主に感謝せよ

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M131229 主に感謝せよ 詩篇107篇

1、主に感謝せよ
1節 「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」

一年間、私たちは、いろいろ人に支えられ、励まされ、ここまで参りました。私も、今年一年を振り返ってみます時に、いろいろな場面で、助けて頂いたことを思い起こします。また、お祈りして頂き、励まして頂き、主にあるお交わりに加えて頂きましたこと、高いところからですが、心から感謝申し上げます。ありがとうござました。人は、お互いに支え合って生きているのだということを、改めて教えらえた一年でした。

しかしながら、私たちの感謝の源は、主にあります。すべての良き賜物は、主から与えられたものです。時間にしても、空気や水、食べ物にしても、私たちが生きて行く上で必要なものすべて、親、兄弟、家族、友人も、いのちも、すべては主からの賜物です。主が、あまりにも、惜しみなく与えてくださっているので、私たちは、「当然」のように錯覚してしまいそうになりますが、決して「当たり前」ではありません。すべては、主の恵みです。

ですから、私たちは、すべての良き賜物を与えてくださった主に、心からの感謝をお捧げしたいと思います。「今年はあまりいいことがなかった。」と言う方が、もし、おられましたら、もう一度、原点に帰って、「今年、生かされて来たこと」は、主の恵みに他ならないことを悟りましょう。そして、主に感謝を捧げましょう。ようするに、どんな一年であっても、私たちは、「主に感謝」をお捧げするのです。

詩篇107篇を読みますと、たくさん良い事があったから感謝している訳ではないことが、お分かりになると思います。詩篇107篇で何度も繰り返されている言葉があります。1つは「この苦しみのときに」という言葉です。「この苦しみのときに、彼らが【主】に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。」6節、13節、19節、28節、少しの違いがありますが、ほぼ同じ言葉が4回繰り返されています。「この苦しみのときに」この詩篇の作者も、いろいろな苦しみや、悩みを通って来ました。たくさんの苦しみや、苦悩を通った。しかし、主に感謝を捧げているのです。試練に会わなかったから、感謝しているのではありません。

2、神は救い出してくださった
「彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを【主】に感謝せよ。」この言葉も、4回繰り返されています。8節、15節、21節、31節にあります。「この苦しみのときに、彼らが【主】に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。」と「彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを【主】に感謝せよ。」が対になっていることが分かると思います。

主は、苦しみの中から、祈ったとき、彼らを苦悩から救い出してくださいました。この感謝は、主が祈りに答えてくださったことへの感謝であることが分かります。主への祈りと、主への感謝は、コインの裏と表のような関係だと思います。苦しみの中で、主に祈った人が、心からの感謝を主に捧げることが出来るのだと思います。何故なら、試練や、苦しみの中で、主によく祈った人は、私たちに対する、主のくすしい業を体験したからです。

今日は、詳しく見て行く時間は、ありませんが、ここに4つの、祈りの答えが、述べられています。
①(4-9節)飢え渇いた魂が満たされたこと
②(10-16節)罪の奴隷状態から解放されたこと
③(17-22節)病が癒やされたこと
④(23‐31節)望む港に導かれたこと

今年一年の越し方を振り返ってみる時、これらのうち、少なくてもどれか1つは、自分の身に当てはまることがあるのではないでしょうか。私たちが、どうしたらよいか分かず、悩んでいたとき、主は、新しい力を与えてくださったのではないでしょうか。自分の愚かさ、罪深さに失望していたとき、主は「あなたの罪は赦された。しっかりしなさい。」と、励ましてくださいました。今年、主に病を癒やして頂いた方もおられると思います。人生の嵐に翻弄されたけれども、望むに港に導かれた方もおられるでしょう。主に祈ったにも関わらず、魂が捨て置かれたということはただの一度もありませんでした。

私も、様々な困難、試練に直面しましたが、決して、行き詰ってしまうことはありませんでした。倒されても、再び、立ち上がって前に向かって進んでくることができました。主は、私たちの限界を突き抜けさせてくださり、私たちを広いところに連れ出してくださいました。私は、一年を振り返って、「ハレルヤ。アーメン」と心から思います。

これらは、全て、私たちに対する、主のくすしいみ業です。苦しみの中から、主に祈った者に与えられた、主からの答えです。「彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを【主】に感謝せよ。」

古くからイスラエルに伝わる「船に乗った少年の祈り」というお話を紹介したいと思います。

「大海を船がゆっくりと進んでいた。船には、バビロニアやペルシャ、ギリシャやローマの人々が乗っていた。おおむかしのことで、人々は、みな偶像を崇拝していて、ある人は金の像を、ある人は銀の像をもってきていた。ひとりは、木の像を、ひとりは石で作った像を携えていた。船には、ユダヤの少年がひとり乗っていた。父にも母にも伴われず、遠くの国から少年はたったひとりで船旅をしていたのだった。

「おまえの神はどこかね。」などと偶像を崇拝する人たちから尋ねられたり、馬鹿にされたりしないように、少年は口数少なくすわっていた。さびしくもあったし、こわくもあった。知らない大勢の人の中で、たったひとりでいるのがつらくて、少年は早く家に帰りたかった。船はゆっくりと進んだ。水夫たちが櫓を漕ぎ、風がやむと帆を広げた。何週間もたってやっと港が見えてきた。

と、突風が吹いて、嵐になった。波がうねって、船を高く上げたかと思うと、力まかせに波の底に突き落とした。船は波にもてあそばれて、浸水しだした。乗客たちはあわてふためいた。助けを求めて、叫んだ。そして、それぞれ自分の神を取り出して祈った。金の像の前で泣き叫ぶ者、その横で、銀の像にすがりつく者。そして、石の像に祈ったが、何の効き目もなかった。その間にも、嵐はいっそうひどく、吹き荒れた。

どんな神も偶像も役に立たないと分かると、人々はがっくりして、あたりを見わました。ユダヤの少年が、船縁に横になって、海に投げ落とされないように、手すりにしがみついていた。「なあ、坊主。おまえはユダヤ人だろう。立って、お前の神に祈ってくれ。祈れば、お前の神は言うことを聞いてくださるそうじゃないか。わしらをこの嵐から救うことができるに違いない。さあ、黙っていないで、祈ってくれ。」

少年は祈りを知っていた。今まで黙っていただけだった。少年は立って一心に祈った。「どうか、神様。助けてください。海と嵐に静まれとおっしゃってください。無事に家に帰らせてください。船の人々の偶像は役に立ちませんでした。ですが、神様、あなたは助けてくださる方です。」

神は、少年をあわれんで祈りを聞き届けられた。風がやみ、海が静まった。船はゆっくりと港に入っていった。次の出帆に備えて、人々は、パンや果物を買いに船を下りた。少年はひとり、船に残っていた。少年がおりてこないので、人々は心配して声をかけた。少年の祈りのおかげで命が助かってからというもの、乗客達は少年を気遣い、かわいがっていた。「いっしょにおいで。何か食べるものとか、果物が欲しいだろう。まだまだ旅は長いんだ。」少年はさびしげに頭をふった。「ここは不案内で、どこで、何を買っていいのかわかりません。ぼくはひとりぼっちでみじめです。」

「おまえがみじめだと? みじめのは、わしらだ。バビロニアやペルシャの家に偶像をおいてきた者は、みじめでひとりぽっちさ。だが、金や銀の偶像をもっていた者たちだって、災難にあっても何の役にも立たないのだから、みじめなもんだ。だが、おまえは、どこにいたって、お前の神はいっしょだろ。お前を見捨てず、困った時には手をさしのべてくれるだろうが。」

たしかにひとりぼっちでも、みじめでないことに少年は気がついた。それどころか、人々は自分をうらやんでさえいる。この先も、神がともにいてくださると思うと、少年の心はなぐさんで、わらやいだ。」そして、ほどなく、少年は家にたどりついた。

私たちの信じている神は、祈りを聞かれるお方です。23~31節をご一緒にお読みください。
「 船に乗って海に出る者、大海であきないする者、彼らは【主】のみわざを見、深い海でその奇しいわざを見た。 主が命じてあらしを起こすと、風が波を高くした。彼らは天に上り、深みに下り、そのたましいはみじめにも、溶け去った。 彼らは酔った人のようによろめき、ふらついて分別が乱れた。 この苦しみのときに、彼らが【主】に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された。 主があらしを静めると、波はないだ。波がないだので彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた。 彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを【主】に感謝せよ。」

今年、祈りを聞いてくださる主が、私たちといっしょにいてくださったことを感謝したいと思います。たくさんの祈りを聞いて頂いたのではないですか。主がなしてくださった、くすしい業に、感謝致しましょう。もし、今年、祈りの素晴らしさをあまり経験できなかったという方は、来年は、ぜひ、「主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを【主】に感謝」する一年とさせて頂きたいですね。

3、主に贖われた者の感謝
2、3節 【主】に贖われた者はこのように言え。主は彼らを敵の手から贖い、彼らを国々から、東から、西から、北から、南から、集められた。

私たちの最大の感謝は、「贖われた」ということです。贖いとは、主イエスさまが、十字架に掛かって、そのいのちというとてつもない代価を払って、滅びに向かっていた私たちを、敵であるサタンの手から、神の愛の中に買い戻してくださったということです。これこそ、最も大きな「人の子らへの奇しいわざ」です。

全く罪のない、神のひとり子である、主イエス様の他、誰も、敵の手から、私たちを買い戻すことはできません。主イエスさまの十字架の犠牲によってのみ、私たちは、罪と死の支配から解放されることができたのです。ご自分のいのちをもって、買い取ってくださったイエス様に、どれほど感謝してもし切れるものではありません。イエス様はこうおっしゃいました。「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」私達は、主によって贖われた者です。感謝は、贖われた者にとって、もっともふさわしい態度です。

ですから、聖書は、「【主】に贖われた者はこのように言え。」と命じているのですね。未だ、解決されていない問題課題の中にあるかもしれません。しかし、私たちは、主に贖われた者です。主が、その尊いいのちをもって、死と滅びから救い出してくださいました。今、直面している問題も、主に祈り求めてゆくなら、必ず、最善の解決が与えられると信じます。何故なら、主は、まことにいつくしみ深く、その恵みは、とこしえまで。だからです。

今年、たくさん失敗もしました。しかし、主は慈しみ深いお方です。ペテロがイエスさまに「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」とお聞きしたとき、イエスさまは「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」と仰いました。主のあわれみは尽きることがありません。

「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」と主は仰います。御子イエスの血は、すべての罪から私たちをきよめることができます。そして、私たちにも、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と仰ってくださるのです。

私たちは、主の十字架の血潮によって、贖われた者です。私たちは、イエス・キリストのいのちという尊い代価を払って、買い取られた者です。私たちは、主のもの、主の民、その牧場の羊です。主に贖われた者として、主に、心いっぱいの賛美をお捧げしたいと思います。

1節 「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」

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