いつまでも残るものは信仰と希望と愛です―キリストを信じるという生き方ー

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

M170319墓前記念会 「天国の門は真珠で出来ている」 黙示録21:21~27

1、天国の門は真珠で出来ている
21:21 また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。

黙示録21章では、聖なる都、新しいエルサレムの様子が描かれています。新しいエルレムとは、天の御国が完成された姿を示しています。それによると、「新しいエルサレム=天国の門」は、真珠でできているとあります。「真珠」は、その美しさもさることながら、その出来方に特徴があります。

アコヤ貝など貝類には、体内に小さな砂粒などが入ったときに、自ら分泌する真珠液でその異物を包んでしまうという性質があります。つまり、貝が傷つけられると、そこから、真珠になる液が分泌されて、異物の表面を蓋ってしまうのです。その結果、アゴラナイトという炭酸カルシュウムの結晶層が幾重にも重なって、深みのあるなんとも言えない光沢を称えた、美しく大きな真珠になって行くのだそうです。

つまり、真珠は、キリスト者の人生の完成した姿を暗示しているのです。私たちは、地上生涯を歩む中で、様々な試練や、悲しみに合います。愛する者との死別は、その最たるものかもしれません。人知れず、涙することもあると思います。しかし、神は、どんな悲しみの中にあっても、慰めてくださいます。私たちの傷ついた心を、聖霊が優しく包んでくださり、主の慰めによって、傷が癒されます。

星野富弘さんの詩にこのようなものがあります。「わたしは傷をもっている。でも、その傷のところから、あなたのやさしがしみてくる。」天国とは、様々な試練を通り、主の慰めを経験し、癒された者たちが入るところです。今日納骨された、H兄は、生きている間、あまり涙を見せたことはありませんでした。しかし、心で泣いたことは何度もあったのではないかと思います。主は、その悲しみに寄り添って、聖霊の恵みによって癒してくださいました。

他の方々も、同じだと思います。すべての聖徒たちは、地上で生きている間、幾つもの悲しみを通りますが、主の愛によって慰められ、癒され、幾重にも主のやさしさに包まれて来た人達です。そのようにして、その人格から、真珠のような 優しい輝きを放つようになるのです。天国の門が真珠で出来ているとは、そういうことを暗示しているのではないでしょうか。

2、まことの光に照らされて
22~24節  私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。

天国には太陽がありません。ですから、夜がありません。神の小羊イエスキリストが、文字通り、まことの光となり、すべての人を照らすからです。天国には、やみがありません。罪も、死も、くらいところが少しもないのです。私たちは、やがて、そのような場所で、永遠を送ることになります。

24、25節「 諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。 都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。」

天国と言う場所は、とても活動的な所ですね。決して、ハスの葉の上に寝そべって、美女がお酒を運んできて来るようなイメージではありません。天の御国の市民は、みな、不死を着、栄光の体に変えられています。老いることも、病に苦しむこともありません。おろらく、疲れるということがないのです。常に、主の恵みと力に満たされ、主の愛によって、精力的に互いに仕え合うのです。

ですから、キリスト者にとって、死は終わりではありません。死を超えて、復活のいのち、永遠のいのちが用意されているのです。私たちには、このような希望があります。先に主の元に帰られた人たちと再会し、共に、主に仕えることが出来るのです。私たちに与えられている、この希望をもう一度、しっかりと捉えさせていただきたいと思います。

3、小羊のいのちの書
27節  しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。

先に主の元に帰られた方々のお名前が、墓碑に刻まれています。しかし、墓碑の名前は、あくまでも記念です。私たちが、彼らを思い出すために、名が刻まれているのです。本当に名前が刻まされているのは、「小羊のいのちの書」です。彼らは、「小羊のいのちの書」に、その名前が刻まれているのです。

罪を悔い改めて、イエスキリストを救い主として信じたとき、私たちの名前は、小羊のいのちの書に書き記されました。私たちは、その時から、天の国籍を持つ者となりました。イエス様は、弟子たちに、何かが上手く行くことよりも何よりも、あなた方の名前が、天に書き記されていることを喜べと仰いました。

このいのちの書には、私たちのすべてが書き記されています。その人が行った小さな親切も、愛の行いも、すべて書き記されています。そして、最後の審判のときに、人に知られず行われたことも、すべてが明らかにされます。そして、神さまからの称賛と、報いがあります。

もちろん、罪や失敗も書き記されいます。しかし、それが読み上げられる時には、イエスキリストが弁護してくだいます。主イエスキリストは、私たちに対する罪状書き、告発状を十字架に釘付けにされ、無効とされました。私たちの罪は、海の深みに投げ捨てられました。私たちは、神の小羊イエスキリストによって、罪が赦され、永遠のいのちに与ることが出来ました。

その恵みに感謝致しましょう。そして、アブラハムのように、天の故郷にあこがれて、この試練や悲しみの多い地上生涯を、主と共に歩んで参りましょう。先に主の元に帰られた先輩たちの墓の前で、永遠のいのちの希望を新たにさせて頂きましょう。