いつまでも残るものは信仰と希望と愛です―キリストを信じるという生き方ー

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1、愛は結びの帯として完全

14~15節 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。

 

コロサイ書3章には、家族や、神の家族であるキリスト教会に属する人同士の人間関係がうまく行く秘訣が書いてあります。14節に「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」とありますが、「結びの帯」とは、人と人とを結ぶ「きずな」のことです。家族においても、神の家族である教会においても、人と人と結ぶきずなは愛だといいます。

 

「愛は結びの帯として完全なものです。」新共同訳は「愛は、すべてを完成させるきずなです。」と訳しています。私たちは、最初、ばらばらであったものが、愛によって、ひとつとされて行くというのです。この愛は、新約聖書の原語であるギリシャ語では、アガペーと言います。これは、イエス・キリストの愛、神の愛を指しています。

 

私達が普通に持っている、親子の愛情や、夫婦の愛情、それは、自然なものであり、良いものに違いありませんが、結びの帯としては「完全」ではありません。むしろ「不完全」なものです。普段何もないときは良いのですが、しかし、いざ何かあったとき、その帯の耐久性に問題があります。夫婦の愛にしても、親子の愛にしても、あるいは、生涯腹心の友となると誓った友情においても、完全な強さはなく、もろく崩れ去る弱さを含んでいます。実際、多くの方が、いつか夫婦の愛に、親子の愛に、ほころびが出るのではないかと、不安を感じているのです。

 

人の愛は、相手や自分の状況が変われば、変わり得るものです。しかし、神の愛、イエス・キリストの愛は、変わらない愛です。聖書の神は、イスラエルの民が、何度裏切って、偶像に走っても、彼らを見捨てず、再び彼らを呼び戻し、愛をもって抱きしめ、回復を与えてくださいました。

 

イザヤ書 54章8節にこうあります。「怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」とあなたを贖う【主】は仰せられる。」また、イザヤ書 54章10節にこうあります。「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない」とあなたをあわれむ【主】は仰せられる。」神の愛は、変わらぬ愛です。私たちが、真実でなくても、神は常に真実です。神の愛には、変わりがありません。この神の愛こそが、人と人とを結ぶ、完全な帯だと、聖書は言うのです。

 

お互いが、キリストの愛によって結び合わされるとき、そこに、キリストによる平和が作り出されてきます。争いの絶えない家庭は、人生から、喜びを奪います。たとえ、素晴らしい家に住み、お金がたくさんあり、恵まれた環境に住んでいても、このキリストの平和がなかったら、すべてが、空しくなってしまいます。

 

2、互いに忍び合う

13節  互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。

 

キリスト教会には、いろいろな人が集まります。11節に「そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」コロサイ教会にも、いろいろな人が集まっていました。人種の違う人たち、ギリシャ人もいれば、ユダヤ人もいました。学者もいれば、字が読めないような人もいました。当時、奴隷と自由人が対等に集まるなんて、世の中ではあり得ないことでした。しかし、神さまは、そのような外側の違いで区別することなく、人々を教会に招かれたのです。

 

キリスト教会は、エクレシアと言いますが、神によって呼び集められた人たちの集まりです。これが、世の中の様々なグループとの大きな違いです。血縁によってでもなく、地縁によってでもない、また、何らかの利害関係によるのでもなく、ただ、神さまによって呼び集められ、キリストの愛によって結び合わされたお互いです。11節にありますように「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」

 

しかしながら、人間の集まりですから、当然、「だれかがほかの人に不満を抱く」ようなことが起って来ます。神様にとっては、それも想定済みで、だからこそ、キリストの愛によって、互いに忍び合い、互いに赦し合いなさいと言うのですね。そこに、キリストの平和が保たれて行きます。

 

私たちも、だれか他の人に不満を抱くことがあると思います。考え方も、感じ方も、育ち方も、すべて違うのですから、仕方ないことです。しかし、クリスチャンは、そこで、自分の見方や、考え方に固執することなく、イエスさまの持っておられる、ものの見方、考え方に、視点を切り替えることが出来るのです。それまで、近くしか見えなかった心の目が、もっと遠くまで見れるようになり、相手を含めた、もっと全体を見ることが出来るようにして頂くのですね。

 

イエスさまは、こう仰いました。「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」クリスチャンの素晴らしいところは、お互いに、赦し合うことができるということです。

 

3、互いに仕え合う

18~22節  妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。 父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。 奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。

 

聖書は、「妻たちよ。」「夫たちよ。」「子どもたちよ。」そして、当時の社会の中で、ローマ市民である主人に仕えていた「奴隷」に向かっても、語り掛けています。私達は、奴隷というと、全く人権をはく奪され、こきつかわれている様子を思い浮かべますが、聖書に中に出てくる奴隷は、たとえば、エジプトの侍従長ポティファルの家に売られていったヨセフや、シリアの将軍ナアマンの家に売られていったイスラエルの少女のような立場を思い浮かべて頂ければ良いと思います。

 

誤解のないように、説明しておきますが、聖書は「奴隷制度」を肯定している訳ではありません。聖書を良く知っていたリンカーンは、この悪い制度をなくすことを願い、大統領となり、ついにアメリカの奴隷制度は廃止されました。しかし、聖書は、その当時、キリストを信じた「奴隷」たちに、たとえ奴隷という身分であっても、あなたがたは、キリストにあって自由にされたのだから、心までも縛られてはなりませんよ。主にある自由人として、主人に仕えなさいと語っているのです。

 

22節  奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。

 

「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。」「真心から従う」というのは、何でも、言いなりになるということではありません。それは、その人が、いつも、自発的に、愛する主に従っているように、地上の主人にも従うということです。自発的な仕え方です。ですから、主が喜ばれない不正とかには、仕えることが出来ません。

 

主イエスさまは、私たちに自由を与えるために来てくださいました。イエス・キリストを救い主として信じるということは、喜んで、主に仕ええる者とされたということです。人に言われて、いやいやながらするのではなく、義務だから仕方なくと言うのでもありません。私を愛してくださった主の、その愛に応えて、喜んでベストを尽くす、それが、真心から従うということです。

 

学生は、どうして勉強するのでしょうか。「いやだけど、やらないと卒業できないから、仕方なく勉強する」のでしょうか。それは、勉強の奴隷です。イエスさまが、私たちに、真心をもって、勉強することを望んでおられるのです。真心をもって、仕えてくださったイエスさまに、私達も真心をもって、仕えるからです。そして、イエスさまに仕えるのと同じように、お互いも仕え合うのです。

 

23節 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。

 

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」これが、クリスチャンの行動基準です。何か見返りをくれる人には、一生けん命仕えるけれども、それがあまり期待できない人には、手を抜いたり、相手によって態度を変えることは致しません。相手が誰であっても、私達は、主に対してするように、心からするのです。お母さんとは、そういう存在だと思います。手のかかる子にも、そうでない子にも、等しく愛を注いでいるのです。

 

4、身に付けるもの

12、13節  それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。

 

「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」とあります。このような品性は、私達が、身に付けて行くものです。「桃栗3年柿8年」と言われますが、私たちがこのような品性を身に付けて行くのは、一生かかると思います。何度も失敗します。しかし、「七転び八起き」です。失敗したら、悔い改めて起き上がればよいのです。そうして行くうちに、御霊の実が結ばれて行きます。

 

その原動力は、「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として」ということです。私たちは、かたじけなくも、天の御国に入るよう選ばれました。それは、神さまの一方的な愛によってです。そして、イエスさまの十字架によって、罪赦され、きよくして頂きました。そのような大きな恵みと憐みを受けた者として、私達も、誰に対しても、真心を持って接して行くのです。それが、クリスチャンです。

 

真心から仕えることも、互いに赦し合い、忍び合う力も、すべての力と恵みは、主イエスさまから与えられるのです。私達は、もう一度、主から罪を赦して頂いたことを想いだし、主の御前にへりくだりましょう。神は、へりくだる者に恵みを与えられます。しかし、高ぶる者を退けられます。

 

15節「また、感謝の心を持つ人になりなさい。」

16、17節 「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」

 

感謝の心は、不平不満や、不信仰に打ち勝ちます。心から感謝する人になりたいと思います。心に、主への感謝があれば、私たちの心は明るくなります。心に、主への感謝があれば、私たちの心は喜びが湧いてきます。たとえ、誰かに不満を抱くことがあっても、その思いは、感謝の心によって、撃退されてしまうでしょう。

学びシートはこちらM140511 「赦し合い、仕え合う」 コロサイ3章12~23節 学びシート