問題・課題の水の上を歩く マタイ14:22-33

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新年あけましておめでとうございます。元旦礼拝に来られた方々には、2回目の新年の挨拶となりますが、今年初めてお会いする方もおられますので、改めまして、新年のご挨拶を申し上げます。今年も、主にあって、宜しくお願い致します。

2014年のテーマは「イエスから目を離さない」で行きたいと思います。どのような年になるかは分かりませんが、キリスト者である私たちは、目の前のことに一喜一憂することなく、信仰の創始者であり、完成者であるイエスさまを、しっかりと見つめながら歩んで参りたいと思います。今朝は、「イエスから目を離さない」と関連して、水上歩行の記事から、学ばせて頂きたいと思います。

さて、イスラエルには、2つの大きな湖があります。北のガリラヤ湖、そして南の死海です。北のガリラヤ湖は、海抜マイナス200M、淡水湖です。南の死海は、海抜マイナス400M、世界一塩分濃度が高い湖です。普通の海水の塩分濃度が約3%であるのに対し、死海の水は約30%の濃度です。10倍です。なめると、ものすごくしょっぱいです。

この濃い塩分濃度のため、泳げない人でも必ず浮きます。沈むことはありません。湖の上で新聞が読めちゃいます。しかし、さずかに、水の上を歩くことは出来ません。体の半分くらいは沈みます。でも、足ひれをつけて、バタバタバタと走れば、少しは水の上を走ることが出来るかもしれませんね。いつか実験してみたいです。今日のお話の舞台は、死海ではなく、北部のガリラヤ湖です。ガリラヤ湖で、イエスさまは、水の上を歩くという奇蹟を行われました。

1、向かい風に悩む弟子たち
22‐26節  それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。

主イエスさまは、群衆を解散させ、弟子たちを無理やり船に乗せ、祈る為にひとりで山に登られました。何を祈られたかは、書いてありませんが、弟子たちの心の目が啓かれるようにと祈られたのではないかと思います。かなり長い時間、ひとり神の前に祈られました。日が傾き、夕方になり、あたりはすっかり暗くなっても、なお、イエスさまは祈り続けておられました。夜が明ける直前まで、祈っておられました。

その頃、弟子たちは、舟でガリラヤ湖を渡って、向こう岸に行こうとしていましたが、向かい風のために、なかなか前に進めずに、立ち往生していました。夜中の3時、あたりは真っ暗。舟は、強風のためひどく揺れ、弟子たちは、疲労困憊していたと思います。眠気も襲って来たことでしょう。お腹はすき、頭も働かなかったと思います。そこへ、イエスさまが、湖の上を歩いて、弟子たちの乗っている舟に近づいて来られたのです。

26節  弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。

私もそこにいたら、きっと、同じような反応を示したと思います。水の上を歩ける人などいる筈がありません。彼らは、暗やみの中で近づいて来られたのがイエスさまだとは思わず、「幽霊」だと思ったのも無理はありません。屈強な漁師たちが、すっかりおびえて、叫び声を上げたのです。しかし、私たちも、人生に何度かそんな場面に遭遇することがあるのではないでしょうか。

4つの福音書には、37のイエス・キリストによる奇蹟が記録されています。この水上歩行の奇蹟もその一つです。もちろん、福音書に記録された奇跡は、ごく一部ですから、もっと多くの奇蹟をイエス様は行われました。多くの方が聖書を学び始めて、最初に直面するのが、このような奇蹟は本当に起ったのだろうかという疑問でしょう。私もそうでした。しかし、考えてみれば、神は全能のお方ですから、何も難しいことではないのですね。

イエスさまがなされた奇蹟には、それぞれ目的があります。この水上歩行の奇蹟は、弟子たちが困り果て、孤立無援のように感じたとき、イエスさまは、どこからでもが近づいて来てくださり、彼らを助けてくださるお方であることを弟子たちに示されたのです。つまり、弟子たちの信仰を目覚めさせるための奇蹟でした。弟子たちは、この日の出来事を生涯忘れなかったと思います。

2、必ず来る主の助け
27節  しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。

恐れていた弟子たちに、イエスさまは、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と声を掛けられました。弟子たちは、水の上を歩いて来られたのは「幽霊」ではなく、イエスさまだと分かり、どれだけ安心したことでしょうか。恐れは、一気に安堵に変わりました。「イエスさまが来てくださった。もう大丈夫だ。」そう思ったことでしょう。

それにしても、もう少し早く助けに来て下されば、と思うのは私だけではないと思います。でも、これが、イエスさまが助けに来てくださるベストタイミングであったのです。イエスさまは、ただ単に、私たちを苦しみや苦悩から救い出してくださるのではなく、私たちの信仰が、成長するような助け方をしてくださいます。ハバクク書2章にこうあります。「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。・・・正しい人はその信仰によって生きる。」(3,4節)

ただ単に助かることが、私たちにとって良いことなのではありません。恐れや苦しみの中で、主を待ち望むこと。そして、主が私たちの思いを超えた素晴らしい方法で助けてくださるということを経験すること。それが、私たちの信仰の成長の糧となります。もし、今、祈っているのに主の答えがないと、不安に思っている方方がおられましたら、忍耐をもって主の助けを待ち望んでください。「もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。・・・正しい人はその信仰によって生きる。」のです。

3、ペテロの信仰
28節 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」

ペテロは、嬉しさのあまり、主に申しあげます。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」ペテロは、一刻も早くイエスさまのところへ行きたかったのでしょう。ペテロは、いつも、真っ先にイエスさまのところへ近づいて行きます。

ペテロは、復活のイエスさまが、ガリラヤ湖の岸辺に立っておられることが分かったときも、舟から湖に飛び込んで、100メートル足らずを一気に泳ぎ切って、イエスさまのことろへやって来ました。他の弟子たちは、その後で舟を漕いで岸までやってきましたが、ペテロはそれを待っていられなかったのです。少しでも、少しでも早くイエスさまのところへ行きたい。それが、ペテロという人でした。

「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」さすがのペテロも、水の上を歩いておられるイエスさまのところに、泳いで行きたいとは思わなかったでしょう。暗くて、冷たくて、波のたっている水の中に飛び込みたいとは思わなかったでしょう。でも、少しでも早く、イエスさまのところへ行きたい。ならば、イエスさまと同じように、水の上を歩いて行くしかない。イエスさまがそう命じてくださいすれば、私にも出来る。そう考えたのだと思います。

「主のお言葉があれば、私にも出来ます。」これがペテロの信仰でした。どんなに人間的には不可能に見えても、「主がここまで来い、とお命じになれば、私にもできます。」ペテロはそう信じました。イエスさまは、そのペテロの信仰を喜んでくださり、「来なさい」と言われます。ペテロは、主のお言葉に従って、水の上を歩いてイエスさまの方に歩いて行きました。この時、ペテロは、何歩くらい水の上を歩いたのでしょうか。すごい事だと思います。

ペテロが水の上を歩くことが出来たのは、信仰をもって、イエスさまを見ていたからです。信仰をもってイエスさまと繋がっているとき、イエスさまが力をもって支えていてくださいます。ところが、風を見て恐くなり、イエスさまから目を離してしたとたん、ペテロは沈みかけました。ペテロは、すぐにイエスさまに助けを求めました。「主よ。助けてください」。すると、イエスさまは、すぐに手を伸ばして、彼をつかみ「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」と言われました。そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやみました。イエスさまがいっしょにいてくださるとき、嵐はおさまります。私たちの心の中も、心配や不安の嵐が過ぎ去って、平安で満たされるのです。

4、現代の私たちへのメッセージ
この記事は、現代に生きる私たちに、何を語っているのでしょうか。今日は、説教題を「問題・課題の水の上を歩く」とつけさせて頂きました。あるいは、「失望、落胆という水の上を歩く」ということも出来ると思います。午前3時の湖は、暗くて、冷たくて、風で波だって、もし、沈んだら、飲み込まれて、おぼれてしまいそうです。誰も、そんなところに沈み込みたくありません。

この水は、私たちが直面する問題、課題、あるいは、失望、落胆だと思います。恐れたり、気落ちしてしまったら、その中に沈み込んで行ってしまいます。もちろん、沈み込んでも、イエスさまが、私たちの腕をつかんで、引き上げ、助けてくださいますが、出来ることなら、沈み込まずに、その上を歩いて行けたら、それに越したことはありません。問題、課題の上を歩いて行くのです。あるいは、失望、落胆の上を歩いて行きます。

Ⅰテサロニケ 5章16~18節 「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」とあります。これが、信仰を持って、問題、課題の水の上を歩いて行く人の心の状態です。どのような状況でも、失望、落胆の沼に沈んで行かない。主イエスさまを信じる信仰によって、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝して行くのです。

私たちは、しばしば、ペテロのように風を見て、怖くなり、イエスさまから目を離してしまいます。そうすると、問題、課題の中に、沈み込んで行ってしまいます。でも、もし、疑うことなく、主に目を向け続け、イエスさまを信頼し続けて行くなら、私たちは、問題、課題の上を歩いて行くことが出来ます。それが、イエスさまが、私たちに期待しておられる信仰生涯だと思います。

私たちの人生に、問題、課題が起っていることは避けられません。イエスさまを信じてクリスチャンになったからといって、試練に会わなくなる訳ではありません。どんな信仰者であっても、海岸に打ち寄せる波のように、次々と問題、課題はやってきます。しかし、主イエスさまを信じる信仰によって、その波上を歩いて行きます。

私は、サーフィンをやったことはないのですが、あるのは、ネットサーフィンくらいで、海で波に乗るサーフィンはしたことがありません。でも、映像などで、サーファーが、次ぎ次とやってくる大波の上を、サーフボードを巧みにバランスをとりながら、波に乗って行くのを見て、すごいなあと思います。クリスチャンは、次次とやってくる問題、課題の波を、信仰によって、乗り超えてゆく、サーファーに例えることが出来るかもしれません。主は、水の上にも道を造られるお方です。「そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。 ・・・これは、贖われた者たちのもの。」(イザヤ 35:8)

2014年、主イエスさまから目を離さずに歩んで行きましょう。
ヘブル12章2節「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」 主イエスさまに目を向け続けて行くなら、私たちは、平安の中を、希望をもって歩んで行くことが出来ます。もし、失望、落胆の沼に沈みそうになったら、すぐに、「イエスさま、助けてください。」と叫びましょう。イエスさまは、その力強い右の手で、私たちを引き上げてくださいます。訳の分からない事件に巻き込まれ、心の平安を失いそうになったときも、すぐに、イエスさまを見上げましょう。イエスさまは、ほどなく嵐を静めてくださいます。主イエスさまは、私たちの信仰の創始者であり、完成者です。主イエスさまを見つめてゆくなら、私たちは、人生の完成に導かれて行きます。

ナサニエル・ホーソンの短編小説「偉大な石の顔」をご存知の方もおられると思います。
アメリカのある渓谷に、アーネストという少年がいました。この渓谷から遠くに見える山の上の岩が、人の顔に見えるのです。人々はそれを「偉大な石の顔」と呼んでいました。村には伝説があって、いつか、あの崇高な「偉大な石の顔」にそっくりな人物が、この村に現われるということでした。

少年アーネストは、その「偉大な石の顔」を眺めるのが好きでした。一日の仕事を終えると、彼は何時間もじっとそれを眺めていいました。眺めていると、その「偉大な石の顔」が微笑んでいるように見えました。アーネスト少年は、その伝説の人物に会いたいと思うようになりました。ある日、その偉人がついに現われたという噂が村に広まりました。その人物は、生まれ故郷の村を出て、遠方の港町で商売を始め、ついには大金持ちになって、村に帰ってきまたのでした。人々は、彼を熱狂的に迎えました。しかし、アーネストには、その富豪の顔は、「偉大な岩の顔」とは似てもにつかぬ守銭奴の顔にしか見えませんでした。

歳月は過ぎ去り、アーネストはもう若者となっていました。彼は変わらず、一日の仕事が終わると、ひとりで、その「偉大な石の顔」を凝視することを楽しみにしていました。するとまた、伝説の偉人がついに現われたという噂が村に広まりました。何年も前に軍隊に志願し、幾多の苦戦を経て、今や名高い将軍となって帰って来たのです。人々は熱狂をもってその将軍を迎えました。しかし、アーネストには、その将軍の顔も、あの崇高な「偉大な石の顔」には見えませんでした。

気が付くと、アーネストは老年になっていました。毎日「偉大な石の顔」を見ながら過ごすうちに、アーネストの心も何ものにも動じない深い平安に満ちた心に変えられ、清らかで素朴な彼の思想は、善行となり、ことばとなって現われました。そして、いつの間にか、渓谷の人々から尊敬を受ける人物となっていました。驚いたことに、老境に達したアーネストの顔は、彼が少年の頃から毎日眺めていたあの「偉大な岩の顔」とそっくりとなっていたのです。アーネストが待ち望んだ、伝説の偉大な人物とは、実は彼自身であったという話です。

聖書は、言います。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」私たちが見つめる主イエスさまは、私たちのために、ご自分の命を犠牲にして、罪から私たちを救ってくださったお方です。私たちを深く愛しているお方です。私たちが見つめる主イエスさまは、私たちが、問題課題の中で、失望落胆しそうになるとき、私たちのところに近づいて来られ「何故疑うのか」と言って、その力強い腕で、私たちを引き上げてくださる、やさしいお方です。

私たちは、毎日、この主イエスさまを見つめて生きて行きます。その時、失望、落胆から守られるだけでなく、地上の人生を終えるとき、「私がほんとうに求めていたものがここにあった。」と気づくことになるでしょう。どうぞ、アーネストが、「偉大な岩の顔」を毎日見ることを楽しみにしていたように、私たちも、私たちを愛してやまない主イエスさまの御顔を仰ぎ見ながら、歩んで参りたいと思います。神様が、毎日のみ言葉と祈りの時間を祝福してくださいますようにお祈りします。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」 
(ヘブル12章1,2節)

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