M140420 復活のいのちによる新しい歩み ローマ6章1~14節

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

教会に初めて来られた方は、ほんとうにイエス・キリストは復活されたのだろうか。後の時代の人々の作り話ではないかと思うかもしれません。私も最初、とても信じられませんでした。聖書を読むと、キリストの弟子たちも最初、戸惑っていたことが分かります。しかし、恐れていた弟子たちは、復活のイエスキリストに出会って、皆、変わりました。恐れから解放され、大胆にキリストの復活を宣べ伝えるようになったのです。

Ⅰコリント15章14、15節にこうあります。「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。」

もし、イエス・キリストが復活されなかったら、キリスト教は、偽りの宗教です。しかし、イエスキリストが、ほんとうに復活したなら、これは、皆さんにお伝えしなくてはならない、喜びの知らせです。これ以上の良き知らせはありません。イースターは、イエス・キリストが、死からよみがえられたことを、世界に知らせる、祝いのときです。

1、イエス・キリストの十字架と復活
先週はイエス・キリストの十字架の苦しみを覚える受難週でした。何の罪もないイエス・キリストが十字架に掛かられたのは、私たちの罪を赦すためでした。主イエスは、私たちの身代わりとなって、十字架に掛かってくださいました。イエス・キリストの亡骸は、墓に葬られ、墓は、ローマの兵士たちによって厳重に見張られていました。しかし、3日目の朝早く、弟子たちが墓に行ってみると、墓は空っぽでした。

イエス・キリストは、聖書が示すとおり、死からよみがえられ、多くの弟子たちとお会いになりました。キリスト教信仰の中心は、イエスキリストの十字架と復活です。イエス・キリストは、目には見えませんが、今も生きておられます。イエスさまは、こう仰いました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11章25節)

私たちは、バプテスマ、洗礼によって、このイエスキリストの救いを、自分のものとすることができます。4節に洗礼、バプテスマの意味が記されていますので、既に洗礼を受けられた方も、これから洗礼を受けようか、どうしかと考えておられる方も、その意味をよく理解させて頂きたいと思います。

4節  私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

バプテスマ、洗礼とは、ギリシャ語でバプティゾー「浸す」と言う意味です。私たちの教会では、滴礼と言って、頭に水を垂らす方式の洗礼式を持っていますが、全身をざぶんと水に浸かって、起き上がる「浸礼」というやり方もあります。いずれにしても、洗礼は、古い自分に死んで、神のいのちによって、新しい自分によみがえるということを示しています。

2、神による新しい歩み
「新しい歩み」と言う言葉に心を留めてください。自然界も、秋には美しく紅葉していた木々が、冬には枯れて、まるで死んでいるかのような状態になります。しかし、春が来ると、再び新芽が出て、緑の美しい季節を迎えます。今、まさに、自然界は、新緑の美しい季節を迎えています。それと同じように、私たちの魂も、新しいいのちに、よみがえると、聖書は言うのです。

5~8節  もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。

この「新しい歩み」は、「古い自分に死ぬ」ことから始まります。逆に、「古い自分」に死ななければ、「新しい歩み」は始まりません。イエス・キリストが十字架で死ななければ、復活はないのと同じです。この「新しい歩み」は、自分の決意とか、意気込みによるものではなく、キリストにつぎ合わされるところから、始まるのです。この「キリストにつぎ合わさる」ことが、救いであり洗礼です。ですから、信仰を持って洗礼を受けた人は、みな、キリストにつぎ合わされているのです。

洗礼とは、「キリストの死にあずかるバプテスマ」だとあります。それは、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた」ということです。洗礼によって、私たちは、イエスキリストを信じる以前の、古い自分に死んだのです。古い自分とは、神さまの愛を知らず、知ろうともせず、自分勝手な道を歩んできた、古い自分です。洗礼は、キリストとともに、古い自分に死んだことを意味しています。

7節にありますように、「死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」私たちは、随分と自分の罪に悩まされ、苦しみ、また傷ついて来ました。パウロは、罪の苦悩をこう述べています。「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。・・・私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7章15、24節)罪は、自分の良心を裏切り続けて来ました。

私たちは、みな、新しくなりたいと願っています。しかし、どうすればよいか分からず、ずっと悩んで来ました。しかし、イエスキリストが、死から復活してくださったことにより、新しい歩みへの道が開かれました。5節に「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」とあります。イエスキリストにつながった者は、古い自分に死に、キリストが復活されたように、新しい歩みに復活するのです。

自分の力で頑張ることをやめ、神にすべてを委ね、神の大きな愛にと恵みによって生かされるようになります。それが、神が与えてくださる「新しい歩み」です。誤解をしないでください。洗礼を受けたから、頑張って、立派なクリスチャンになるということではありません。クリスチャンは、キリストにつぎ合わされ者であり、古い自分に死んだ者です。古い自分に死んだ者だけが、キリストの復活と同じように、新しい歩みに生かされて行くのです。

3、過去に区切りをつける
世の中も、よく、過去に線を引きなさいと言われます。新しい歩みをするためには、しっかりと、過去に線を引かなくてはなりません。ずるずると、過去を引きづっていては、新しい歩みをすることは出来ません。11節に「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」とあります。この「思いなさい」と言う言葉は、「計算しなさい」と言う意味です。つまり、過去の罪に線を引いて別れを告げ、キリスト・イエスにあって、新しい歩みを始めなさいというのです。

バプテスマ、洗礼を受けるとは、罪の中を生きて来た古い自分と決別し、イエスキリストとともに、新しい歩みを始める、けじめのとき、線引きのときです。洗礼は、古い自分に死ぬ儀式です。そして、イエス・キリストによって生かされ、新しい歩みを始める出発のときです。洗礼式は、そのことを自分に対しても、周りの人たちに対しても、きちんと表明するときなのです。

この線引きは、とても重要です。線引きがあいまいですと、その後の成長進歩が期待できません。きちんと、古い自分を十字架につけ、キリストにある復活のいのちに生かされて行く。それが、クリスチャンの歩みです。過去に洗礼を受けた方も、もう一度、自分は「罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと」いうことを確認させて頂きましょう。

マルチン・ルターは、人生の暗黒の時期を通ったとき、非常に深い落胆を経験しました。どうしようもなくなってしまったとき、ルターは、繰り返し、ある言葉を唱えました。それは、「私は洗礼を受けている」という言葉です。「洗礼によって、キリストの御名が私に刻印されたのだ。神の愛は、変わることはない。」と言って、ルターは、失望落胆の沼に沈むことから救われたのでした。私たちは、もはや洗礼以前に戻ることはありません。何故なら、「もうあなたの罪を思い出さない。」と、神ご自身がきっちりと、けじめをつけてくださったからです。

4、神に捧げて生きる人生
キリストのいのちによる新しい歩みに入った私たちは、人生の目的も新しくなりました。12~14節  ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。

古い自分が持ってた「人生の目標」は、詰まる所「自分のため」でした。しかし、キリストにつぎ合わされ、新しい歩みに導き入れられた私たちは、もはや、自分の為に生きることをやめました。そして、神と人のために生きる者へと変えられました。それぞれ、置かれた、持ち場、立場は変わらないかもしれませんが、生きる動機も、生きる目標も、生きる原動力も、新しくされたのです。神の恵みにより、自分に与えられた賜物を、喜んで神に捧げて生きるようになりました。それが、神のいのちによる「新しい歩み」です。

今日は、イースターです。イエス・キリストが、私たちの罪を赦すために十字架で死なれ、3日目に、神の力によって、死からよみがえってくださいました。復活のイエスキリストを信じた私たちも、罪に対しては死に、神に対しては生きた者となりました。今日の善き日、もう一度、しっかりと罪に別れを告げ、復活のイエスのいのちに満たされて、新しい歩みへと踏み出させて頂きましょう。イースターの祝福をお祈り致します。

学びシートはこちら
M140420 復活のいのちによる新しい歩み ローマ6章1~14節 学びシート

カテゴリー: 礼拝音楽メッセージ パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です