いつまでも残るものは信仰と希望と愛です―キリストを信じるという生き方ー

新年、あけまして、おめでとうございます。

主の年2017年がスタートしました。皆さんは、今年、どんな希望をもってスタートされましたでしょうか。私たちは、いつでも、希望を持って歩んで行きたいものです。深川教会の今年のテーマは、「練られた品性が、希望を生み出す」です。私たちは、今年、「希望の達人」を目指して歩んで参りたいと思います。

1、希望の根拠・・・キリストの十字架と復活
1、2節 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。

私たちの希望の根拠は、救い主イエスキリストにあります。主イエス・キリストこそ、私たちの希望です。イエス・キリストの十字架の死と、復活が、私たちの希望の根拠、土台です。イエス・キリストが、私たちの罪を赦すために、十字架に掛かられ、三日目によみがえられた、そこに、クリスチャンの希望があります。

私たちは、今、キリストによって、神と和解し、神との平和を持っています。イエスキリストにある永遠のいのちに与っています。以前は、キリストから遠く離れ、この世にあって、望みもなく、神もない者でしたが、今は、キリストの十字架によって、神の憐みの中に入れられたのです。

救われる以前は、神の怒りの中に、死を恐れていましたが、今は、罪を赦され、神の慈しみの中に、平安を得ています。クリスチャンは、死で終わりではなく、永遠のいのちの希望を持っているのです。神との平和こそ、希望の土台です。

2節でパウロは、「この恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。」と述べています。救われた者の前途には、神の栄光が輝いています。
ヨハネの黙示録 21:1~4節にこうあります。「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

パウロは、このような神の栄光を望んで、大いに喜んでいると言っているのです。私たちは、どうでしょうか。私たちの前に置かれている希望を、しっかりと見ているでしょうか。目先のはかない楽しみだけに、心を奪われて、私たちの先に用意されている大いなる栄光が見えなくなってしまってはいないでしょうか。心の目を高く上げて、私たちの前途にある、神の栄光を望みましょう。

2、希望の練達・・・忍耐
3、4節  そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

「練られた品性」ということばは、ギリシャ語では、ひとつのことばで、「ドキメー」といいます。新約聖書に7回出てきますが、口語訳と新共同訳は、「練達」と訳しています。これは、「テスト済み」「試験に合格した」という意味です。

鍛冶屋さんが、日本刀を作るとき、鉄を火に通し、金槌でたたくということを何度も繰り返し、それによって、不純物が取り除かれ、強靱な鋼が作られて行きます。そうやって出来上がったものに、最後に、その作者の銘が入れられます。この「ドキメー」という言葉には、そのような意味があります。

希望は、試練や艱難を通して、練達されます。マルチン・ルターは、私たちの人格を練達するものが3つあると言いました。「神のことばと、祈り、そして試練です。」パウロは「患難さえも喜んでいる」と言いました。何故なら、「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」からです。

私たちが持つ永遠のいのちの希望も、現実の試練の中で何度も試され、本物となって行くのだと思います。病気で苦しんだり、死を身近に感じたことがなければ、死の恐れも、永遠のいのちの希望も、あまり実感できないかもしれません。試練によって試されない希望は、絵に描いた餅です。いざという時に、役に立ちません。希望は、試練によって練達されてこそ、本物となって行くのだと思います。

ある方は、忍耐とは、バイオリンの絃のようなものだと言いました。バイオリンの弦は、ゆるんでいたら、良い音は出ません。弦は、ぎりぎりまで張ってこそ、美しい音が出ます。試練の中で、忍耐という弦を、ピンと張って行くとき、自分でも気が付かなかった美しい音色が出るようになるのではないかと思います。

ユダヤ人ほど迫害を受けた民はいません。ナチス・ドイツによるホロコーストでは、500万~600万人のユダヤ人が殺されましたた。イギリス宰相を務めたロイド・ジョージは、ユダヤ人を評してこう言ったそうです。「あなたがたは抑圧され、迫害されてきたと言っても差し支えない。しかし、それがあなたがたの力となってきたのだ!あなたがたは、ハンマーで打たれ、素晴らしい鋼となった。だからこそ壊れることがなかったのだ。」

「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」

3、希望の源泉・・・神の愛
5節  この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

私たちは、いつでも、しっかりと希望を持ち続けることが出来るかと問われたら、難しいかもしれません。逆に、厳しい試練の中で、失望、落胆してしまうことも多いです。しかし、私たちの持つ永遠のいのちの希望は、決して、失望で終わることがありません。何故なら、聖霊によって、神の愛が、私たちの心に注がれ続けているからです。

暖炉の火が消えそうになるときは、新しい薪を加えます。私たちのうちで、希望の灯が消えそうになるときには、聖霊を通して、神の愛が注がれるのです。消えそうになっていた灯は、再び、勢いを取り戻します。イエスさまは、傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すことも有りません。私たちの希望の源泉は、神様の愛です。

6~8節に、神の愛がどのようなものか記されています。
「 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

このような希望は、信仰が強い人だけが持つことができるのでしょうか。聖書は、そうはいいません。6節には、「わたしたちがまだ弱かったとき」とあります。8節には「私たちがまだ罪人であったとき」とあります。まさに、私たちが自分の醜さに失望落胆し、自分の弱さを悲しみ、希望を失って絶望するようなときこそ、この希望の光が差し込んで来るのです。

「私たちが弱かったとき」この「弱い」とは、ギリシャ語でアスセネースという言葉です。これは、「病気」という意味もあります。体が弱いということも含まれますが、ここでは、「心が弱」かったときという意味になります。心に、確かな希望がない。心を支える確かな芯がない。心が、ふらふらと定まらない、そんな私たちのために、イエスさまが、十字架に掛かってくださいました。

ですから、「自分なんて」と考えるのは間違いです。その人のためにこそ、イエス様は、十字架に掛かってくださいました。何度も失敗してしまった。私には、神に近づく資格などない。いえ。違います。イエス様は、弱い私たちが、希望を持つことが出来るように、十字架に掛かってくださいました。だから、私たちは希望を持つことが出来ます。

2017年、「希望の達人」を目指しましょう。試練がやって来た時こそ、希望が鍛えられるチャンスです。希望は、何度も試されて、本物となって行きます。試練の中で、希望が、私たちの手から、こぼれ落ちそうになるとき、私たちは、祈りによって、もう一度、希望を握り直します。そうやって、何度も、何度も、祈りによって握り直してゆくとき、希望は練達されて行きます。そして、神は、私たちにも「ドキメー」「練達」「練られた品性」という銘を刻んでくださるでしょう。

皆様の2017年に、主の祝福がありますように。