「実に神は世を愛された」

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M131201 「実に神は世を愛された」 ヨハネ3章16節

今日から、クリスマスを待ち望むアドヴェントに入ります。今朝のメッセージの中心聖句は、ヨハネの福音書3章16節です。約2千ページもある聖書全体をぎゅっと、凝縮すると、この3章16節にまとめられると言われます。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

1、驚くべき神の愛
新約聖書の原典は、当時の世界の共通語であったギリシャ語で書かれています。日本語の聖書は、そのギリシャ語から訳されているのですが、そのギリシャ語を見ますと、「それほどに」と言う「驚き」の言葉から始まっています。「それほどまでに、世を愛された」「神は、それほどまでに、世を愛された。」とヨハネは言うのです。

しかし、愛って何でしょう。愛は、漢字で、心を受けると書きます。愛は、まず、心の真ん中に受け取るものです。聖書は、愛を受けた人しか、愛は分からないと言っています。確かにそうだと思います。

昨日、クリスマスコンサートが、福島第1原発のある大熊町から避難してこられた方々が住む仮設住宅で行われました。最後は、復興支援ソング「花は咲く」で締め括られ、とても感動的でした。コンサートの後、自治会長さんが、原発事故後、どのように逃げて来たかをお話しくださいました。すぐに帰れると思ったけど、30年以上故郷に帰れないことが分かった。周りの人たちからいろいろ言われるけど、この故郷を失った悲しみは、経験した者でないと誰にも分からないと仰っていました。そうだろうなと思います。

いったい、私たちは、どこで、本当の愛を経験するのでしょうか。この世に、そのような愛などあるのでしょうか。しかし、ヨハネは、「ここに愛がある」「驚くべき愛がある」と言うのです。神の「変わらぬ愛」は、十字架の上に示されています。人は、自分が不利な立場に追い込まれると、自分を守ろうとするものですが、イエスキリストは、私たちの罪の身代わりとして、どんなに苦しくても、十字架の死に至るまで、父なる神の御心に従われました。イエス・キリストの愛は、ご自分のいのちを与える愛でした。

私たちも、このような愛を知りませんでした。イエスキリストに出会って初めて、神の愛を知り、驚いたのです。Ⅰヨハネの4章に「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」とあります。

私たちが、いつも教会学校のサマーキャンプでお世話になっている、御殿場のYMCA東山荘に、ディーン・リーパー・メモリアルロッジというのがあります。ディーン・リーパーとは、昔、アメリカから日本にやって来た宣教師の名前です。1954年(昭和29年)9月26日、ディーン・リーパー宣教師と、もう一人アルフレッド・ストーン宣教師は、函館から本州に渡るために、青函連絡船「洞爺丸」に乗っていました。

その日、台風15号が近づきつつありましたが、函館港を出たとたん、船は、激しい風と波に翻弄されます。乗客は、パニックに陥り、先を争って救命胴衣を着けようとしました。ストーンさんとリーパーさんは、あわてたり、泣き叫んだりする乗客を励ましながら、救命胴衣を着ける手助けをして回っていました。そこに、救命胴衣の紐が切れて、着けられなくなり、泣きそうになっている少女がいました。リーパーさんは、自分の救命胴衣を外して、彼女に着せてあげました。
 
「洞爺丸」は、間もなく、座礁転覆し、人々は真っ暗な海に放り出されました。この事故で、1155名の方が亡くなりました。その中に、ふたりの宣教師も含まれていました。そして、2人とも、救命胴衣を着けていませんでした。しかし、船内で、リーパーさんから、救命胴衣を譲ってもらった少女は、奇跡的に命が救われ、のちに、東京のYMCAの事務所を訪ねてきたそうです。

リーパーさんも、ストーンさんも、元々そのような愛を持っていたのではありませんでした。ふたりとも、イエス・キリストの驚くべき愛を知り、信じた方々でした。十字架の上で、ご自分の命さえも惜しまず与えたイエスキリストの愛を知り、信じて、罪の滅びから救われ、永遠のいのちをもっているからからこそ、まだ、神の愛を知らず、死を恐れていた少女に、自分の救命胴衣を譲ることが出来たのだと思います。人間に、そのような行動をとらせることができるキリストの愛とは、まさに「驚くべき神の愛」だと思います。

2、神の愛の対象
神の愛の対象は、世です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」の「世」とは、ギリシャ語で<コスモス>といいます。「秩序」とか、「美しさ」と言う意味です。聖書の一番初めにこうあります。「初めに、神が、天と地を創造された。」神さまは、天地万物、すべての創造のわざを終えられたとき、すべてをご覧になり「見よ。非常によかった。」と仰いました。初めに、神が造られた世界には秩序があり、それは、非常に美しいものでした。人もまた、神に全く信頼し、悪を退け、善を喜ぶ、美しい心が与えられていました。初めの世には、罪も死もありませんでした。

しかし、その秩序ある美しい世界に、最初の人であるアダムとエバによって、罪が持ち込まれ、この世は、罪と死の原理に支配されるようになってしまいました。もともと、人は、神からいのちを与えられ、神とともに、永遠に生きる存在でした。罪が入る前は、死はありませんでした。いつも、神様の愛に満たされて、心満ち足りていたのです。

しかし、罪が、神と人の間に入って、関係を断絶してしまいました。神の愛を失った人類は、その心が悪に傾くようになりました。自己中心となり、ねたみや、憎しみ、争い、好色、敵意、そのような、おどろおどろしい罪の性質が、人の心に入り込んできました。人と人は、赦し合い、愛し合う代わりに、責任をなすり合い、憎み合い、民族と民族は争い、国と国は戦争を繰り返すようになってしまいました。せっかく、神が、秩序ある美しい世を造られたのに、世は、罪によって腐敗してしまったのです。

しかし、驚くべきことに、神は、罪にまみれてしまった世を愛されました。神は、そんなに争いばかり繰り返しているなら、滅びてしまえと、見捨てたりなさいませんでした。そうではなく、愛するひとり子であるイエスキリストを送り、元の美しく、秩序ある世界に、回復しようとされたのです。神の驚くべき愛は、汚れきってしまった者をも愛し、受け入れ、元の美しい姿に回復しようとする愛です。

この「世」というところに、自分の名前を入れてみるといいと言われます。私の場合は、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、川嶋直行を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」私も、滅びから救われた者のひとりです。キリストの愛を知り、救って頂きました。

3、永遠のいのちを得るため
16節後半に、「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とあります。この御子とは、神の唯一の子である、イエスキリストのことです。つまり「イエスキリストを信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」となります。

皆さんは、「永遠のいのち」が欲しいと思われますか。昔、ある人に聞いたら、「いらない。こんな辛いことが多い人生、永遠になんか生きたい訳ないでしょ。」と言われ、「そうか。そう思う人もいるんだ。」と思いました。しかし、永遠のいのちとは、単に、死がない、ずっと続くいのちではありません。神の愛によって生かされる、喜びのあるいのちです。罪から救われ、神との関係が回復し、神様の愛の中に生きるいのちです。今、私たちに与えられているいのちとは、全く質の異なる、霊的ないのちなのです。

私は、幼稚園児のとき、死ぬのが恐くて、泣きながら母に「ぼく、死ぬのはいやだ。」と訴えた人間です。ですから、イエスキリストを信じて、滅びから救われ、永遠のいのちに与ったとき、本当に喜びがあふれてきました。人は死んだらどうなるのだろうと、長年、漠然と抱えていた不安から解放されました。

しかし、私たちは、普段あまり「永遠のいのち」なんて、考えないかもしれません。良く言えば、目の前の人生に集中して生きている。悪く言えば、ゴールが分からずに生きていると言えます。伝道者の書3章11節に「神は、人の心に永遠を与えられた。」とあります。人は、どんなに目の前の人生に夢中になっていたとしても、ふっと、永遠を思うことがあるのではないでしょうか。

先日、「終活」についての本を読みました。「就職活動」ではなく、「人生の終わりに備える活動」を近頃「終活」というのだそうです。しかし、正直、私は、がっかりしました。葬儀をどうするか、墓をどうするか、遺産をどうするか、ほとんどがそういう内容でした。しかし、もっと、本質的な問題があるのではないでしょうか。聖書は、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル 9:27)と言っています。本当に、人生の終わりに備えるというのなら、自分のすべての罪が赦されていることを確かにすべきだと思います。私の永遠の住まいが天に備えられていることを確信することの方が、はるかに重要なことです。

「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」「永遠のいのちを持つ」の「持つ」は現在形です。「今、持っている」ということです。誰でも、イエスキリストを救い主として信じるなら、その人は、永遠のいのちを持っているのです。今日、イエスさまを信じるなら、今日、滅びから解放され、今日、永遠のいのちを持つのです。

神は、私たちが救われ、永遠のいのちを持つために、難しいことを要求してはおられません。イエスキリストを信じる者は、ひとりとして、滅びることはありません。みな、永遠のいのちを持つのです。信じたような気持ちになるのではなく、信じるのです。自分の罪を認め、悔い改めて、イエスさまを受け入れるなら救われます。もし、神様が、今日イエスさまを信じるよう促しておられるなら、思い切って信じてください。主イエスさまの救いを受け入れてください。イエスキリストを信じて、永遠のいのちに与るよう、心からお勧めいたします。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

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