多く赦された者は、多く愛する

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M140330 「多く赦された者は、多く愛する」 マタイ26;1~16

受難節の中にあります。今日の礼拝でも、イエスさまの十字架に心を向けてみたいと思います。今日、お開きした箇所は、マリヤが、イエスさまの葬りのために、ナルドの香油を注いだ記事です。マリヤがイエスさまを深く愛していたその信仰に、心打たれます。それと対照的なのが、イスカリオテ・ユダです。ユダは、お金のために、イエスを裏切りました。今日は、マリヤと、ユダを対比しながら、その違いがどこから来るのか、思い巡らしてみたいと思います。

1、ベタニヤ村
1~2節  イエスは、これらの話をすべて終えると、弟子たちに言われた。「あなたがたの知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」
6節 さて、イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、

この出来事は、イエスさまが、十字架に掛けられる3日前の出来事であったと聖書は記しています。イエス様一行は、過ぎ越しの祭りの6日前には、ベタニヤにやって来ていました。日中は、エルサレムに行き、神殿で教えられたりなさいましたが、夕方になると、エルサレムから3キロほど離れたベタニヤ村に戻って来られました。そこには、マリヤとその姉妹マルタ、そして兄弟ラザロがいました。

ベタニヤというのは、『悩む者の家』とか『さげすみの家』という意味です。普通は、そんな名前を付けないでしょう。このベタニヤ村は、ツァラアトに冒された人たちを隔離する村であったようです。このとき、イエスさまは、ツァラアトに冒された人シモンの家の晩餐の席に招かれていましたが、シモンは、イエスさまから、ツァラアトをきよめていただいた人であったようです。シモンは、マルタとマリヤ、そしてラザロのお父さんではなかったと考える人もいます。イエスさまと弟子たちは、このラザロの家に、夕食に招かれてやって来たのでした。

イエスさまは、エルサレムの高級ホテルではなく、誰も近づこうとしないベタニヤ村に、あえて、宿を取りました。そこに、愛するマルタとマリヤとラザロがいたというだけでなく、世の人々から、見捨てられた、ツァラアトに悩む人たちがいたからだと思います。イエスさまとは、そう言うお方です。「人の子は、失われた人を捜して、救うために来たのです。」とありますが、イエスさまの方から、悩む者、あるいは、さげすまれている者のところに、来て下さるのです。

2、ナルドの香油
7節 ひとりの女がたいへん高価な香油の入った石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。

マタイと、マルコは、「ひとりの女」と書いていますが、ヨハネは、この女性をマリヤだと述べています。マルタの妹のマリヤ、姉のマルタがもてなしのために忙しくしていたとき、イエスさまの足元に座ってじっくりと話しを聞いていた、あのマリヤです。マリヤは、イエスさまが十字架に掛かることを知り、自分が大切にしていたナルドの香油が入った、石膏のつぼを持って来て、イエスさまの頭に香油を注ぎました。

マルコの福音書には「非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。」とあります。ヨハネの福音書には、「非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラム」とありますから、相当な量です。おろらくマリヤは、壺から少しつづ取り分けて使っていたのでしょう。ところが、この時は、その壺ごと持って来て、しかも、その壺を割って、すべてをイエスさまの頭に注いだのです。

弟子たちはそれを見て、憤慨して「何のために、こんなむだなことをするのか。この香油なら、高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」と言いました。ヨハネ伝には、売ったら300デナリにもなると記されています。1デナリは、ローマ兵の一日分の日給に相当しますので、現代でいえば、300万円~400万円といったところでしょうか。

彼女は、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを割り、すべてを、イエスの頭に注ぎました。合理的に考えたら、無駄かもしれません。ナルドの香油は、数滴で、素晴らしい香りが持続します。しかし、マリヤは、どうしても全部を、イエスさまに注ぎ切りたかったのだと思います。それが、マリヤのイエスさまに対する愛でした。イエスさまのために、用意したものを、別のことに使おうとは思っても見ませんでした。

イエスさまは、「なぜ、この女を困らせるのです。わたしに対してりっぱなことをしてくれたのです。貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。 この女が、この香油をわたしのからだに注いだのは、わたしの埋葬の用意をしてくれたのです。」とマリヤのした行いを評価してくださいました。

マリヤが、香油を注いだとき、部屋いっぱいに香りが広がったとヨハネは書いています。ナルドの香油の良い香りは、十字架を前にしたイエスさまの心を慰め、励ましを与えたに違いありません。この香りは、イエスさまが、鞭打たれ、茨の冠を被らされ、十字架を背負って、ゴルゴダの道を歩むときも、残り香がただよっていたことでしょう。イエスさまが最も苦しいとき、このナルドの香油の良き香りは、イエスさまの心に、慰めと励ましを与え続けたに違いありません。

3、イスカリオテ・ユダ
14~16節  そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司長たちのところへ行って、こう言った。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。そのときから、彼はイエスを引き渡す機会をねらっていた。

マリヤと対照的なのが、イスカリオテ・ユダです。イスカリオテ・ユダは、イエスの弟子のうち特に選ばれた十二人、いわゆる12使徒の一人です。彼は、祭司長たちのところへ行って、こう言いました。「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」英語の現代訳では、「もし、イエスをあなた方に引渡すとしたら、見返りに何をくれますか。」と訳しています。祭司長たちは、どうしたら、人々に気づかれずに、イエスを捕えることができるか、良い方法を捜していましたから、喜んで、彼の提案を受け入れました。そして、その見返りとして銀貨30枚を与えたのです。

銀貨30枚とは、奴隷一人分の代価でした。現代の金額に換算すると、銀貨30枚は、だいたい90日分の給料です。そうしますと約100万円相当ということになります。ユダは、そのお金に目がくらんで、イエスさまを売ったのです。

それにしても、ユダは、いったいなぜ、3年半一緒に寝食を共にしたイエスさまを裏切ったのでしょうか。イエス様は、ユダを信頼して、会計をも任せていたのに、そう簡単に裏切ることなど、出来るのでしょうか。

ルカの福音書22章2~6節にこう書いてあります。「 祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を捜していた。というのは、彼らは民衆を恐れていたからである。さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った。ユダは出かけて行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡そうかと相談した。彼らは喜んで、ユダに金をやる約束をした。 ユダは承知した。そして群衆のいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会をねらっていた。」

ユダは、イエスさまが、イスラエルをローマの支配から解放してくれることを期待していました。そして、イエスさまが、イスラエルのリーダーとなった暁には、自分もそれなりの役職につけてもらえると思っていたことでしょう。つまり、ユダはイエスさまを利用しようとしたのです。しかし、こともあろうとに、イエスさまは、「自分は、十字架に掛からなければならない」と言いだされた。ユダは、がっかりし、イエスさまについて行く目的を失ってしまいました。

その時ですね。サタンが、ユダの心を盗んでしまったのは。「イエスを売る」という、人間として、してはいけないことをしてまったのです。あとで、正気に戻ったユダは、イエスが罪に定められたのを知り、後悔して、銀30枚を、祭司長たちに返しに行きました。「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」と。しかし、祭司長たちは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ」とユダを突き放します。聖書には、「それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。」とあります。

ユダは、利用価値がないと分かった途端、イエスを裏切ったのです。私たちは、イエスさまをどのような方だと思っているでしょうか。イエスさまと、私たちを繋ぐものは、愛です。「愛によって働く信仰」だけが、イエスさまと私たちを堅く結ぶのです。イエスさまが、何かをしてくれるから、着いて行くというだけだったら、その願いどおりに行かなかったとき、イエスさまから離れて行ってしまう危険性があります。

4、多く赦された者が多く愛する
ルカ7章36~47節をお開きください。少し長いですが、お読みします。

  さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから」と心ひそかに思っていた。するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります」と言われた。シモンは、「先生。お話しください」と言った。「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています」と言われた。 そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。 あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしが入って来たときから足に口づけしてやめませんでした。 あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」

ルカ7章の記事は、マタイ26章の記事と、似ていますが、違うところもあります。シモンの家は同じですが、こちらのシモンは、ツァラアトに冒された人ではなく、パリサイ人でした。女性が香油を注いだのは、イエスさまの頭ではなく、御足でした。また、この女は、罪深い女と呼ばれています。長年、マタイに書いてある出来事と、ルカに書いてあるのは、同じ出来事なのか、それとも別の出来事なのか議論されてきました。未だに決着はついていませんが、おそらく違う時の出来事であったでしょう。しかし、ルカ7章の出来事は、今日のテーマを考える上で、とても大事なことが含まれています。

この出来事の結論は、「多く赦された者は、多く愛する」ということです。50万円の借金を免除してもらう場合と、500万円の借金を免除してもらうのとでは、やはり、ありがたみは違うでしょう。イエスさまが「ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」と尋ねたとき、シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います」と答えました。すると、イエスさまは、「あなたの判断は当たっています」と言われました。

「多く赦された者は、多く愛します。」しかし、「少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」マリヤとユダの決定的な違いは、ここにありました。私たちは皆、神の前に罪人です。全ての人は、皆、神の御前に、等しく罪ある者です。
ローマ 3:10~12にこうあります。「義人はいない。ひとりもいない。 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」私たちは、皆、イエスさまの十字架により罪赦された、元罪者です。

しかし、その罪意識には、大きな差があります。マリヤは、自分は500デナリもの罪を赦された思い、ユダは、50デナリと計算していたのです。イエスさまに多く赦された者しか、多く愛することは出来ません。自分の罪深さを深く悟った者が、イエスさまの救いがどんなに素晴らしいかを悟るのです。逆に、自分の罪が分からないと、イエスさまに対する感謝も、信頼も、あまり感じることはないでありましょう。

先日、袴田元死刑囚が、再審請求が認められ、48年ぶりに釈放されました。静岡地裁の村山裁判長は、死刑の決め手となった衣類の血痕について、最新のDNA型鑑定によって、袴田さんのものと違うことを認め、なんと、警察によって「後日捏造されたとの疑いを生じさせるもの」と結論づけました。そして、「無罪の蓋然性が相当程度あることが明らかになった以上、拘置を続けることは耐え難いほど正義に反する」と述べ、即日釈放となりました。彼の無罪を信じて、神に祈って来た人たちは、どれほど喜んだことでしょうか。ついに祈りが聞かれたのです。

私は、袴田さんが獄中から書いた手紙を集めた「主よ、いつまでですか」という、新教出版社から出されている本を読みました。その中にこう書いてありました。「わたしは、人間の持っている罪深い部分を聖書によって学んでいる。「義人なし。ひとりだになし。」と聖書にはっきりと書かれている。正しい人はひとりもいないということだ。人間の心には、常に二つの尺度がある。自分の過失を咎める尺度と自分以外の人の過失を咎める尺度は、全く違うのである。こうした尺度を改め得ない人は、結局不幸なのである。」

袴田さんは、獄中でイエスキリストを信じて救われ、洗礼を受けられました。そのときのことをこう記しています。
「わたしは、・・・厳粛に洗礼を授かる。殊に額に十字の印を刻むように受けたときには、私の全身の周囲が明るくなり、柔らかな光さえ感じたのであります。洗礼の妙、幸福の永生、始めて燃え上がる真の生命、輝く星花を感激に満ちて凝視したのである。この時こそ、私にとって、新鮮な歴史が開花する瞬間であった。いや、歴史だけではない、キリストの福音にあって、勝利と誉れを歌いあげる天上の予感であった。予感だけでない。精彩を放って、あたかも勝利を組み立てる芸術者たる神を拝む、心地よい感動の極地であった。そうだ、あの瞬間は、あらゆる高義なものが結実された私にとって、唯一、最大の栄光の絶頂であったのだ。アーメン」

袴田さんは、冤罪に陥れた人たちを恨むのではなく、神の前に、自分の罪を深く悟り、主イエスさまの十字架の救いを受け入れました。そして、主イエスさまを愛する人に変えられたのです。それによって、冤罪で獄につながれていても、決して自暴自棄にならず、平安のうちに、祈りを聞いてくださる神に祈りを捧げ続ける力を与えたのだと思います。そして、ついに、その祈りが聞かれたのですね。

多く赦された者は、多く愛します。自分の罪を深く悔い改めた人は、イエスさまを深く愛するようになるのですね。

ルカ 7:47 だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」

学びシート(PDF)はこちらです。
M140330 多く赦された者は、多く愛する マタイ26章1~16節 学びシート

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