「賜物をもって仕え合う」

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M140119 「賜物をもって仕え合う」 Ⅰコリント12章

1、キリストのからだ
27節 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

「あなたがたはキリストのからだであって」の「あなたがた」とは、教会に属するひとりひとりのことです。パウロは、教会は「キリストのからだ」であると言いました。「からだ」とは、英語ではボディです。教会は、キリストのボディだというのですね。

イエスさまは、二千年前、肉体をもって、エルサレムやガリラヤを歩き回り、福音を宣べ伝え、病気の人をいやされました。そのイエスさまは、贖いと成し遂げられ、父のもとに帰られ、もはや地上にはおられません。その代り、目に見えない聖霊として、私たちひとりひとりのところに来てくださいました。

イエス様を信じた人々に聖霊が下って、「教会」が誕生しました。つまり、「教会」は、天に帰られたイエスさまが、地上において、その働きを継続するための「からだ」なのです。贖いを成し遂げて、天に帰られたイエスさまに代わって、地上において、主の手となり、足となり、口となって、福音を宣べ伝え、イエスさまの働きを継続して行くのが、「教会」の役割です。そういう意味で「教会」は、「キリストのからだ」なのです。

もちろん、教会は自分たちだけは何もできません。主イエスさまの名代である御霊の助けと導きなにしは、何もすることが出来ません。教会の奉仕は、すべて聖霊の助けと導きによるものです。ここに何度、「御霊」と言う言葉が出てくるでしょうか。時間の関係で読みません、が「御霊によって」「同じ御霊による」「同一の御霊によって」「「一つの御霊によって」と、繰り返されています。教会の働きのすべてが、御霊によってなされることが分かると思います。教会とは、「御霊の助けと導きによって、 イエスさまの手となり、口となり、足となって、福音を伝えて行くキリストのからだ」 ということが出来ると思います。

オスカー・ワイルド の「幸せの王子」をご存知だと思います。ある町の小高い丘に、王子様の像が立っていました。この像は金箔で覆われており、二つの目は美しいサファイアで、腰にさした剣のつかには真っ赤なルビーが輝いていました。一羽のツバメが、南の国へ行く途中、王子様の肩に留まり、一休みをします。すると、王子様の目から涙が一粒落ちてきました。何と幸せの王子の目から涙がポロポロとこぼれているではありませんか。

ツバメは尋ねます。「幸せの王子なのに、どうして泣いているのですか」「ここからは、町のすべての人が見えます。この町には幸せではない人がたくさんいるので、かわいそうで涙がとまらないのです」「あの川沿いの小さな小屋をご覧なさい。中では病気の男の子がベッドに横になっています。熱があって、苦しんでいます。でも、お金がないのでお母さんは、お医者さんを呼ぶこともできません。ツバメさん、私はこの通り、動くことができません。どうかお願いです。私の剣のつかにはめられているルビーを、あの親子のところに持って行ってくれませんか」「ええ、いいですよ」といってツバメは、王子の剣からくちばしでルビーを取り出すと、川のほとりの小屋へヒューン、と飛んで行き、窓の隙間から、ルビーを部屋の中に落としました。お母さんは、大喜びで薬を買い、男の子は病気が癒されました。

ツバメが、旅立とうするすると、幸せの王子は、今度は、目のサファイヤをあの困っている人のところに持って行ってくれないかと頼みます。そうして、とうとう、王子は全てを与え、みそぼらしい姿になってしまいます。そして、ツバメも南の国に帰ることをあきらめて、最後まで、幸せの王子に仕えるのです。醜い姿となってしまった幸せの王子の像は取り壊され、死んだツバメの体と一緒に、ゴミ捨て場に捨てられてしまいました。

しかし、天国で神様が、天使に言いました。「本当に美しいものを、あの町から二つ持って来なさい」天使は、幸せの王子の砕けた鉛の心臓と、死んだツバメの体を持って、天国へ帰って来ました。神様は大きく手を広げて、言いました。「これこそ、本当に美しいものだ」

これは、童話ですが、しかし、地上における教会のあり方と重なるところがあると思います。教会は、「キリストのからだ」です。今の時代、イエスキリストが、直接、人々に福音を語ったり、病める人をいやしたりすることは出来ません。イエスさまは、その働きを「教会」に委ねられました。神さまは、弱さや、たくさんの欠けのある「教会」を通して、宣教の働きをなすように、定められたのです。

Ⅰコリント 1:21「神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」とあります。まどろこしく、たどたどしく、愚かに見えても、神は、「教会」を通して、宣教の働きを進められるのです。他に方法はありません。私たちは、このことをもう一度、肝に銘じる必要があると思います。

2、御霊によって一つとされる
12~14節 ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。

「教会」は、イエスさまを信じたクリスチャンひとりひとりによって構成されています。
この「教会」という言葉は、英語ではチャーチですが、新約聖書が書かれたギリシャ語では、「エクレシア」といいます。【エク】は「~から」【クレーシア】とは、「召し出された者」という意味です。つまり「この世から、イエス様によって呼び出された人たちの集まり」です。

キリストが召し集められた12弟子は実に個性派揃いです。ヨハネのような気性の激しい人、ペテロのような考える先に行動する人、トマスのような疑い深い人、ナタナエル(バルトロマイ)のような祈り深い人、過激派シモン、思いやり深いアンデレ、生れも育ちも違えば、感じ方、考え方、性格もみな違います。最初の頃は、誰が一番偉いか、争いが絶えませんでした。そのままなら、分裂して、「はい。12弟子解散」となってもおかしくありませんでした。

しかし、彼らは、イエスさまの愛と恵みによって、変えられて行きました。特に、イエスさまが十字架に掛かられた後、復活のイエス様に出会った彼らは変わりました。しかし、ほんとうに変わったのは、ペンテコステのとき聖霊を受けてからです。12弟子たちは、聖霊を受けたのち、御霊の一致をもって宣教に遣わされて行きました。キリストのからだである教会には、御霊による一致が必要です。御霊による一致がなければ、十分に活動することは出来ません。教会がキリストのからだであるためには、どうしても、御霊による一致が必要です。

3、互いにいたわり合う
21~26節 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

御霊による一致の麗しさは、互いにいたわり合うこと、互いを尊ぶことに表されます。私たちは、自分と違っている人を受け入れる訓練が必要です。私たちは、自分と違っている人を排除してしまう弱さがあります。21節「そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。むしろ、「1つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しむのです。」

22節「からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。」とあります。少し前まで、盲腸は進化の過程で不必要になった器官だと考えられていました。しかし、今では、盲腸の大切な働きが認められています。体の中に毒素が入ってきたときに、盲腸に1時的に蓄えられ炎症を起こします。体全体に毒素が回らないように、盲腸が犠牲となり、毒素が体に回るのを防いでいるのです。体の中で不要と思われていた器官が、実は、重要な働きをしていた訳です。

神様は、人の体に不必要な器官など1つも作られませんでした。同じように、教会にも不必要な人はいないのです。自分はいてもいなくてもたいして変りがない。と考えないでいただきたいと思います。主は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」と仰っています。ひとりひとり、なくてはならない大切な存在です。私たちは、たとえ感じ方や、考え方が違っていても、お互いの違いを受け入れ、お互いを尊び、お互いを感謝したいと思います。それが、教会のあり方です。

4、賜物をもって仕え合う
4~7節  さて、賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。

「賜物」とは、「神様からの贈り物」と言う意味ですが、神さまは、私たちひとりひとりに異なる賜物を与えていてくださっています。み言葉の解き明かしをする「預言の賜物」が与えられている人がいますし、きちんと管理するという「治める賜物」が与えられている人もいます。一緒にいるだけで人のこころを和ませる「いやしの賜物」が与えれている人がいますし、人を助けるのが上手な「助ける賜物」が与えられている人もいます。また、「教える賜物」が与えられている人もいます。

神さまは、皆さん、ひとりひとりに、素晴らしい賜物を与えていてくださっています。「私には、賜物は与えられていません。」等と言ったら、あの1タラント預かった人と同じではないでしょうか。与えられているのに、自分で気が付いていないだけです。私たちは、自分に与えられている賜物を用いて、互いに仕え合って行きます。賜物は、みなの益となるために、与えられているのです。

聖書は、「あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。」と言います。賜物は、使えば使うほど、減って行くのではなく、逆に、磨かれて、より輝いて来る性質があります。最初は、ほんの小さな賜物で、あるのかないのかよく分からないのですが、めげずに使い続けて行くうちに、自分でも驚くほどの「賜物」になっていることに気づくのです。賜物は、みなの益のために使ってこそ、価値が出て来ます。

教会は、お互いに与えられている賜物を用いて互いに仕え合うところです。何よりも、イエス様ご自身が、私たちに最も大切ないのちを分けてくださいました。私たちの主に倣って、私たちも、苦しみや足りない所を分かちあい、そして、それぞれが与えらている賜物を活用して恵みを分かち合う群として成長して行きたいと思います。

『1ドル11セントの奇跡』( 出典:4000万人が泣いた 心に残る感動の物語 )というお話を紹介して終わります。

年のわりには大人びた少女テスは、 両親の会話を盗み聞きしていました。弟のアンドリューについての話です。アンドリューの病気がかなり重く、 我が家には治療費がないという話でした。パパは家賃も払えなくなり、 来月からはスラム街のアパートへ引っ越す予定です。 弟の病気を治すには、 大きな病院へ移り、お金をたくさん払って手術を受けなければなりません。でも、そんな大金を貸してくれる人なんてどこにもいません。パパが言いました。 「アンドリューは奇跡でも起こらない限り、助からない…」

テスは急いで部屋へ戻り、タンスの中に隠してあった ガラスの貯金箱を取り出しました。お金を数えてみると1ドル11セントあります。 貯金箱を抱え、テスは裏口からそ~っと家を抜け出しました。テスは走りました。いくつもいくつも、バス停を超えてゆきました。そして、やっと、 「レクセルさんの薬局」が見えてきました。テスは息を切らしながら薬局に入りました。レクセルさんは誰かと話していてテスに気がつきません。

床を足で蹴ってみたり、 咳払いをしてみました。それでも、レクセルさんは全くテスに気がつきません。待ちきれずに、テスは、カウンターの上に貯金箱のお金を勢いよくばらまきました。やっとレクセルさんがテスに気づきました。 「やぁ どうしたんだい? 今、シカゴから来られた大事なお客様と話をしているところなんだ。 後にしてもらえるかい?」

「待つことなんてできません。」テスは、せきを切ったように話し始めました。「弟が大変なの。 弟は奇跡がないと死んじゃうの。だから、奇跡を売ってください!」
「なんだって?」
「弟の名前はアンドリュー。 頭の中で変なものが大きくなってるんだって。パパは奇跡だけが弟の命を救えるって言ってたわ。だから、奇跡を買いに ここまで走ってきたの。その奇跡っていくらですか?」レクセルさんは悲しい声で言いました。 「すまないけど、おじさんじゃ君を助けてあげられないよ。」 「待ってください!わたし、奇跡を買うお金を持ってきたわ!ほら!これを見て!お金が足りないなら、また、持ってくるから、値段を教えてください!」

その時、シカゴから来たお客さんが、ゆっくりとテスの方へ近づいてきました。 彼は身をかがめてテスにたずねました。「きみの弟には、どんな奇跡が必要なんだい?」 「わかりません。ママが言ってたの。 弟は病気だから手術をしなければ死んじゃうって。パパにはもうお金がないから、 私のお金を使おうと思うの。」 「そう、それでいくら持ってきたの?」 「1ドル11セントです。 今はこのお金が全部です。でも、足りないなら、もっと持ってきます。」

シカゴから来たお客さんは微笑みながら言いました。「これは、 本当に思いもよらない偶然だね。 弟さんの奇跡は、ちょうどぴったり1ドル11セントなんだよ。」「君のお家へ行こうか。 弟とパパとママに会ってみたい。 僕の持ってる奇跡が、 君の欲しい奇跡と同じものなのか見てみないとね。」この「シカゴからのお客様」は、 世界的に有名な神経専門医の カルトン・アムストロング博士でした。その手術は1ドル11セントで行われ、アンドリューは今も元気に生きているそうです。

テスのように、私たちの持っているもののもわずかです。しかし、少年が自分のお弁当である5つのパンと2匹の魚を、イエスさまのところに持って行ったとき、イエスさまは、それを祝福し、5千人もの人々のお腹を満たしてくださいました。私たちの持っているものも、わずかですが、しかし、主に差し出すなら、主はそれを祝福し、豊かに用いてくださると信じます。すべての良き賜物は、主イエスさまから与えられるものです。

教会は、お互いの賜物を用いて仕え合って行くところです。私たちの働きは小さくとも、主が祝福してくださるなら、素晴らしいことが起ってくるでしょう。キリストのからだに属する者として、互いを受け入れ、互いを尊び、互いに仕え合って行きたいと思います。

25~28節  それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行う者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。

31節  あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。

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