いつまでも残るものは信仰と希望と愛です―キリストを信じるという生き方ー

M160208 「退いて祈る習慣」 ルカ5:12~16 380

16節 しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。

1、苦難のときも順調なときも
この「しかし」は、前の出来事と反対のことを述べるために、付けらた接続詞です。前のこととは、15節を指しています。15節 しかし、イエスのうわさは、ますます広まり、多くの人の群れが、話を聞きに、また、病気を直してもらいに集まって来た。

イエスさまは、ガリラヤ地方で、有名になって行きました。イエス様は、ツァラアトの人を治されました。癒された人は、イエスさまから「誰にも話してはいけない。」と言われましたが、彼は、自分が癒されたことを黙っていることが出来ず、多くの人に話しました。その為、多くの人たちが、病気を治してもらうために、また、イエス様のお話を聞くために、イエス様のところに、集まってきました。

人間的に見れば、宣教は、順調に進み、おおよそうまく行っているように見えました。普通なら、「さあ、どんどん宣教して行こう。もっと多くの人の必要に応え、もっと多くの人に福音を伝えよう。」と、勢いづいて、前進して行ったと思います。しかし、そのような状況において、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられたというのです。

私たちは、逆境のとき、苦難の時には、主を呼び求めます。しかし、一山超えて、なんとなく上手く行き始めると、物事が少し順調に行き始めると、いつの間にか、祈らなくても物事が進んで行くような錯覚に陥ってしまうことがあるのではないでしょうか。そして、だんだんと祈りの手が下がって来てしまうのです。

しかし、このイエス様の祈りに対する姿勢は、苦難の時であっても、順調なときであっても、祈りこそ、神様の御業が進むために、どうしても必要であるということを教えてくれます。私たちも、イエス様の模範に倣って、どんな時も、祈ることを大事にしてゆきたいと思います。逆境のときも、順境のときも、特に、一山超えてほっとした時こそ、退いて一人神に祈ることが必要であると思います。

2、よく祈っておられた
実は、16節の「よく祈っておられた」の「よく」は、原語のギリシャ語には、それに相当する言葉がありません。ですから、口語訳や新共同訳は、「よく」という言葉を入れていません。口語訳は「しかしイエスは、寂しい所に退いて祈っておられた。」と訳しています。では、なぜ、新改訳は「よく祈っておられた」と「よく」という言葉をいれたのでしょうか。

新改訳聖書は、原語に出来るだけ忠実に訳している聖書です。実はこれはギリシャ語の文法から来ているのです。詳しくはお話しませんが、ここでは、BE動詞の未完了形が使われています。これは、習慣を表しています。「常に」とか「いつものように」とか、「しばしば」という意味が含まれています。

つまり、イエスさまは、荒野に退いて祈ることを習慣としておられたということです。イエス様にとって祈りは、毎日の習慣でした。私たちは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい。」という1テサロニケ5章のみ言葉が好きです。クリスチャンにとって、喜びが心の習慣となり、祈りが魂の習慣となり、感謝が人生の習慣となっているならば、どんなに幸いでしょうか。

良い習慣は、それを意識してし続けるうちに、身について来ます。時々、困ったときに、神様を思い出しているなら、祈りは、習慣とはなって行かないと思います。何か嬉しい知らせがあったときに喜ぶけれども、試練や困難の中で、失望落胆してしまうということを繰り返して行くなら、それが、私たちの人生の習慣となってしまいます。それは、決して良い習慣とは言えません。

しかし、順調なときも、逆境の時も、主のもとに行って祈るなら、それが、私たちの魂の習慣とって行きます。そして、状況に左右されにくい霊性が私たちのうちに形作られて行くのです。イエス様が、よく荒野に退いて祈っておられた姿は、私たちの良いお手本です。イエス様ですら、父なる神様の恵みに満たされるために、よく荒野に退いて祈っておられたのですから、弱い私たちはなおさらではないでしょうか。私たちも、ただ、忙しく活動するだけではなく、イエス様のように、ひとり主の前に祈る者でありたいと思います。

3、荒野に退いて
荒野とは、「さびしいところ」とも訳されます。「人のいない、さびしいところ」です。荒野に退くのは、神様と1対1になるためです。この世の流れ、きらびやかさ、様々な営みから心も体も切り離して、静かに神様と1対1になれるところ。御前に頭を垂れて祈ることの出来る場所、それが荒野です。

祈りの力の映画のことを紹介しました。原題は、ワールームです。クローゼットを祈りの部屋として、そこに入って、彼女は、ひとりで、主に祈りました。イエスさまはこう仰いました。「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」(マタイ6:6)

「退く」って大事なことなんだと思います。私たちの戦いの場所は、問題課題のまっただ中にあるのではありません。もし、そこで格闘するなら、問題課題という泥沼の中で、足がすべり、足をとられ、ますます泥沼に嵌って行くでしょう。しかし、私たちの戦いの場所は、問題課題から、1歩退いたところにあります。それが祈りによる戦いです。

あるテレビ番組で「事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きてるんだ!」というセリフが、有名になりました。本当にその通りだと思いますが、クリスチャンにとっては、「戦いは、現場で起きているんじゃない。祈りの場で起きているんだ。」と言い換えることが出来ると思います。

ですから、イエスさまは、しばしば、退いて荒野で祈りを捧げておられたのですね。私たちも今晩、世の中の現場から、1歩退き、問題課題から1歩退いて、神に祈りを捧げたいと思います。私たちの戦いは、血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。つまり、祈りによる戦いです。様々な問題課題を、主の前に持ち出して祈りましょう。

イエス様は、物事が順調に進んでいるように見えるから、そのまま進もうとはされませんでした。イエス様は、しばしば、立ち止まり、荒野に退き、ひとり父なる神に祈られました。それは、父なる神様の御心を、よく確認する為でもあったと思います。イエス様は、神の御子ですから、父の御心をいちいち確かめずとも、ご自分の判断で進んで行くことも出来たと思います。しかし、イエス様でさえ、いえ、イエス様だからこそ、しばしば、1歩退き、父なる神の御心を求めなさいました。

特に、あのゲッセマネの園での祈りは、私たちの心を打ちます。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」とイエスさまはお祈りされました。イエスさまは、いつも、父なる神の御心を求めて祈り、そして、その御旨に従われました。たとえ、それが、自分の意にそぐわないことであっても、主に明け渡し、主に従われたのです。

人は、間違えやすいものです。自分の願いと神様の御心を取り違ってしまうこともあります。たぶん、そうだろうと、神の御心を良く確かめもせず、決めてしまうこともあります。しかし、私たちは、イエス様に倣って、もう一度、もう一度、1歩退いて、主の御心を求めて行くお互いであらせて頂きたいと思います。主は求める者に、道を示してくださいます。

16節 しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。

今晩、私たちもイエス様に倣ってお祈りいたしましょう。世の中の第一線から、1歩退いて、父なる神と1対1となって、お祈りしたいと思います。