いつまでも残るものは信仰と希望と愛です―キリストを信じるという生き方ー

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」詩篇46篇10節

文語訳聖書「汝等しづまりて我の神たるを知れ」
口語訳聖書「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」

「やめよ。」ざわざわと騒ぐ肉の思いを捨てて、神様の前に、静まりなさいということです。日常の生活の中で、いろいろな「声」が、私たちの耳に入って来ます。私たちの小さな心は、世の思いに翻弄され、自分を見失ってしまうのです。あれをしなければ、これをしなければと、追い立てられるように生活しています。

しかし、私たちが、まず第一にすべきことは、そのような一切の雑念を捨てて、神の前に静まることです。神様の前には、静けさがあります。この世のざまざまな出来事や、思いから離れ、主にのみ心を向けます。立ち騒ぐ肉の思いを捨て、主の前に静まりましょう。そして、神の御前における静けさを味わいたいと思います。それは、私たちの魂にとって、セラのひとときであり、そこから、力が回復し賛美が湧いてきます。

「神よ。あなたの御前には静けさがあり、シオンには賛美があります。あなたに誓いが果たされますように。 祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります。 咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。 幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。」(詩篇65:1~4)

私達は、肉なる者にすぎませんが、主の御前に出ることが許されています。ダビデも「咎が私を圧倒している」と言いつつも、「祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります。」と言って、神の御前に出ました。新約時代の私達は、主イエスさまの十字架で罪が赦され、大胆に、恵みの御座に近づくことがゆるされています。いつでも、どんな時でも、主の御前に出て、静まることが出来るのです。

「わたしこそ神であることを知れ。」「わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」自分で何とかしようと、もがいている間は、目の前の「問題」に、私たちの意識が集中しています。神様のことをすっかり忘れて、右往左往しているのです。自分で何とかしようと、あくせくしても、あまり良い結果は得られません。それどころか、ますます泥沼に足を取られてしまうことになりかねません。

しかし、神さまの前に静まって、すべてを神様の大きなご計画のうちにあることを認め、主に賛美するとき、神ご自身が戦ってくださるのです。神様が、国々の騒ぎを静められます。詩篇46篇8 、9節に 「来て、【主】のみわざを見よ。主は地に荒廃をもたらされた。主は地の果てまでも戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた。」とあります。

私達は、神様の前に静まって、神様が主権を持って、この世界を納められていることを認め、自分で何とかしようと、あくせくすることをやめ、主の御業を見るようにしたいと思います。主の大きなご計画の中に、わが身をおき、すべてを主に委ねます。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」(1節)です。信仰をもって、そこにある助けを受け取ります。

4、6節  川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。

「夜明け前に助けられる」というのは、私たちが寝ている間に、神様は、私たちを助けてくださるということです。「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」(詩篇127:2)心配することをやめ、自分で何とかしようともがくことをやめ、主に信頼することが、最も幸いな道です。「神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる。」のです。