いつまでも残るものは信仰と希望と愛です―キリストを信じるという生き方ー

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「大胆に希望を告白しよう」 へブル10:19~25

今年の深川教会のテーマは、「練られた品性が、希望を生み出す」です。私は、朝毎のデボ―ションの本に、御言葉の栞を挟んで使っています。少し、重たい気持ちで、その日の日課を開く時があるのですが、その時、「練られた品性が、希望を生み出す」というみ言葉の光が差し込んで、私の心をぱっと明るく照らします。「そうだ。この問題で、私は練られているのだ。主が、この問題を通して、成長させようとしておられるのだ。」と思うと、希望が湧いて来ます。皆さんも、どうぞ、み言葉の栞を活用してください。聖書に挟むとか、毎日、一度はみ言葉に触れるようにして頂けたら幸いです。

1、希望の告白
23節  約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。

「希望を告白する」「告白」とは、「言葉で、言い表す」ということですね。私たちが抱いている希望を、しっかりと、言葉で言い表しましょうということです。「告白」は、原語のギリシャ語ではホモロギアと言います。これは、主イエス様の約束を復唱するという意味です。イエスさまが「子よ。しっかりしななさい。あなたの罪は赦された。」と言われたとき、「アーメン。主よ。あなたは、私の罪を赦してくださいました。私が、罪に陥らないように、守ってくださることを感謝します。」と、主の約束の言葉を信じて、口で言い表すこと、それが、「希望を告白する」ということだと思います。

「希望なんてない」「こんな状況で、希望なんて告白できない」と思うことがあっても、いや、そういう状況だからこそ、動揺することなく、しっかりと希望を告白することが必要です。この世で信仰生活を送っっていると、信仰告白なしで済ませようという誘惑がやって来ます。希望を口にしても、その通りならなかったら、どうしようと、不安に思ったり、「私は、口で言えるほど、何かが出来ている訳ではない」と思って、口を閉ざしてしまうのです。あるいは、「私は、行いで示しているから、言葉で言わなくても大丈夫。」と思うこともあるかもしれません。

しかし、それらは、神様に喜ばれる態度ではありません。ヨハネの黙示録12章11節に、こう書いてあります。「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。」クリスチャンは、希望を告白することによって、勝利するのです。どんな暗闇を通るときも、しっかりと希望を告白し続けて行くなら、主の勝利に与ることになるのです。

イエス様は、こう仰いました。「あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、・・・たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。」(マタイ21:21)これは、どういう意味でしょうか。私たちの生涯は、その信仰告白の通りになって行くということです。いつでも、動揺せず、しっかりと、主への希望を告白し続けるなら、主のお言葉通りの人生になって行くということなのです。

2、真心からの告白
22節  そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

この希望の告白は、真心からなされる必要があります。たとえ、完全に信じ切れなくても、とにもかくにも、希望を告白してしまうことは良いことだと思いますが、しかし、やはり、真心をもって、希望を告白できたらいいなあと思います。その為ににこそ、主イエス様は、十字架に掛かり、尊い血を流され、私たちの邪悪な良心をきよめてくださいました。

ドイツの音楽家メンデルスゾーンの祖父は、モーゼス・メンデルスゾーンという人です。モーゼスは決して、いわゆる「イケメン」ではありませんでした。彼の背中には、大きなこぶがあったそうです。彼は、ある日、美しい娘さんに出会います。一目ぼれでした。ところが、彼女はモーゼスの方を一向に振り向てくれません。モーゼスは勇気を振り絞り、彼女に話しかけました。「お嬢さん、あなたは、結婚は天において決められているものだと信じますか。」

「はい」「あなたもそう思われますか」「ええ、勿論です」とモーゼスは答え、更にこう続けました。「天ではね、男の子が生まれると、神様がその子に、どの女の子が妻であるかが告げられます。私も生まれた時、神様にこう言われました。『ところで、お前の妻の背中にこぶがあるよ。』そこで、私は神様にこう言ったのです。『主よ。女性にとって、背中のこぶは悲しみです。主よ、どうか、そのこぶを私の背中につけてください。そして、彼女を美しくしてください。』」

彼女は、その言葉を聞き、やがて、モーゼスの愛する妻となったそうです。いったい、何が、彼女の心を動かしたのでしょうか。それは、モーゼスが、愛する人のためになら、どんな犠牲をも、払う覚悟があるということを、感じ取ったからではないかと思います。

真心をもって、希望を告白するとき、願いは伝わるものだと思います。自分の快楽の為とか、悪い動機で願うなら、その願いは成就しないでしょう。しかし、自己犠牲をも覚悟し、本当に相手の幸せを思うなら、その願いは伝わるものだと思います。イエス様は、十字架の血により、私たちの邪悪な良心をきよめてくださいました。そして、からだをきよい水で洗ってくださいました。ですから、私たちは、全き信仰をもって、真心から神に近づくのです。

3、偉大な祭司
19~21節  こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。 また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。

私たちが希望を持つことが出来るのは、どんな時も私たちの側に立って、取りなしてくださる偉大な祭司がおられるからです。この「神の家をつかさどる、偉大な祭司」とは、人となって、私たちのところに来てくださった神のひとり子、イエス・キリストを指しています。

ヘブル 4:14~16にこうあります。
「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

私たちは、失敗をするものです。誘惑に負けて、罪を犯してしまうこともあります。しかし、この偉大な祭司は、私たちの弱さもよくご存知です。決して「お前は、もう終わりだ。そんなに何度も、裏切るなら、もう、私から離れて行け。」とは仰いません。7度を70倍するまで赦し、自分の駄目さ加減に、すっかり落ち込んでしまっている私たちのところに、イエス様の方から近づいて来てくださり、「さあ、立ちなさい。一緒行こう。」と励ましてくださいます。

4、交わりを保つ
24、25節  また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。

クリスチャンの希望は、天の御国の希望です。イエス様は、クリスチャンたちに新しい戒めを与えられました。それは、私たちが互いに愛し合うことです。この世においる交わりは、完全なものではありません。お互いを誤解したり、時には、嘘や誤魔化しが入り混じってしまうこともあります。それによって、傷つき、教会での交わりが嫌になってしまうことがあるかもしれません。「もう、いっしょに集まることをやめよう。一人でいる方がよっぽどいい。」と言って、交わりが身を引いてしまった人たちもいたようです。

しかし、この地上の教会の交わりは、天の御国の交わりにに繋がっています。天国に行ったら、全く別の人たちと仲良くやって行く訳ではありません。私たちが、今、この世で持っている交わりが、きよめられ、栄化され、天の御国での交わりとなるのです。ですから、私たちは、この地上の交わりの中で、お互いに赦し合って行くことを学んでゆく必要があります。意見が違っても、互いに歩みより、真理に従うことによって、お互いを受け入れ合うことを学んで行くのです。

「もう、やめた。」と言って、交わりが身を引いてしまってはいけないのですね。「教会」は、ギリシャ語ではエクレシアと言います。エクレシアとは、「主に呼び集めらた人たちの集まり」という意味です。私たちは、たまたま、出合ったのではありません。主が、私たちの名前を呼んで、引き合わせてくださったのです。

人が集まるところには、意見の違は付き物です。しかし、教会の素晴らしいところは、交わりの真ん中に、救い主イエスさまが、共におられることです。「もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」

どうすることも出来ない問題で、悩み苦しむとき、主イエス様に祈ることが出来ます。クリスチャンの友が祈ってくれ、そして、自分も友のために祈る。それによって、主にある真実な交わりが形作られて行きます。このイエス様を中心とした交わりこそ、天の御国の喜びであり、希望です。

「かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」「かの日」とは何でしょうか。いろいろな言い方が出来ると思いますが、「この世の締め括りと、天の御国の完成のとき」ということが出来ると思います。世の中は、だんだんと、自分を愛する「自分中心主義」に向かっているように思います。

私は、聖書を読み、ニュースを見ながら、だんだんと、かの日が近づいて来ているなあと思わずにはおられません。「なるほど。なるほど。そういうことか。」と、世界の動きを見ています。私は、恐れてはいません。むしろ、かの日が近づいているのを見て、わくわくしています。何故なら、最終ゴールである、天の御国の完成が近づいているからです。

多くの聖徒たちが、待ち焦がれていた、天の御国の完成に近づいているのです。もはや、誤解したり、人を欺いたりする必要のない世界、100%光である、主イエス・キリストが統べ治める御国が到来するからです。私たちを苦しめるサタンも、誘惑も無い世界、ほふられたと見える神の小羊イエスさまが、統べ治めらる御国が来るのです。

ヘンデルのハレルヤ・コーラスの「全能の主治めたまわん 世のくにたみ 今や われらの主に 帰するに及べり とわに主 治めたまわん 主の主 諸王の王 ハレルヤ ハレルヤ!」と賛美の大合唱が捧られる日が来るのです。

誰も、この恵みから外れてしまうことがありませんように。私たちは、いっしょに集まることをやめたりしないで、互いに勧め合い、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。たった一杯の食物と引き替えに、自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないように、お互い励まし合い、注意し合って、天の御国を目指して進んで行きましょう。