いつまでも残るものは信仰と希望と愛です―キリストを信じるという生き方ー

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聖書 Ⅱ列王記5章1~5、9~14節
賛美 インマヌエル讃美歌351「いかなる恵みぞかかる者をも」

14節 そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。

1、 人格者ナアマンの悩み
5:1 アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。【主】がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士で、ツァラアトに冒されていた。

ナアマンはアラムの将軍でした。アラムというのは、現在のシリアのあたりにあった国です。イスラエルとアラムの間には、よく戦いがありました。ナアマンは、主なる神を信じてはいませんでしたが、主君に重んじられ、人々からも尊敬される人格者でした。

ナアマンは、家の外ばかりでなく、家の中でも、愛されていたようです。イスラエルから戦争捕虜として連れてこられていた若い娘さんが、奥さんにこう言ったのです。「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者の所に行かれたら、きっとあの方が、ご主人様のツァラアトを直してくださるでしょうに。」この言葉には、ナアマンにぜひ治って欲しいという愛がこもっています。

普通なら、将軍と捕虜の関係ですから、無視され、奴隷のようにこき使われ、憎しみは増すばかりで、はなかっかと思います。しかし、ナアマンは、その若い娘にも、決して乱暴なことはせず、親切にし、家族の一員のように扱っていたのでしょう。だかこそ、この娘さんも、ナアマンを憎むのではなく、心から直って欲しいと願ったのですね。

イエス様が、その信仰褒めてくださった、あのローマの百人隊長同様、ナアマンは神と人に愛される人でした。神様を未だ信じていませんでしたが、神に用いられる器でした。1節に、【主】がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。とあります。そのようなナアマンでしたが、一つ、深刻な問題を抱えていました。

それは、「ツァラアトに冒されていた」ということです。当時、ツァラアトは、人間の医療では治せない病でした。イエスさまは、ツァラアトの人を何にも癒されましたが、何もしなければ、最悪、死に至る病でした。ナアマン本人もさることながら、家族も、そして王様も、とても心を痛めていたに違いありません。

2、自分のイメージと違っても
13節「我が父よ、あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼は、あなたに『身を洗ってきよくなりなさい。』と言っただけではありませんか。」

将軍ナアマンは、恥を偲んで、敵国の預言者エリシャのところにやってきました。しかし、エリシャの対応はそっけないものでした。使いをよこして、こう言わせたのです。10節「ヨルダン川へ行って7度あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」それを聞いたナアマンは、怒って、帰ろうとします。

ナアマンは、自分の救いのイメージというものを持っていました。エリシャが、「よく来ましたね。さこちらへ」と、親切に迎えてくれて、神、【主】の名を呼んで、患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトを直してくれるに違いない。そう思っていたのです。しかし実際には、エリシャは、出ても来ず、使いの者を遣わして、ヨルダン川に行って7度身を洗いなさいと言ったのです。

こんな小汚いヨルダン川で身を洗うなんて、逆に、病気がもっとひどくなってしまうかもしれないと思ったかもしれません。川で身を洗うなら、わざわざ恥を忍んで、ここまで来なくても、ダマスコの川の方がよっぽどきれいではないか。そう思って、怒ってしましったのですね。そして、家に帰ろうとしました。

しかし、ここでも、また、ナアマンを愛する僕たちが、ナアマンに助言をします。
13節  そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」

さすが、ナアマンは、怒ることをやめ。冷静になって、僕たちの助言に従い、ヨルダン川に行って7度、身を洗い、その結果、ツァラアトが癒され、きよくなりました。
14節  そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。

ナアマンは、自分が持っていた救いのイメージを一旦手放して、助言を受け入れました。神の言葉に従いました。すると、見事に、ツァラアトが直りました。私たちも、何か固定化された救いのイメージを持っていて、それに固執するが故に、神様が用意していてくださる祝福を受け取れないでいるということがあるのではないでしょうか。自分で、難しく考え過ぎているのです。そして、「大変だ。大変だ。」と、悩んでしまいます。

しかし、いみじくも、僕たちが指摘してくれたように、実は、単純なことなのです。「ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」神は、難しいことを求めてはおられません。ただ、単純に信じて、主の御言葉に従う。それが、解決の道でした。

3、真っ新な心で聴く
イエス・キリストは、現代においても、私たちの不思議な助言者です。聖書の言葉を通して、わたしたちが、幸いを得る道を教えて下さっています。それは、時として、自分の持っているもの(計画、イメージ等)と違っているかもしれません。しかし、そこで私の計画と違うからと言って、怒って退けてしまったり、別の方法に走ってしまっては、せっかく主が用意しておられる祝福を受けそこなってしまいます。

固定化された、自分なりの救いのイメージを、一旦手放して、自分の思いを真っ新にして、主の御言葉を待ち望む。その主を待ち望む心が鍵です。主が、どんな助言を下さるのか、心の耳を澄ませて、聴きましょう。

主は、夜通し漁をしても魚一匹取れなかった、プロの漁師であるペテロたちに、「船の右に網を下ろしてとりなさい。」と仰いました。ペテロたちは、プロの漁師のプライドを捨てて、お言葉通りにしてみると、たくさんの魚がとれたと聖書は記録しています。まっさらな心で、主の御言葉を待ち望む。それが祝福の鍵です。

14節  そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。