御霊による助け合い

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M140112 御霊による助け合い ガラテヤ6:1~10

1、柔和な心で正してあげる
1節  兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。

どんな優れた人でも、あやまちに陥ることがあります。この「あやまち」ということばは、ギリシャ語でパラプトーマと言いますが、意図的にわざと犯した罪というよりも、たとえば、道に迷って脇道に逸れてしまったというような、ほんとうに誰でもが陥る可能性がある「あやまち」です。

もし、だれかがそのような過ちに陥ったのを見たら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心で、正してあげなさいというのです。決して、「そんなことではだめだ。」と断罪し裁くのではありません。この「正す」というのは、「繕う」「修繕する」と言う意味で、こわれたものを修繕して、元の状態に戻すという意味です。ですから、これは回復のわざです。

「正してあげる」には「御霊に満たされている」必要があります。「御霊の人であるあなたがたは」とある通りです。3節に「だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。」とありますが、ゆめゆめ、自分が何かりっぱでもあるかかのように思って、上から目線で、正してあげようなどとしてはいけないと、聖書は言います。

私もみ言葉の前に、自分のあり方を点検させられました。家族の間で、つい、ストレートに言ってしまうことがあるなあと思いました。「自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」とありますが、もし同じような状況であっなら、自分も同じ「あやまち」に陥っていた可能性があることを忘れてはならないのですね。

主イエスさまは、私たちの欠点をどのように扱ってくださったでしょうか。怒鳴ったり、断罪したりされたでしょうか。イエスさまは「わたしはなたを罪に定めない」と仰ってくださいました。そして、何度も失敗する私を忍耐をもって導いてくださいました。そうであるなら、私たちも主の柔和さにならって、愛をもって、兄弟が、あるいは姉妹が「あやまち」に陥った場合、そこから回復するよう祈るべきなのですね。私たちは、自分も罪赦された者であることを決して、忘れてはいけないのだと思います。

教会とは、イエスさまから罪を赦された者たちの集まりです。イエスさまに贖われた者として、もしだれかがあやまちに陥った場合には、知らんぷりするのではなく、かといって責めるのではなく、御霊の導きに従って、祈り、また諭してあげる。そのようにして、お互い、主の道から外れることなく、恵みのうちを歩んで行く、それが、善を行うと言うことだと思います。

もしかしたら、回復までに長い時間が掛かるかもしれません。しかし、何度やっても同じだから、もう飽いたと言わずに、忍耐をもって、回復を祈り続けてゆく必要があります。9節に「善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。」とある通りです。

2、互いの重荷を負い合う
2節 互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。
5節 人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。

私たちは、それぞれ、自分の負うべき重荷があります。これは、主イエスさまから、私たちひとりひとりに与えてくださった使命です。イエス様は、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」と仰いました。私たちは、それぞれ、自分の負うべき自分の重荷を負って、主イエスさまに従って歩んで行きます。この重荷に関しては、誰かに代わってもらうことは出来ません。

しかし、み言葉は、互いに負い合う重荷があると言います。日本語では、どちらも「重荷」と訳されていますが、原語のギリシャ語をみますと、違う言葉が使われています。敢えて違う言葉に訳すなら5節は「使命」、2節は「労苦」となるでしょうか。つまり2節は「人にはおのおの、負うべき自分自身の使命があるのです。」となり、5節は「互いの労苦を分ち合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」となると思います。

実際、両者の間に、どう線を引くか難しいところですが、しかし、この区別は大事でだと思います。何故なら、誰も、その人が負うべき重荷までも手を差し伸べたとしたら、余計なお世話となるからです。余計なお世話は、善を行うことではありません。逆に、その人の成長の機会を奪ってしまうことになります。しかし、互いに負い合う労苦があります。他の人が苦しんでいるのに、何の関心も払わず、何もしないでいるのは、主に喜ばれることではありません。

伝道者の書4章9~12節
「ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」

「どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。」「もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」いい言葉ですね。結婚式のときによく引用されるみ言葉ですが、これは、信仰の家族にも当てはまると思います。ひとりで重荷を背負ってゆくなら、重さに耐えられず、倒れてしまうことがあるかもしれません。しかし、互いの重荷を負い合ってゆくなら、立ち向かって行くことができます。「私のために、祈っていてくれる人がいる。」これは、どんなに大きな励ましでしょう。教会は、お互いの祈りの課題を、祈り合うところです。

今年、深川教会では、スモールグループで、もう少しお互いの重荷を負い合って行けたらと願っています。これは、新しいアイデアでも、現代のトレンドでもなく、聖書に示されている教会の姿だからです。これまで、神さまとの個人的な関係が強調されてきました。しかし、クリスチャン同士の横のつながりも、同じように大事です。教会は、お互いの重荷を負い合い、祈り合って天の御国を目指して進んで行くところです。私たちは「信仰の家族」という意識をもって、今年、今まで以上に、祈り合って進んで行きたいと思います。

3、善を行うことの報い
7、8節 思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

このような地上の教会における「御霊による助け合い」は、天の御国、天国に繋がって行くものです。私たちは、思い違いをしてはいけません。天国とは、のんびり、好きなことをし、好きな物を食べ、ひとりぼーっとしている所ではありません。主に贖われた者たちが、日々、主に感謝しつつ、互いに仕え合って行くところです。

「天国に行ったらそうします。」というのは、虫の良い話です。天の御国は、地上の教会の延長上にあるのです。「いつ、するのですか。」「今でしょ。」教会は、天の御国での生活の練習をするところでもあります。地上では、「あの人嫌い」と言うことができますが、天国で、そんなことは言えないと思います。何故なら、天国とは、互いに仕え合って生きて行くところだからです。

マーガレット・シリフが書いた「柄の長いスプーン」と言う話があります。
ひとりのラビが神様に質問しました。「一目だけでも、天国とはどういうことろか、地獄とはどういうところか見せてくださいませんか。」神様は、その願いを聞かれ、預言者エリヤにそのラビの案内をするように命じました。エリヤは、初めにラビを大きな部屋に案内しました。部屋の真ん中には、鍋が火にかけてあり、おいしそうなシチューが出来あがっていました。

 その鍋の周りには、大勢の人がいて、それぞれ、柄の長いスプーンを手に持っていました。しかし、みな、痩せこけ、青白い顔をして、その周りに立ちすくんでいました。そこは、氷のように静まり返っていました。スプーンの柄があまりにも長過ぎて、だれも、目の前にある、そのおいしい食事を食べることができなかったのです。ふたりがその部屋を出たとき、ラビはエリヤに尋ねました。「この奇妙な場所はいったい何ですか?」エリヤは答えます。「地獄だ。」

それからエリシャは、ラビを別の部屋に案内しました。そこは、最初の部屋と全く同じように、部屋の真ん中に、鍋が火にかけてあり、その中にはおいしそうなシチューが出来上がっていました。人々は、その周りに腰掛け、前の部屋と同じように、柄の長いスプーンを手に持っていました。しかし、前の部屋と違って、人々は、生き生きとした活気にあふれ、お互いに会話を楽しんでいました。

 第2の部屋の人々は、柄の長いスプーンを使って、自分で食べようとはせず、お互いに、食べさせてあっていたのでした。ラビは、すぐに理解できました。「なるほど。これが天国か。」

この違いがお分かりでしょうか。もちろん、これはたとえ話ですが、聖書の言わんとすることを的確に言い表していると思います。どうにもままならない世にあって、お互いに仕え合って行く時、そこに、神さまの祝福が注がれて行くのです。

4、機会を生かす
9,10節  善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。

「飽く」「飽きる」というのは、「落胆する」「やる気を失う」「諦める」という意味です。肉体を持ち、弱さと共存している私たちは、時に疲れてしまうことがあります。心が疲れてしまって、人とあまり関わりたくないと思うときもあるでしょう。そういうときは、主のもとに行って休めばよいのですね。主イエスさまは、こう仰いました。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11章28~30節)

わたしが、あなたを休ませてあげるから、元気を回復したら、もう一度、私が与えるくびきを負いなさいと、主イエスさまは、仰います。私たちは、そのようにして、主イエスさまから力を与えられ、失望から回復し、善を行い続けて行きます。その延長上に、天の御国が用意されています。やがて、私たちは、その実を刈り取ることになります。

10節に「機会のあるたびに」とあります。別の訳では、「時のある間に」と訳されています。聖書は、何度も「機会を十分に生かして用いなさい。」と言っています。神さまは、私たちが成長するための機会を備えていてくださいます。礼拝や、祈り会や、組会、伝道会、様々な機会があります。また日常生活でも、家族や隣人に善を行うチャンスがあると思います。今年、主から力と知恵を頂きつつ、神さまが備えていてくださる、貴重な機会、互いに、祈り合い、仕え合って行きたいと思います。

9,10節  善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。

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