうちに守ってくださっています。ですから、聖書は、「あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」と勧めているのですね。

あなたがの体は、この地上にあって、日々の生活を営んでいるけれども、あなたの心は天に向けなさい。というのですね。何故なら、天の神のうちに、私たちのいのちが隠されているからです。そこには、私たちのために、十字架に掛かって、私たちの罪の罰を全部身代わりに受けてくださった、愛するイエス・キリストがおられます。私たちは、この地上においては、様々な艱難や試練、誘惑を受けることは避けられませんが、心は、既に、天の父なる神さま、主イエス様と共にあるのです。

古い心を引きずったまま、歩んで行ってはなりません。私たちは、日々、心を新たにされて、生きて行くのです。それが、永遠のいのちに生きることです。心の新陳代謝が下がってしませんか。主イエス様にお祈りすること、主に明け渡すことが、心の新陳代謝を高めます。今週も、心新たにされて、歩んで参りましょう。

9、10節 あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
12節 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。