「たとえそうでなくても
ー御利益信仰か真の信仰か」
ダニエル書3章13~30節
16~18節 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは王に答えた。「ネブカドネツァル王よ、このことについて、私たちはお答えする必要はありません。 もし、そうなれば、私たちが仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ、あなたの手からでも救い出します。 しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません。」
コロナウイルスの脅威が、日本を、そして、世界を席巻しています。私達は肉体的にも、精神的にも、また経済的にも、「真の安全」を求めています。自分のいのち、家族や、愛する人たちのいのちと、日々の生活が守られますようにと、切に祈ります。しかし、それは、一体、どこにあるのでしょうか。
バビロンのネブカデネザル王は、神を信じるの3人のユダヤ青年たちに、「金の像」を拝むか、燃える炉の中に投げ込まれるか、二者択一を迫りました。彼らは王にこう答えます。「ネブカドネツァル王よ、このことについて、私たちはお答えする必要はありません。 もし、そうなれば、私たちが仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ、あなたの手からでも救い出します。 しかし、たとえそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々には仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません。」
彼らは、自分たちが信じ仕えている神が、理不尽な試練から、救い出してくれると確信していました。しかし、それは、同時に、殉教の覚悟を伴った信仰であったと言えます。「どういう結果になったとしても」神を信じるという信仰でした。このような信仰者は、強いと思います。いつも、平安でいることができます。
御利益宗教は、「信じたら、その分ご利益がある。」「ご利益があるから、信じる。」そういうものだと思います。逆に言えば、御利益がなければ、信じないのです。しかし、真の信仰は、十字架の主イエス・キリストを愛し、信頼しているので、「どういう結果になっても」信じる信仰だと言うことが出来ると思います。これは、自分のいのちも、自分の人生も、全能の神の御手にゆだねる信仰と言えるでしょう。
自分で、自分のいのちを守ろうとすればするほど、逆に、追い詰められて行くように思います。そこには希望も、平安もありません。しかし、善にして、善をなして下さる神に、すべてをゆだねるとき、深い安息を得るとともに、そこから、生きる希望と力も沸いて来ます。何があっても、恐れることなく 安心して歩んで行くことが出来ます。
この物語の結果は、ほんとうにすばらいしい結末となりました。私たちの信じている神は、信頼を決して裏切らない方です。どうぞ、礼拝においでください。共に、主をほめたたえましょう。
☆昼食サービス並びに、午後の集会はありません。
☆教会の入り口で、手を十分にアルコール消毒してから、お入り下さい。
☆体調がすぐれない方、熱がある方は、ご自宅で静養して下さい。
☆礼拝の途中で、一斉換気を行います。防寒着を着たまま、礼拝しても構いません。
☆若干、手縫いのマスクの用意があります。必要な方は、お知らせ下さい。
☆新型コロナウイルス感染症から、守られますよう、お祈りいたします。また、一日も早い収束を祈ります。