M20130630 「あなたの信仰があなたを救った」 マルコ5:25~34

34節 そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

今日は、説教題を「あなたの信仰があなたを救った」と付けさせて頂きました。私たちが使っている新改訳では「あなたの信仰があなたを直した」と訳していますが、「直した」とところに、アリスターマークがついていて、下の欄外注を見ますと、直訳「救った」と書いてあります。直接の意味は「救った」です。口語訳聖書では、そのまま「あなたの信仰があなたを救った」と訳しています。「直した」というと、病が直ったという印象を受けますが、「救った」というと、彼女の人生が救われたという印象を持ちます。

彼女は、「あなたの信仰があなたを救った」という主イエスの言葉を受けて、癒されつつ、家路につきました。私たちも、今朝、このお言葉を身に受けて、赦され、癒され、それぞれの現場へと遣わされて参りましょう。

1、イエスの内にある癒やしの力
30節 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。

実際に、この婦人を救ったのは、彼女の信仰の力ではなく、「主イエスご自身の中に働いている癒やしの力」でした。この婦人が、イエスさまの衣にさわったとき、イエスさまは、「自分のうちから力が外に出て行ったことに気づかれ」ました。イエスさまの周りには、たくさんの人がごったがえしていました。おそらく、多くの人がイエスさまの衣にさわったことでしょう。しかし、イエスさまが、自分のうちから力が出ていったことを感じたのは、彼女だけでした。

イエスさまのうちにあった力は、ギリシャ語でデュナミスです。これは、ダイナマイトの語源となった、とても強い力です。ダイナマイトというと、ものずごい破壊的な力をイメージしますが、主イエスさまの中には、破壊する力としてではなく、癒やす力として働いていたのです。

イエスさまは、私たちの罪を赦してくださっただけなく、その人の人生を縛り付けていた病をも癒すことができる癒し主です。福音書には、イエスさまが、たくさんの病を癒されたことが記録されています。そして、聖書は、「これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。」と書いてあります。すなわち、イザヤ書53章4節にあるように、「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。」のです。

どう言うことかと言いますと、主イエスさまが、わたしたちの病や痛みを、ご自分の身に引き受けられたということです。私は、先日、ものを取ろうとして、引き出しのエッジのところに指をぶつけて、人差し指の爪と指の間を切ってしまいました。血がバッと飛び散り、どくどくと流れ出しました。自分で消毒をして、絆創膏を貼りましたが、ズキンズキンという痛みがしばらく続いて、何も出来ませんでした。さすがに、泣きはしませんでしたが、「痛い」と言うのは、辛い事ですね。でも、だんだんと良くなってきて、1週間くらいですかっかり元に戻りました。

そんなこと当たり前だと思われるかもしれませんが、この聖書に出てくる婦人は、12年間血がとまらず苦しんで来ました。しかし、信仰の手を伸ばして、イエスさまにふれたとき、すぐに「血の源がかれて、ひどい痛みが直った」のです。イエスさまのうちに働いていた「癒やしの力」が、彼女のその長年苦しんでいた病を癒やしました。

25、26節「ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。」

彼女は、多くの医者に診てもらいましたが、効果はありませんでした。医者に悪気があったとは思いません。医者だって、なんとか直してあげたいと思ったことでしょう。しかし、たくさんのお金を治療費につぎ込んだにも拘わらず、結果は、悪くなる一方でした。私達は、病院に行けば治ると、安易に考えてはいけないと思います。根本的に、癒してくださるのはイエスさまです。ケニアのテヌエク病院のモットーは「私達が治療し、イエスさまが癒されます。」だそうです。医者が治療しますが、癒してくださるのはイエスさまなのです。聖書はそのように教えています。

2、御着物にさわることでもできれば
27、28節  彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。

途方に暮れていた彼女は、イエスさまのことを耳にし、群衆に紛れ込んで、イエスさまに近づき、そっとその衣にさわりました。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えたからです。すると、すぐに、その痛みが直りました。婦人は、イエスさまに信仰の手を伸ばしたのです。そして、イエスさまの衣に信仰をもってさわりました。イエスさまの御着物にさわれば、きっと治ると信じたのです。

旧約聖書の律法によれば、彼女は、「汚れた者」でした。人々からそのような目で見られていたと思いますし、自分でも「イエスさまに近づく資格などない。」と思っていたことでしょう。しかし、何としてもよくなりたいと願い、イエスさまのうしろから近づいて、そっと、イエスさまの衣にさわりました。とても、控えめな態度ですが、「イエスさまなら、何とかしてくださる」という全面的な信頼を見ることができます。

朝の満員電車を経験されている方は、大勢の人に囲まれていたイエスさまに近づくのが如何に大変か、想像できると思います。この時、みんなイエスさまに近づこうとした訳ですから、少し近づいたと思ったら、はじき返され、また少し近づいたと思ったら、はじきとばされたことでしょう。しかし、それでも、彼女は、イエスさまから目を離しませんでした。跳ね返されても、はじき出されても、イエスさまをめがけて、近づいて行きました。「イエスさまの御着物にさわることでもできたら、きっと治る。」それが彼女の確信でした。イエスさまは、彼女の信仰に応えてくださり、彼女を癒やしてくださいました。

信仰の手を伸ばして、イエスさまの御着物に触れるとは、イエスさまの真実さ、イエスさまの憐みふかさ、イエスさまの愛に触れることだと思います。現代は、直接、イエスさまの御着物にさわることは出来ません。しかし、私達は、信仰の手を伸ばして、イエスさまのやさしさに触れることができます。イエスさまの憐み深さに触れることができます。イエスさまの愛に触れることができます。

単に、近づくだけでなく、単に手を伸ばすだけでなく、イエスさまの御衣に触れるのです。確かなイエスさまのやさしさに触れるのです。イエスさまのご真実に触れるのです。イエスさまの愛に触れるのです。そのとき、イエスさまの内にあるデュナミス、癒やしの力が、私たちの中に注がれます。本当に苦しいとき、本当に痛くてたまらないとき、「ほんとうに治るかなあ。」と疑ったりしないでしょう。「きっと治る」と信じて、イエスさまに触れるのです。

もちろん、聖書の中には、パウロにように、「この肉体のとげ」を私から去らせてくださいと3度祈っても、痛みが取り去られなかったケースもあります。しかし、病と痛みに耐えるだけの十分な恵みが与えられました。たとえ病が直らなくても、私たちが主を賛美し、喜びと希望をもって生きる、十分な恵みが与えれます。ですから、パウロは、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇ると言っています。

どういう結果になるにせよ、信仰の手を伸ばして、イエスさまに触れるとき、イエスさまの内にある「癒やしの力」が与えられます。その人の心の病(罪)を癒やし、その上、御心なら体の病をも癒してくださるのです。イエスさまは、癒やし主であり、救い主です。私たちの人生は、イエスさまによって救われるのです。

3、祝福を受け取ろう
私達も、今日、イエスさまから「あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」とのお言葉を受け取らせて頂きたいと思います。

「あなたの信仰」とは「(イエスさまの)お着物にさわることでもできれば、きっと直る」という、控えめですが、単純な信仰です。幼子がたどたどしくも、親に両手を上げて近づいて行き、そのふところに飛び込んで行くように、私達も、イエスさまに向かって信仰の手を伸ばし、全福の信頼をもって、イエスさまの赦し、愛、憐みを受け取ります。

これから聖餐式を行います。聖餐式では、イエスさまのいのちと、赦しを、パンとぶどうの液を通して受け取ります。私たちは、パンとぶどうの液を通して、イエスさまから、罪の赦しの力、そして、病の癒やしの力を受け取ります。どうぞ、信仰の手を伸ばして、イエスさまから「罪の赦し」と、「癒やしの力」を受け取ってください。私たちが、安心して、病にかからず、すこやかな人生を歩むことが出来るように、イエスさまの祝福をしっかりと受け取らせて頂きましょう。

34節 そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

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