「インマヌエル‐神はわたしたちとともにおられる」

インマヌエル

M131208 「神はわたしたちとともにおられる」 マタイ1章18~25節

今日は、アドヴェントの2回目の礼拝です。クリスマスは、イエス・キリストが、私たちとともにおられるために、来てくださったことを喜び、祝う時です。今、この時、私たちとともにいてくださる救い主イエス・キリストに、深く感謝し、ご降誕をともに喜びましょう。

1、罪のないお方として
18~20節  イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

この時、ヨセフとマリヤは許嫁でした。正式に結婚してはいませんでしたが、ふたりが結婚することを承諾し、準備する期間でした。しかし、ふたりがまだいっしょにならないうちに、マリヤは聖霊によって身重になりました。そのことを知ったヨセフは、非常に戸惑ったと思います。自分には全く身に覚えがないのに、マリヤが身ごもったのです。

ヨセフは、いくらマリヤを愛し、マリヤを信じていたとはいえ、自分の子ではない子を宿している女性と、そのまま結婚することは出来なかったでしょう。かといって、そのことを人々の前に公にすれば、自分は身の潔白を主張出来たかもしれませんが、マリヤは姦淫の罪を犯した者とされ、大変不名誉な烙印を押されることになりました。ヨセフは、正しい人であったので、そのことを、自分の心のうちに収め、彼女を内密に去らせようとしたのです。

ヨセフが、このことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言うのです。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」ヨセフが、どこまで理解できたかは分かりませんが、それまで疑問に思っていた謎が解けたのでしょう。24節にありますように、「ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れた」のです。

救い主イエス・キリストは、普通の夫婦の営みによって生まれて来たのではありませんでした。すべての幼子と同じように、母の胎から生まれて来たのですが、聖霊によって身ごもったのです。「処女降誕」と呼ばれます。「そんなの神話だ。作り話だ。都合の良いように、後付けされた話だ」と言う方もいますが、しかし、救い主が処女から生まれるということは、イエスキリストが誕生する700年も前から、イザヤ書に預言されていたことでした。

22、23節 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

これは、旧約聖書イザヤ 7章14節「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」という預言の成就でした。これは、後から付け加えられた話ではなく、最初から神のご計画のうちにあったことでした。

救い主は、聖霊によって生まれてくる必要がありました。何故なら、普通に生まれて来る子はみな原罪を負って生まれてくるからです。原罪とは、最初の人アダムとエバが犯した罪を引き継いで生まれて来るということです。もちろん、赤ちゃんが自分の意志で罪を犯しているのではありません。自分の責任ではなく、アダムとエバによって全人類に罪が入り、全ての人に死ぬべき存在となったのです。それを原罪と言います。

罪ある者が、罪の中にいる者を救うことは出来ません。救い主の資格は、「罪がない」ということです。どんな優れた人でも、私たちと同じように生まれた人ならば、救い主の資格はありません。私たちを救うことが出来るのは、ただひとり、全く罪のない方です。ですから、救い主は、聖霊によって生まれて来る必要があったのです。原罪の連鎖の中に生まれて来たのではなく、神から直接来られたお方、それが救い主イエス・キリストです。

2、罪から救ってくださる方
21節 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

主の使いは、ヨセフに言います。「その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」ここでいう罪とは、神様との関係が断絶されてしまい、神の愛から、さ迷い出て、自分勝手な道を歩んでいることを言います。一度罪に堕ちてしまった人は、どんなに頑張っても、自力ではさまのもとに帰ることが出来ません。

芥川竜之介の短編小説「蜘蛛の糸」をご存知でしょうか。ある悪人が、散々悪いことをして、地獄に落ちました。ところが、生きている間、たった一つ良いことをしたというのです。それは、一匹の蜘蛛を殺さずに逃がしてあげたことでした。お釈迦さんは、極楽から地獄をながめて、その悪人に憐れみをかけてやります。一本の蜘蛛の糸を極楽から、地獄に向かってたらしてあげました。地獄で苦しんでいた悪人はこれ幸いと、蜘蛛の糸をよじ登りました。ところが、途中まで来て下を見ると、何と大勢の人が後からついてくるではありませんか。「来るなー。糸が切れる。」と叫んだ瞬間、糸が切れて自分も再び地獄に落ちてしまった。という話しです。

もちろん、これは、小説であり、創作ですが、しかし、自力で救いを得ようと、必死にもがいても、結局は、自分のうちにある罪の性質のために、徒労に終わってしまう、その絶望感を、見事に描いていると思います。私たちは、救ってもらわないと、罪から抜け出すことが出来ないのです。誰も、自分の力で罪から救われることは出来ません。

イエス・キリストは、私たちを罪から救うために、この世にお生まれになりました。冷たい罪の道を歩んでいた私たちに、神様の方から、救いの手を差し伸べてくださいました。上から、「さあ、ここまで登って来なさい」と言うのではなく、イエスキリストの方から、どろどろとした罪の世界の只中に下りてきてくださって、罪の中でもがき苦しんでいる私たちを救ってくださるのです。

3、私たちとともにおられる
1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

旧約聖書の時代、主は、アブラハム、イサク、ヤコブそして、モーセ、ヨシュアとともにいてくださいました。多くの場合、彼らが困難や、窮地に陥ったとき、あるいは、不安を覚えているとき、「わたしは、あたなとともにいる。恐れるな。」と励ましてくださいました。

ヤコブが、兄の恨みを買って、おじのラバンのもとに逃げて行くとき、神はべテルで、ヤコブにあらわれ、「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」と約束してくださいました。

モーセが、神様からイスラエルの民を、エジプトから連れ出せと命じられたとき、モーセは「私はいったい何者なのでしょう。そんなことが出来るわけがありません。」としり込みしました。その時、 神様は、モーセに「わたしはあなたとともにいる。・・・わたしがあなたを遣わすのだ。」(出エジプト3:12)と仰いました。モーセは、主に「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。」と申し上げ、主のご同行によって、40年の困難な荒野の旅を続けることが出来ました。主がともにおられたので、「身に着けている着物はすり切れず、その足のくつもすり切れなかった。」と聖書は記録しています。

イザヤ書 41:10には「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」とあります。イスラエルの人々が、自分たちの罪によって、異国の地に連れてこられ、悲しんでいたとき、神は、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。私の義の右の手で、あなたを守る。」と約束してくだいました。70年後、その約束は成就しました。

神は、彼らが心細く思う時、心配なとき、不安を覚えるとき、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。」と励ましてくださいました。神は、現代に生きる私たちとも、今、ともにいてくださいます。私たちが気づいていなくても、気づいていても、神は我らとともにおれるのです。アブラハムや、モーセとは違い、平凡で、小さな私たちではあっても、神は私たちとともにいてくださいます。主がともにいてくださるから、いろいろな困難があっても、私たちは、この人生の旅路を、前を向いて、上を向いて、歩んで行くことができます。

イザヤ書 63章9節 「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。」とあります。私たちの信じている神は、インマヌエルの神です。主は、「あなたを決して見捨てない」と約束してくださり、私たちが困難な中を通るときは、主は私たちを抱いて運んでくださるのです。

4、私たちの内におられる
インマヌエルの神は、ただ、私たちとともにいてくださるだけなく、私たちの心のうちに、来てくだって、私たちを内側から造りかえて下さるお方です。

コロサイ 1章27節「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」

全く罪のないイエスキリストが、聖霊として、私たちのうちに来てくださいます。これが、キリスト教の奥義です。内におられるキリストこそ、インマヌエルの神―私たちとともにおられる神の奥義です。

全く罪のないイエスキリストは、十字架で贖いを成し遂げられ、死にて葬られましたが、3日目によみがえり、天に帰って行かれた代わりに、聖霊として、信じる者の心に来てくださいました。現代に生きる私たちが、イエスキリストを信じるというのは、私たちの心に、聖霊を受けるということです。私たちの心に、イエスキリストをお迎えするのです。聖霊は、神の愛を私たちの心に注いでくださり、私たちの心は、聖霊によって、イエスさまのお心と一つにされて行きます。これが、インマヌエルの神の奥義です。

イエスキリストは、罪に汚れた私たちの心にも来てくださり、私たちの心の汚れをきれいにし、そこを神の愛で満たしてくださいます。繰り返しになりますが、この恵みが、インマヌエル‐神がわたしたちとともにおられる‐の奥義です。救い主イエス・キリストは、外側から助けてくださるお方であると同時に、内側からも助けてくださるのです。

23節 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

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