「飼葉おけの主-委ねる幸い-」

ゆだねる幸いショートムービー

M131215「飼葉おけの主-委ねる幸い-」ルカ2:1-12

1、飼い葉おけにお生まれになったキリスト
1~5 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。

そのころとは、イエスキリスト誕生の頃です。当時地中海一帯は、ローマ帝国の支配下にありました。皇帝アウグストが、地中海世界を統一して、パックスロマーナ、ローマの平和と呼ばれる中にありました。皇帝アウグストから、全世界の住民登録をせよという勅令が出されたのです。

それで、ダビデの家系であり血筋でもあったヨセフは、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するため、自分の本籍地である、ユダヤのベツレヘムに上って行きました。ベツレヘムは、ダビデ王の出身地で「ダビデの町」とも呼ばれました。グーグルマップで調べると、彼らの暮らしていたナザレから、本籍地ベツレヘムまで、157キロ、徒歩で33時間かかります。マリヤが身重であったので、マリヤをロバに載せて、ゆっくりと歩いて行ったことでしょう。やっと、ベツレヘムに着いて、住民登録を終えたところで、マリヤは月が満ち、男子の初子を産みました。

6,7節「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

宿屋は、住民登録に来た人たちでどこも満員でした。それで、旅をする人たちが、自分たちが乗ってきた、らくだやロバを留めておく小屋で、マリヤは男の子を産んだのです。神のひとり子が誕生するというのに、聖書は、「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」とさらりと書いています。もし、どこかの国の権力者なら、力づくで宿泊客全員を追出したことでしょう。しかし、イエスキリストは、全くそのようなことには固執せず、提供された飼葉おけに、身を横たえたのです。男の子は、布にくるまれて、ラクダやロバの食べる藁を入れておく飼葉おけに、寝かせられました。

イエスキリストが、ベツレヘムでお生まれになったことは、幾つかの偶然が重なったかのように見えますが、決して偶然ではなく、予め聖書に預言されたいたことでした。
旧約聖書のミカ書5章2節に、こうあります。「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」この預言は、紀元前8世紀に活躍した預言者ミカによるものです。私たちには、偶然と見えたとしても、すべては、神様の深いご計画のなかに行われのでした。

2、無力に身を委ねられたキリスト
8~12節  さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

救い主がお生まれになった。という知らせは、一番最初に、野宿で、夜番をしながら羊の群を見守っていた羊飼いたちに届けられました。国や町の偉い人たち、有力者たちにではなく、名もない労働者である羊飼いたちに告げられました。

天の使いは、羊飼いたちに、こう言いました。「あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」「しるし」とは、ギリシャ語では、セーメイオンといいますが、「他のものと区別する特徴」とか「奇跡」という意味があります。救い主イエスキリストのトレードマークは、「飼葉おけに寝ておられるみどり子」だというのです。イエスキリストの最も良く知られたトレードマークは、十字架ですが、もうひとつの重要なトレードマークは「飼葉おけに寝ておられるみどり子」です。

「飼葉おけに寝ておられるみどり子」というトレードマークは、私たちに、何を示しているのでしょうか。すぐに、思い浮かぶのは、神の謙遜、へりくだりです。神さまは、ご自分の権威を振りかざすのではなく、私たちを救うために、低く低く、へりくだってこの世にお生まれになりました。私たちは、この神様の驚くべき謙遜によって、救われるのです。私たちは、神の御子イエス・キリストの謙遜を見て、自分の高ぶりを悔い改め、へりくだります。それが、魂の救いとなります。目には見えませんが、確かにおられる神の御前に、へりくだることが、私たちの救いなのです。

しかし、今日は、もうひとつ、「飼葉おけに寝ておられるみどり子」の姿に、神の手に全てを委ねて安息するということを見たいと思うのです。一般的に、幼子の特徴は、両親をはじめ、まわりの人々に、全く依存しているということだと思います。赤ちゃんは、最初は、寝がえりすら自分でするこことは出来ません。ミルクも、排せつも、何から何まで、親をはじめ、周りの人に全く頼っています。ほおっておかれたら死んでしまいます。

救い主が、どうして、そんな無防備な、か弱い姿で来られたのでしょうか。今、ニュースで、北朝鮮のナンバー2が処刑されるという驚愕の事件が報道されていますが、昔から、独裁者は強権的であり、力ずくで押さえようとするものです。人々を震えあがらせ、恐怖で人を支配すようとするのです。昔も今も変わりません。救い主イエスキリストは、そんな、権謀術数の渦巻く世に、何の護衛もなく、貧しい飼葉おけに、無防備な幼子としてお生まれになりました。これが、救い主のしるしです。自分では何も出来ない、無防備な幼子が、神の全能の御手に守られて、全く安心している、その姿に、私たちの救いの本質を見るのです。

マタイの福音書2章13~16節に、生まれたばかりのキリストが、ユダヤを治めていたヘロデ王から命を狙われる場面が出て来ます。ヘロデは、東方の博士たちから、救い主の生まれた場所を聞き出そうとしましたが、失敗したので、兵隊を遣わして、ベツレヘム周辺の2歳以下の子供を皆殺させました。ヨセフとマリヤは、夢で、エジプトに逃れるように示され、夜のうちに、幼子を連れてエジプトに逃れて、間一髪助かりました。

シリヤに、こんな伝説があるそうです。
ヘロデ王の手を逃れてエジプトに向かって旅立ったヨセフとマリヤと幼いイエスが、エジプトに行く途中、小さな洞穴で夜を過ごしました。そこに1匹のクモがいました。クモは洞穴の入口にくもの巣を張りました。真夜中のこと、ヘロデの兵隊がイエスを追って、その洞穴までやって来ました。しかし、兵隊は蜘蛛の糸を見て、こう言いまいました。「この洞穴にはクモの巣が張っている。中に人がいるはずはない」。こうして兵隊たちは別のところへ行ってしまいました。洞穴の入口には夜露をいっぱいにたたえたクモの巣が月の光の中でピカピカと輝いていました。クリスマスツリーに掛けられる銀のモールや金のモールは、この時のクモの糸を表わしているそうです。

「飼葉おけに寝ておられるみどり子」は、全く無力で、無防備でしたが、実は、ちゃんと神に守られていたのです。神がしっかり、守ってくださるから、弱くても大丈夫なのです。それが、イエスキリストが与える救いです。先日、入院しているM兄のところに行って、枕元で、H兄といっしょに讃美歌を歌いました。「主我を愛す。主は強ければ、我弱くとも、恐れはあらじ。我が主イエス。我が主イエス。我が主イエス。我を愛す。」とても単純な賛美歌ですが、イエスキリストの救いを見事に歌っています。

主が私を愛しておられるから、そして、主は強いお方だから、私は弱くても、恐れはしない。そうです。これが、「飼葉おけに寝ておられるみどり子」が、現代に生きる私たちに示している救いなのです。だから、私たちがどんなに弱くても、大丈夫です。主が守ってくださいます。

3、神の安息に入る
ヘブル4:10、11 神の安息に入った者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。

慈しみ深い神の手にすべてを委ねるとき、私たちは、安息を得ます。皆さんは、魂の安息を得ておられますでしょうか。人は、罪に堕ちる以前、エデンの園で、いつもこの安息の中に生きていました。すべての重荷を主に委ね、ふたりは、神との人格的な交わりを楽しみ、お互いの人格的な交わりを楽しんで生きていました。そこには、憎しみや、疑いや、裁きというものはありませんでした。

罪とは、すべてを神に委ねて安息に生きることをやめ、自分ですべてを取り仕切って生きる生き方を選択することです。自分のことは自分で決める、全て自分の力で行う。その責任も自分で取る。それこそ、人間のあり方だと、古い蛇であるサタンがそそのかしたのです。アダムとエバも、その通りだと頷いて、善悪の知識の木からとって食べました。その時以来、神に信頼して生きることをやめ、自分の力で生きる道を歩むようになりました。

しかし、被造物である人間が、人間の力だけで生きて行ける筈などありません。神に委ねることをやめてしまったために、たくさんの問題が起りました。人は、神に委ねることをやめた結果、絶えず争いが生じるようになりました。人は、神様に委ねずとも、自分の力で幸せになれると思ったのですが、結果は全く逆でした。疑いや、憎しみ、争いは、エスカレートし、人類の歴史は戦争を繰り返すようになってしまいました。今も、人は、同じ過ちを繰り返しています。罪のスパイラスから抜け出すことができないのです。

その罪から、私たちを救うためにイエスキリストが来てくださいました。私たちが、もう一度、神に信頼し、神に委ね、安心して生きるようになるために、イエスキリストは、「飼葉おけに寝ておられるみどりご」となって、私たちのところに来てくださいました。

「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

4、主に委ねて生きよう
詩篇37:5 あなたの道を【主】にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。

ここに、神の安息に入る3ステップが書いてあります。
1、自分の人生をすべて主にゆだねる
2、主に信頼する
3、主が成し遂げてくださる

イエスキリストの救いという大きな箱舟に、乗り込んでしまう。そして、背負っている荷物を下ろす。神が、最善をもって、私の生涯を完成に導いてくださると信じて安心する。これが、主にゆだねるということであり、神の安息に入るということです。イエス・キリストは、私たちを罪と滅びの恐れから解放してくださるために、救い主として来てくださいました。イエスキリストは、私たちに自由を与えるために、飼葉おけにお生まれになりました。もはや行く末を恐れる必要はないのです。たとえ、飼葉おけに象徴されるような、疎外された場所、貧しいところに置かれても、そこに、救い主がともにおられるからです。イエスさまがともにおられることは、全世界を得るよりも、価値があると聖書は言っています。

罪の暗闇の中に留まっていてはいけません。自分でやろう、自分何とかしようという気負いを捨てて、神様の愛と慈しみの中に、身も心も、どっぷりと浸らせて頂きましょう。「大船に乗ったつもりで」と言う言葉がありますが、つもりでなくて、救い主イエスキリストの救いの中に入り、主を信じて、すっかり安心すればよいのです。主に信頼して、主のあとについて行くとき、私たちの生涯は完成に導かれて行きます。これが、羊飼いたちに知らされた、喜びの知らせです。そして、同じように、現代に生きる私たちにも提供されている救いなのです。

私は、以前「ベテルの家から吹く風」という本を読みました。
北海道のえりも岬の近くに、浦河町という町があります。そこに、ソーシャルワーカーとして赴任した向谷地さんが、障害者の方々と共に生きる喜びと、奮闘が、たのしく書かれてあります。浦河町は、アルコール依存症になる方が多いところだそうです。そこにクリスチャンのソーシャルワーカーとして赴任した向谷地さんは、出来るだけ薬を使わず、互いに助け合って生きる「ベテルの家」を始めます。

向谷地さんのモットーは「安心して絶望できる」援助だそうです。本の中にこんな言葉がありました。「だめなままの自分を受け入れようということにも、こだわることをやめ、諦めるしかないと思い、今まで自分が必死にしがみついていた手綱を手放したとき、手放したことで、自分にマイナスになるものが1つもないことに気がついたのです。『諦めること』それをベテルの家では、生き方の高等技術としてとても大切にしています。」

「諦める」というのは、誤解を生むかもしれません。私は、「委ねる」ことだと思います。全てを神に委ねるのです。それが、生き方の高等技術だというのです。自分の不遇な境遇であっても、貧しさや、悲しい経験も、一切を慈しみ深い神の御手に委ねるのです。実際、委ねてみたら、何一つ失うものはなく、むしろ、囚われていたことから自由になれるのです。これは、私たちにとっても、生きる高等技術だと思います。

申命記33:27 「昔よりの神は、住む家。永遠の腕が下に。」と言う言葉があります。私たちの人生の下に、神の永遠の腕があるのです。この腕は、とても力強い腕です。私たちをしっかりと支えてくれる腕です。たとえ、私たちが、どん底と思われるところを通ることがあっても、神は、ちゃんとそこにもおられて、私たちを支えてくださるのです。

ルカ2:10~12
御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

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