友よ。あなたの罪は赦されました

M131103礼拝メッセージ 「友よ。あなたの罪は赦されました」 ルカ5章17~26節

1、自分ではどうしようもない問題
18節  するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。

中風というのは、いわゆる「脳卒中」の後遺症で、体が麻痺して動かなくなってしまった状態を言います。この中風の人も、寝たきりの状態であったと思います。おろらく、ことばの障害もあって、話すこともままならなかったのでしょう。中風は、当時の医学では、治すことは出来ませんでした。治る見込みはなく、ただ、ベットに横たわっているしかありませんでした。

でも、そこにグットニュースが飛び込んできました。あの、人々の病を癒すと評判のイエスが、この町に来ているぞ。当時、イエスさまは、ガリラヤ地方をあちらこちらと、旅をしながら、福音を伝えていました。一か所にあまり長くとどまることはあまりありませんでした。ですから、彼は、このチャンスを逃すましと思ったことでしょう。

しかし、彼は、自分で行くことは出来ませんでした。そばにいた人たちに「あのイエスのところへ連れて行ってくれ。」と頼んだのだと思います。あるいは、一緒に居た人たちが、イエスさまにところに連れて行ってあげようと言ったのかもしれません。たぶん、その両方であったと思いますが、中風をわずらっている人は、床に載せられたまま、イエスさまがおられた家に連れて来られました。マルコの福音書には、「ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、みもとに連れて来られた。」と書いてあります。

しかし、せっかく家の前まで来たのですが、戸口のところにまで人はいっぱいで、中に入ることなどできません。4人の男たちは、どうしたらよいものかと、思いあぐねていたとき、良い考えがひらめきました。「そうだ。屋根の上から、イエスさまの前につり下ろそう。」当時の家の屋根は、簡単な作りでした。何本か梁をわたして、その上にわらを敷き、粘土を塗って固めて作りました。19節で「瓦」と訳されているのは、「粘土」という意味です。簡単な作りですから、しばしば、屋根の張替工事が行われました。もしかしたら、ちょうどこの時、屋根の張替工事が行われていたのかもしれません。

それにしても、見ていた人たちは、彼らの大胆な行動にあっけにとられたことでしょう。上からするすると、床に寝かされた人が降ろされて来たのです。何と失礼なと苦々しい思いで見ていた人もいたと思いますが、イエスさまは、怒るどころか、彼らを大歓迎してくださいました。

2、彼らの信仰を見て
20節  彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。

イエスさまは、「彼ら」の信仰をご覧になりました。「彼らの信仰」のとは、その中風の人、そして、中風の人を床に寝かせたまま、イエスさまの前に連れて来た人たちが含まれています。もちろん、誰であっても、個人的にイエスキリストを救い主として信じなければ救われることは出来ません。

しかし、誰も、自分ひとりの力で信じた人はいません。みな、多くの人の助けによって、イエスさまの前に来ることが出来ました。ひとりの人が救われるまでに、どれだけ多くの人がお祈りしてくださったことでしょうか。自分が救われた背後に、涙の祈りがあったことを忘れてはいけないと思います。

作家の三浦綾子さんが、結核に掛かり、入院していたとき、ひとりの青年が、彼女の病室を熱心に尋ねて来ました。幼馴染の前川正さんです。前川さんは、医学生でしたが、クリスチャンで、捨て鉢な人生を送っていた、三浦綾子さんを何とか立ち直らせようとしました。しかし、綾子さんは、ますます毒づいて、ついには、入水自殺を図るのです。

ある日、前川さんは、旭川市街を一望できる丘に綾子さんを連れて行きます。そこで、彼は傍にあった小石を拾いあげ、自分の足をゴツンゴツンと打ちつけはじめるのです。「信仰のうすいぼくには、あなたを救う力のないことを思い知らされた。だから、不甲斐ない自分を罰するために、こうして自分を打ちつけてやるのです」―― そう言って、泣く前川正の姿に、綾子さんは心打たれます。やがて、彼女は、心から悔い改めて、イエスキリストを信じるようになりました。

彼女は、幼馴染であった前川正の涙の祈りによって、イエスキリストを信じることができました。そして、空しい人生から救われて、人の心に深い感動を与える、作品を書く人に変えられました。私たちは、神様と1対1で、信仰を持ちます。しかし、私たちが、信仰を持つまでに、多くの人の祈りと、涙と、労苦があることを忘れてはならないのです。イエスさまは、「彼の信仰」ではなく、「彼らの信仰」をご覧になりました。

3、「友よ。あなたの罪は赦されました」
イエスさまは、彼らの信仰を見て、中風の人に、「友よ。あなたの罪は赦されました」と言われました。中風の人は、何を求めて、イエスさまのところに、やって来たのでしょうか。ただ、自分の病気を治してもらうために、やって来たのでしょうか。私は、どうも違うような気がします。彼は、イエスさまに直接お会いしたいと願ったのではないでしょうか。

今日、読んだ箇所の中に「イエスの前に」という語が2回出てきます。学びシートの穴埋め問題をやってみてください。中風の人も、彼を連れて来てくれた人たちも、「イエスの前に」行くことが目的でした。「イエスさまにお会いしたい」そのために、いくつもの困難を乗り越えて、やって来たのです。

「友よ。あなたの罪は赦されました」というのは、完了形です。「あなたの罪は赦されています。」の方がピンと来るかもしれません。「安心しなさい。わたしは既に、あなたの罪を赦しています」とイエスさまは仰ったのです。

神様の前に出るのは、勇気が入ります。全く正しい方、全く聖いお方の前で、自分の罪や穢れに、失望し、いたたまれない思いになります。ダビデは、神様にこう申し上げました。「祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります。咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。」(詩篇65篇2,3)

イスラエルの王であったダビデも、神の御前に出る時、自分の罪・咎に圧倒されたのです。しかし同時に、神は、憐み深いお方であり、そむきの罪を赦して下さるお方であることも知っていました。多くの人が、自分の罪が示されることを恐れて、神に近づこうとしません。しかし、私たちが、神の御子であるイエスさまの前に出るとき、イエスさまは、叱ったり、責めたりせずに、「友よ。よく来たね。待っていたよ。あなたの罪はすでに赦されていますよ。安心しなさい」と仰ってくださるのです。「イエスさまの前に出る」これが、彼らの信仰でした。

4、罪を赦す権威
24、25節「 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために」と言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。

イエスさまは「罪を赦す権威」を持っておられます。「権威」とは、「支配する力」です。世の支配者は、しばしば、その権威を悪用して、人々を縛り付けようとします。しかし、主イエスさまの持つ権威は、人々を罪から解放する権威です。イエスさまの持つ権威は、支配する権威ではなく、罪を赦す権威なのです。イエスさまは、その罪を赦す権威を使って、中風の人を、希望のない人生から、神をほめたたえる人生へと解放してくださいました。

イエスさまの持つ「罪を赦す権威」は、ある出来事によって、裏付けされた権威です。ある出来事とは、イエスキリストの十字架と復活です。イエスさまは、ただ、言葉だけで「友よ。あなたの罪は赦されました」と仰ったのでなく、行動をもって、私たちの罪を赦してくださいました。本来、私たちが受けるべき罪の罰を、十字架の上で、身代わりとなって、受けてくださいました。私たちの罪はすべて、イエスさまの十字架によって、赦されています。そして、3日目によみがえらたことによって、今も生きて、私たちを救う、救い主であることを証明してくださいました。

NHKの「八重の桜」をご覧になっている方も多いと思います。同志社の新島襄の話がよく出て来ますが、「自責の杖」という有名なエピソードがあります。同志社大学が創立間もない頃、まだしっかりと組織が出来ておらず、何月からでも入学することが出来ました。先に入学した生徒たちは、後から入学した者たちと同じ学年になることに不満を持ち、新島が留守の間に、授業をボイコットして しまいました。学校は、大混乱に陥りました。

新島は、責任をとって、学長を辞任しようとしました。教師たちも、生徒たちもびっくりして、何とか思い留めようとしました。授業をボイコットしていた人たちも戻って来て、一件落着したのですが、しかし、新島は、罪はきちんと処罰される必要があると考えました。そして、朝礼で、全校生徒を前にしてこのように言いました。

「事件そのものは一応解決しました。しかし、それで終わったのではありません。私は校長としてどのようにするべきが考えました。そして、ひとつのことが分かりました。それは、罪は罰せなければならないということです。私は、この学校の責任者です。ですから、今回の事件の責任は私にあります。」そういって、突然、新島は上着を脱ぎ、ワイシャツの左袖をまくりあげ、右手に持ったムチで、自分の腕を「ピシ!」「ピシ!」3度4度、打ちました。左腕は皮が破れて血が滲みました。新島の目からは涙が流れていました。生徒たちは、やめてください。悪いのは私たちです。と言って新島に駆け寄りました。この事件を通して、ある者はキリストの十字架の意味が分かり信仰を持ったそうです。

イエスさまは、罪を赦す権威をもっておられます。イエスさまは、私たちの人生の総責任者として、私たちが犯した罪を赦すために、十字架に掛かってくださいました。そして、死んで墓に葬られ、3日目によみがえらえ、目には見えませんが、今も生きておられます。信仰を持ってイエスさまの前に行き、罪を悔い改め、イエスさまを信じるなら、誰であっても、救われるのです。

イエスさまは、私たちにも、「友よ。あなたの罪は赦されました」と、罪からの解放を宣言してくださっています。私たちは、イエスさまが罪を赦す権威をもっておられることを信じ受け入れ、心身ともに、健やかにされて、ここから立ち上がり、主をさんびしつつ、歩ませて頂きたいと思います。

20節  彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。

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