いつまでも残るものは信仰と希望と愛です―キリストを信じるという生き方ー

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M170608 「平安があるように」 ヨハネ20:19~23 

シャローム。今でも、イスラエルに旅行に行くと、聖書の時代と同じように、シャロームと互いに挨拶を交わします。朝でも、昼でも、夜でも「シャローム」と言えば、OKです。シャロームとは、「あなたに、神の平安がありますように。」という意味です。

1、突然やってくる恐れ
その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」

「その日の夕方」とは、イエス様が、十字架に掛かり、死んで墓に葬られてから3日目の出来事です。弟子たちは、ある家に集まり、ユダヤ人たちが、自分たちをも捕らえて、酷いことをするのではないかと、恐れていました。それで、家中の戸に鍵をかけて、閉じこもっていました。

弟子たちが、ユダヤ人を恐れた気持ちもよく分かります。彼らは、何も悪いことをしていないイエス様を十字架に掛けるという、全く酷いことをしたのです。弟子たちの受けたショックは計り知れません。「蛇ににらまれたカエル」という諺がありますが、人は、恐れると、心も、体もこわばって、動けなくなってしまいます。

しかし、私たちの人生にも、恐れがやって来ることがあると思います。突然、病気に掛かったり、家族が事故に遭ったり、仕事がリストラされたり、思いがけない出来事が、やって来ることがあるものです。当時の弟子たちが、恐れたように、私たちも、恐れて、委縮していまうのです。

恐れは、人生をダメにする力、間違った方向に向かわせる力を持っています。ですから、聖書は、何度も「恐れるな」「恐れるな」と語り掛けています。私達は、自分の人生に襲い掛かってくる「恐れ」と、どう向き合い、どうやって、「恐れ」を克服して行くか、その術を知っておく必要があると思います。

2、恐れの中に来られるイエス
しかし、復活のイエスさまは、その恐れている弟子たちの真ん中に来てくださいます。
「イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。」とありますが、新共同訳聖書ではこう、訳されています。「そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。」イエス様は、ただ、彼らのところに来られたのではありません。恐れて動けなくなっている彼らの真ん中に来てくださったのです。

復活のイエスさまは、恐れの真っ只中に来てくださいます。弟子たちは、誰も入って来れないように、戸を閉じていたのに、復活のイエス様は、すーっと、彼らの真ん中に入ってこられました。これは、現代においても、同様です。恐れている、その真ん中に、復活のイエス様が来てくださるのです。

ですから、自分たちだけで、どうしよう、どうしようと、焦って、慌てふためてはならないのですね。私たちのすべきことは、そこで、復活のイエス様をお認めすることです。目には見えませんが、信仰の目を啓いて、そこに復活のイエス様がおられるということを、お認めすることです。それが、私たちのなすべき第一のことです。

イザヤ30:15にこうあります。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」恐れると、冷静な判断が出来なくなります。そして、早まった判断をして、ますます、ドツボに嵌って行くということを、私たちも何度も経験したことがあると思います。そういうときは、まず、落ち着くことです。そして、その危機の真っ只中に、復活のイエスさまがおられるということを、信じて、平安を得ることです。

そうすれば、良い知恵も与えられるでしょう。恐れて、焦って、慌てて、間違った判断をすることが、最も良くないことです。

3、平安があなたがたにあるように
恐れていた弟子たちに、イエス様は、「平安があなたがたにあるように」と、仰いました。この19節から29節の間に、「平安があなたがたにあるように。」という言葉が3回繰りかえされています。19節、21節、26節、イエス様は、繰り返し「平安があなたがたにあるように。」と仰っいました。

「恐れてはいけないよ。」「私が一緒にいるから、恐れる必要はありませんよ。」と仰り、「平安があなたがたにあるように」と言われたのです。この、イエス様が与えてくださる「平安」とは、世が与える平安ではありません。

イエスさまは、ヨハネ 14章27節でこう仰っいました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」

イエスさまが、与えてくださる平安とは、聖霊による平安です。イエス様が、どんな時にも、私たちを愛していてくださるということから来る平安です。20節「こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。」とあります。弟子たちは、イエス様を十字架につけたユダヤ人たちの悪意を恐れていました。確かに悪の力は、人を殺す力があります。

しかし、イエスさまは、悪の力ではなく、弟子たちに、神様の愛を示されました。「私が、十字架に掛かった本当の意味を、あなたがたは、忘れてはいませんか。私は、あなたがたの罪を赦すために、十字架に掛かったのですよ。決して、悪の力に負けた訳ではありませよ。」ということを、手の釘のあと、わき腹の槍のあとを示して、神様の大きな愛、贖いの愛を示されたのです。

その時、弟子たちも、イエスさまの大きな愛を思い出して安心したと思います。十字架は、決して敗北ではなく、神様の贖いのわざであることを思い出して、希望が湧いてきたのだと思います。そして、恐れが、徐々に、喜びに変わって行きました。イエス様は、弟子たちの恐れを静め、神様の大きな愛をお示しくださり、平安を与えてくだいました。復活のイエス様は、現代に生きる私たちにも、主は同じことをしてくだるのです。

4、赦しの人生を生きる
21~23節  イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

ペンテコステを超えましたが、私たちも、もう一度、聖霊を受けたいと思います。イエスさまは、恐れていた弟子たちに、人生の新しい目標を与えてくださいました。それは、赦しの人生を生きるということです。「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」と仰いましたが、平安な人生を生きる人は、赦しの人生を生きる人です。

私たちが、主イエスさまから、赦されたように、私たちも、誰かの罪を赦して、生きるのです。それが、平安な人生を生きるということです。もし、誰かを許さないなら、恐れは、そのまま残ってしまいます。どういう事情があるにせよ、主にあって、赦すなら、私たちは、平安な人生を生きることが出来るのです。

恐れて、不安で、とげとげした人生を生きることをやめ、イエス様にお委ねして、平安を与えられ、他者を赦して生きる、それが、シャロームの人生です。「平安が、あなたがたの上にありますように」という祈りをもって生きて行きましょう。聖霊が与えられますようにお祈りいたします。

21~23節  イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」