M140406 あなたの味方は誰ですか ローマ5:1~11

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今日は、「あなたの味方は誰ですか」と題してメッセージを語りたいと思います。皆さんは、いつでも味方になってくれる人がいますか。カーネギーは「無条件で味方してくれる人が一人でもいたら、人は強くなれる。」と書いていますが、本当にそうだと思います。

マルチン・ルターは、ヴォルムス帝国議会において、著作で述べられていることを撤回するかどうか尋ねられたとき、こう答えました。「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。私はここに立っている。それ以上のことはできない。神よ、助けたまえ」

詩 27:10に「私の父、私の母が、私を見捨てるときは、【主】が私を取り上げてくださる。」とありますが、たとえ、父と母が見捨てたとしても、イエス・キリストは、私たちの味方となってくださいます。

1、神と敵対していた私たち
10節 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

神さまは、本当は私たちの味方であるのに、多くの人が、敵であるかのように思いこんでいるのではないでしょうか。「さわらぬ神にたたりなし」なんて、あまりにもひどい、あまりにも失礼な誤解です。神は、私たちを愛しておられます。

かつて、若い頃、私は、父や母に対して、ひどい言葉を言ったりしたものでした。私のことを本当に心配し、愛してくれるが故に、アドバイスしてくれるのに、「うるさい。」とか「あっち行け。」ならまだしも、ひどい言葉で罵ったことがありました。悔い改めて、赦して頂きましたが、思い返しますと、今でも赤面の至りです。

しかし、実は、人間は、神に対して、同じような態度を取っているのです。神様は、私たちが幸せに生きて行けるように、環境を整え、水や空気や、光や、必要なものをすべて与えてくださり、私たち人間が、一人じゃ寂しかろうと、良きパートナーや、家族を与えてくだいました。実に、数えきれないほどの配慮をしてくださっています。

ところが、人は、神さまに感謝するどころが、何かが少し足りないと、不平不満を言います。神さまは、私たちのことを愛して、私たちが心を開くのを待っておられるのに、私たちの方では、それを無視し、意識から排除し、自分の好きなように生きています。聖書は、それを、罪といいます。

2、キリストによる和解
6~8節 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

いったい、どうしたら、神との平和を持つことが出来るのでしょうか。神との和解は、私たちの側からアプローチすることは出来ません。神さまの方から、差し伸べられた和解の手を掴む、それが私たちができる唯一の方法です。つまり、和解の使者として来てくださった、イエス・キリストを、私たちが信じ受け入れる、それが和解の方法です。

少し難しい言葉ですが、イエスキリストの十字架は、贖罪のためでした。私たちの罪を赦すために、身代わりとなられたのです。本来なら、私たちが自分で負わなければならない罪の罰を、イエス・キリストが身代わりに受けてくださったのです。ですから、イエスキリストを信じる者は、罪が赦され、神との平和を回復することができます。

かつて、賀川豊彦が、こう言いました。「道というのは、踏まれることによってのみ、その務めを果たす。イエス様が、『おまえたちの足がどんなに罪に汚れていても、泥だらけの足であっても、私を踏んで通って行くなら、父のみもとに行くことができる。私は、道だ。さあ、足がきれいになってならではない。そのままで私を踏んで行くのだ。』と天と地の間に立って、道となってくださった姿が、十字架なのだ。」と。

イエスさまは、私たちが、神との平和を持つための、道となってくださいました。私たちは、十字架に掛かってくださったイエスさまを通してのみ、神との関係を回復することができます。他に道はありません。誰か他に、私の罪の身代わりとして、十字架に掛かってくれるような方がいるでしょうか。

聖書は、「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。」と言っていますが、私は、正しい人でもないし、情け深い人でもありません。愛のない、冷たい、つまらぬ、ちっぽけな男、誰がそんな人のために、身代わりとなって死んでくれるというのでしょうか。

世界のどこを探しても、人類のすべての歴史を調べても、イエス・キリストただおひとりです。私は、こんな罪人の私を愛してくださるイエスさまの愛を知ったとき、涙があふれて来ました。そして、イエスさまを、自分の主として、自分の救い主として信じ受け入れました。今から、30数年前のことです。それ以来、イエスさまは、どんな時も見捨てることなく、ずっと私の味方であってくださいました。

3、患難を乗り越える力となる
1~5節  ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

イエス・キリストが、私の味方だと良く分かって来ますと、私たちの人生は変わってきます。まず第一に、私たちの人生に、神との平和が訪れます。以前は、神に逆らって、自分勝手に生きてきました。罪の道は、茨の道で、私たちは、茨のとげで傷つきながら、人生を歩んで来ました。しかし、イエスさまが、私たちの罪の身代わりとなって十字架に掛かってくださったことにより、私たちの罪は、すべて赦されました。以前、私たちの心にあった、神に逆らう心は、イエスさまの十字架の血潮で、赦され、きよめられて行くのです。

神との平和によって、私たちは、本物の希望を持つようになりました。本物の希望とは、この世限りの希望ではありません。だれもが避けて通ることが出来ない、死という暗闇を突き抜けて、永遠のいのちに至る希望です。いつでも、どんな時でも、神がともにいてくださる。そして、神が私の味方であるという、希望です。ローマ8章31節に「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」とあります。どんな患難も、どんな試練も、どんな苦しみも、私たちから、キリストにある希望、神の愛を奪うことは出来ません。

世の中には、失望落胆の嵐が荒れています。しかし、私たちは、本物の希望をもっています。イエスキリストにある永遠のいのちの希望です。たとえ、どんな暗い時代が来ても、この希望は失われません。反対に、闇が濃くなればなるほど、光は輝きを増してきます。

詩 46:1にこうあります。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」人生の避け所を持っている人は幸いです。苦しむとき、すぐに、私たちの味方であるイエスさまのところに、駆け込むことができます。どんな時でも、無条件に受け入れてくださるイエスさまの大きな愛の中に逃げ込み、休みを得、力を回復することができます。そして、再び立ち上がることができるのです。

さて、あなたは、ほんとうの味方を持っているでしょうか。ぜひ、イエスキリストという、本当の味方を得て頂くよう、心からお勧めします。イエスキリストが、味方となってくださるすばらしさを、私も何度も何度も経験してきました。「無条件で味方してくれる人が一人でもいたら、人は強くなれる。」ほんとうにそうです。私たちのために、十字架に掛かり、ご自分のいのちさえ惜しまず与えてくださったイエスさまこそ、私たちの本当の味方です。

8節 「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

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M140406 あなたの味方は誰ですか ローマ5章1~11節  学びシート

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