M140427 復活の奥義 Ⅰコリント15章35~58節
今日は、召天者記念礼拝です。地上生涯の馳せ場を走り終え、天に帰って行かれた方々を思い起こし、感謝するとともに、やがて、天の御国において再会する希望を新しくさせて頂きたいと思います。
1、人類の歴史の予定表
51、52節をご一緒にお読みしましょう。
「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」
聖書は、私たちに、「人類の歴史の予定表」を開示しています。パウロは、「私はあなたがたに奥義を告げましょう。」と言っています。「奥義」とは、関心のない人には隠されているものですが、真剣に求める人には、喜びとともに発見される、驚くべき真理です。聖書は、私たちに、「復活の奥義」を提供しています。私たちも、熱心な探求心をもって、み言葉から学ばせて頂きましょう。
これから後に起こる重大な出来事を示すキーワードは、「終わりのラッパ」です。この「終わりのラッパ」は、今のこの世界の締め括りであり、同時に、新しい世界への幕開けの合図です。イスラエルの民は、荒野で天幕生活をしていたとき、祭司が吹き鳴らずラッパ(角笛)を合図に、古い宿営地を後にして、次の宿営地へと進んで行きました。同じように、終わりのラッパの合図により、古い罪の世界は巻き去られ、神の愛と義による新しい世界へと、移行することになります。
この「終わりのラッパ」の合図というのは、イエス・キリストが、再び地上に来られる時を示しています。
Ⅰテサロニケ4章16~17節
「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」
イエスキリストは、2千年前に、エルサレムのゴルゴダの丘で、十字架に付けられ、死んで墓に葬られましたが、聖書が示すとおりに3日目によみがえりなさいました。そして、40日間、弟子たちにご自分の姿を顕され、オリーブ山から、皆が見ている前で、天に昇って行かれました。以後2千年以上、地上にキリストはおられませんでしたが、終わりのラッパが吹き鳴らされるとき、もう一度、復活のイエス・キリストが、地上に来らます。
私達は、これを「キリストの再臨」と呼んでいます。福音書には、「人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。」とあります。キリストの再臨は、地上の片隅で、一部の人にしか分からないように起こることではありません。誰の目にも明白な出来事だと聖書は言います。だから、異端と言われる人たちが「再臨のキリストがどこどこにおられる。」と言っても信じないように。そんなことは言われなくても皆にはっきりと分かるから。と言うのです。
キリストがいつ地上に来られるのか、終わりのラッパがいつ吹きなさられるのか、その日、その時がいつであるかは、誰も知りません。今日かもしれないし、ずっと先かもしれません。その日、その時は分かりませんが、しかし、その時、素晴らしいことが起ります。主にあって死んだ人たちが、まず最初によみがえり、次に、地上に生きているクリスチャンたちも、一瞬にして変えられるのです。「一瞬にして変えられる」これが復活の奥義です。
「このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」とありますように、この「終わりのラッパ」は、新しい世界への幕開けの合図です。黙示録 21章3、4節にこうあります。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
この「終わりのラッパ」は、すべての悲しみが終わるとき、すべての労苦が報われるときです。私たちを、誘惑し、罪に引きづり込もうとしてきたサタンは滅ぼされ、愛する主イエスさまが、王の王、主の主として、正義と愛と慈しみをもって総べ治める世界、不正も、不公平も、うそも偽りも、憎しみも、妬みやも、個人的な争いも、国と国、民族と民族の争いも、戦争も、一切の罪のない、100%明るい世界が来るのです。
私たちは、その新しい世において、先に召された人たちと再会し、いつまでも、ともに生きることになるのです。これが、キリストを信じる者に、神が用意しておられるフィナーレです。聖書は、これを単なる理想卿として描いているのではありません。もし、キリストが復活されたならば、これらのことはすべて、ほんとうに起るのです。パウロは、「 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」と勧めています。私は、その時が来るのを、希望をもって待ち望んでいます。
2、どのように復活するのか
35節 ところが、ある人はこう言うでしょう。「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。」
ある人達は死者の復活などあり得ないと言います。有名なギリシャの哲学者ソクラテスは、毒にんじんからとった毒薬を飲み、横になりながら、友人たちの質問を聞きました。「わたしたちは、もう1度、生き返るだろうか」ソクラテスは答えます。「そうあって欲しい。しかし、そんなことは誰にも分かる筈がない。」
ヒンズー教の人たちは、たましいは不死であることを信じていました。しかし、よみがえるときは、何によみがえるか分からないと言いました。ゴキブリによみがえるかもしれないし、野菜によみがえるかもしれない。それは、生きている間に、良いことをしたか、悪いことをしたかによって決まると信じていました。
しかし、聖書のいう復活は、あるかないか分からない不可知論でもなく、何によみがえるか分からないという、嬉しくもなんともない幼稚なものでもありません。聖書の教える死者の復活は、イエスキリストの復活のからだと同じ、栄光のからだによみがえるということです。
パウロは、死者の復活が信じられない人たちに、自然界のたとえを使って語りました。まず、種の比喩を取り上げています。36~38節 愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。あなたが蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。
種は、地中に埋められて死にますが、やがて、再びよみがえります。蒔かれた時とは、全く違った姿によみがえます。小学生のころ、朝顔の種を蒔き、観察日記をつけたことがあります。途中、日記をつけるのを忘れたり、水やりを忘れたりしましたが、しかし、やがて芽が出て、つるが伸びて、夏になると、ピンクや水色の美しい花が咲きました。子ども心にも、朝顔の花の美しさに感動いたしました。あんな小さな種が、地に落ちて死ぬと、種とは見違えるような、美しい花を咲かせるのです。同じように、私たちの肉体も、死を迎えますが、神は、以前のからだからは想像もできない、素晴らしい体に変えてくださるのです。
39節から44節は、私も何のことを言っているのかよく分からないところもあるのですが、復活のからだにも、個性があるということでしょうか。皆同じ姿ではなく、それぞれ、個性をもって復活するのです。しかし、確かに言えることは、復活のからだは、今、私たちが持っている体とは、全く違うということです。今、私たちが着ている、血肉のからだは、弱いものであり、朽ちるものであり、卑しいものですが、しかし、復活のからだは、御霊のからだであって、強いものであり、朽ちないものであり、栄光あるものなのです。
42~44節 死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
ですから、今、腰が痛いとか、喘息があるとか、花粉アレルギーだとか、歯が痛いとか、目がかすむだとか、物忘れがひどいとか、髪の毛がなくなってきているとか、血圧が高いとか、その他もろもろ、いろいろと体の弱さを抱えておられる皆様、どうぞご安心ください。やがて、イエスキリストとお会いするとき、この弱いからだ、卑しいからだ、朽ちて行く体は、死も病も一切ない、キリストの復活のからだと同じ、栄光のからだに変えられるのです。もう、肉体の弱さに苦しむことはありません。
「そんな待てない。イエス・キリストを信じのだから、今すぐ私のからだを変えてくれ。」というのは、ダメです。この弱さをまとった肉体にも、地上の栄光、地上の役割があります。私たちは、病や、弱さを通して、神に信頼することを学びます。それが、地上のからだの持つ栄光です。
最近、STAP細胞があるとか、ないとか話題になりました。もし、STAP細胞があるなら、再生医療に大きく貢献すると言われます。心臓が弱くなってきたから、新しい心臓と取り換えようとか、皮膚もたるんできたから、新しいものに交換しようとか、そうやって、人は、永遠のいのちを持つことが出来るのでしょうか。ある程度は役に立つと思いますが、しかし、人は、年を取り、肉体の弱さを身にまとい、死を迎えねばなりません。それが、神の摂理です。人は死ななければ、復活はありません。死を抜きにした永遠のいのちが、たとえ可能だとしても、それは、神が摂理に反するものです。
50節 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
死を通らずに、復活はありません。キリストにある死者を、神がよみがえらせてくださり、永遠のいのちに入るのです。これ以外のルートはありません。いつも言いますが、天国には、裏口はありません。神さまが定めたルートを通ってしか、天の御国へ入ることは出来ません。
ジョナサン・スイフトが書いた「ガリバー旅行記」をご存知でしょうか。「小人の国」の話は有名ですが、「死のない人の住む国」の冒険もあります。その国では一世代のうちに、ひとりかふたり、「死のない人」が生まれて来るというのです。ガリバーは、思わず、「それは何と幸いでしょう。」と叫びます。しかし、実際、その人たちの様子を見ると、全く喜びがありませんでした。肉体は生きていても、心はどんどん悪くなる一方なので、まるで生き地獄のようなのでした。
聖書が言うように、「血肉のからだは神の国を相続できません。人は、キリストの十字架で罪を赦され、復活イエスさまによって、魂が新しくされ、やがて肉体の死を迎え、キリストが再臨されるとき、朽ちることがない栄光のからだによみがえる。これしか、天の御国に入る道はありません。
3、御霊のからだに変えられる
44~49節 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。 聖書に「最初の人アダムは生きた者となった」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。
最初の人アダムは、土から造られました。創世記2章7節に、「神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」とあります。ヘブル語で「土」はアダマと言います。アダマから造られたからアダムなのです。私たちの「血肉のからだ」は、このアダムの流れを受け継いでいます。彼と同じように、罪の中に苦しみ、彼と同じように、肉体の弱さと戦ってきました。
しかし、最後のアダムである、イエス・キリストは、土から造られたお方ではありません。キリストは、聖霊によってお生まれになりました。キリストは、神が受肉したお方です。私たちが、、救い主イエス・キリストにつぎ合わされることにより、イエス・キリストにある御霊のいのちを受け継ぐ者とされました。
私達は、最初のアダムと同じく血肉のからだをもって生まれて来ましたが、主イエスさまを救い主として信じたとき、御霊によって、新しく生まれました。イエスキリストを信じた私達は、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。天の御国は、永遠の世界ですから、私たちの肉体も、それにふさわしく造りかえられなければなりません。血肉のからだのまま、天の御国に入ることは出来ません。
ピリピ3章20、21節にこうあります。「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」
先に、主にあって召された人たちも、キリストが再臨するとき地上に残っている人たちも、どちらも、変えられるのです。天の御国の市民に相応しく、魂も、肉体も、主イエス・キリストによって、新しくされ、そして、天の御国へと備えられます。「朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないのです。神は、アダムとエバに、革の衣を着せてくださいましたが、再臨のキリストは、私たちに不死を着せてくださるのです。
4、主のわざに励もう
57、58節 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。
私達は、復活の主に感謝すべきです。イエス・キリストは、死を打ち破り、私たちの初穂として、よみがえってくださいました。後に続く私たちも、イエス・キリストにつぎ合わされることによって、キリストの死と同じようになり、そして、キリストの復活と同じようになります。この希望は、揺らぐことがありません。キリストが再臨されるとき、先に召された方々も、私達も、一瞬にして、キリストの栄光のからだ、朽ちない体に変えられて、新しい、罪のない世界に入るのです。
この希望をしっかりと持ちましょう。今の労苦は、この復活の栄光に比べたら、とるに足らないものです。どんな労苦も、主にあって、無駄ではなく、すべては、復活のいのちの栄光に繋がっているからです。ですから、ますます、動かされることなく、堅く立って、いつも主のわざに励みましょう。祝福をお祈り致します。
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