いつまでも残るものは信仰と希望と愛です―キリストを信じるという生き方ー

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今日は、ペンテコステ礼拝、聖霊降臨記念日の礼拝です。3節の「炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。」と言うところから、ペンテコステのカラーは赤です。講壇掛の色も赤、講壇の花も赤です。ペンテコステには、赤いバラを飾ることが多いようですが、今回は、美化の係りの方が、少しオレンジが混じったグロリオーサという花を用意してくださいました。ウィキペディアには、「炎のユリ」と呼ばれることもあると書いてありました。赤いバラよりも、グロリオーサの方が、ペンテコステのイメージに合っているかもしれません。

 

いずれにしましても、ペンテコステは、炎の赤、舌の赤と深い関係があります。端的に言えば、聖霊は、私たちの心に、神の愛の焔を点火し、私たちの口から出る言葉を火で精錬するということです。今日は、聖霊が私たちの心に来てくださるとき、コミュニケーションの回復がもたらされるというメッセージです。

 

1、収穫の喜び

1節「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。」

 

弟子たちに聖霊が下ったのは、五旬節の日でした。五旬節を、ギリシャ語でペンテコストと言います。「50」を意味する言葉ですが、過越しの祭りから数えて50日目、この日は、秋に蒔いた小麦の初収穫を祝う時でもありました。イスラエルの人々は、五旬節の日、主食となる小麦の収穫を喜び、食物を与えてくださる神をほめたたえました。ペンテコステは、「収穫」とも深い関係があります。聖霊は、私たちの人生に、「収穫の喜び」を与えて下さるのです。

 

先ほど、お読みしたヨエル書2章23-27にこうあります。

「シオンの子らよ。あなたがたの神、【主】にあって、楽しみ喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜り、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。打ち場は穀物で満ち、石がめは新しいぶどう酒と油とであふれる。 いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。あなたがたは飽きるほど食べて満足し、あなたがたに不思議なことをしてくださったあなたがたの神、【主】の名をほめたたえよう。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。」

 

ヨエルは、収穫の喜びを歌っています。聖霊は、私たちを、実りある人生へと導き入れてくださいます。たとえ、それまでの人生が、いなごの大軍によって食い荒らされたような、穴だらけの人生であっても、神は、その年月を償おうと仰るのです。神は、私たちが、罪によって失ってしまったたくさんの恵みを、補って余りあるほどの祝福を注いでくださるというのです。「あなたがたは飽きるほど食べて満足し、あなたがたに不思議なことをしてくださったあなたがたの神、【主】の名をほめたたえよう。わたしの民は永遠に恥を見ることはない。」ペンテコステは、収穫の喜びの回復のときです。

 

この日、祭りを祝うために、ローマ帝国の各地に散らばっていたユダヤ人たちが、エルサレムに集まって来ました。イエス・キリストの弟子たちも、一つ所に集まっていました。その場所は、イエス様が、彼らと一緒にいたとき、こう命じていた場所です。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」(使徒1:4)

 

この場所は、イエスさまが、十字架に掛けられる前の晩に、最後の晩餐が開かれたところです。その場所で、イエス様は、弟子たちに「もう一人の助け主をあたながたに与える」と約束されました。弟子たちは、天に帰ってゆかれたイエスさまに思いを馳せつつ、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしない。」というイエスさまの約束を信じて、皆で心を合わせ、聖霊を待ち望んで祈っていたのです。

 

2、コミュニケーション障害の原因と回復

2~4節 「すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」

 

何とも不思議な光景です。「すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」「え、聖霊に満たされたら、英語や、ドイツ語が、ぺらぺらになるんですか。」と早合点してはいけません。残念ながら、私は、そういう人を見たことがありません。たぶん、これからもないと思います。これは、ペンテコステの時の特別な奇蹟だったのかもしれません。

 

そもそも、9~11節にある「メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプト」といった国々は、みな、ローマ帝国に属していた地域です。ローマ帝国の正式な共通語はギリシャ語で、一般庶民は、アラム語を使っていたようです。「他国のことば」と言っても、日本語と、英語やドイツ語のような、違いはなかったのではないかと思います。

 

むしろ、ここで、大事なことは、様々な言葉の違いを超えて、「話が通じた」ということです。コミュニケーションが回復したのです。11節に「あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」と驚いていますが、聖霊によるコミュニケーションが回復したのです。

 

 

旧約聖書、創世記11章1-9節に、バベルの塔の話が出て来ます。

「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」そのとき【主】は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。【主】は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」 こうして【主】は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」

 

バベルとは、「混乱」と言う意味です。それまで、全地は、一つの言葉、一つの話し言葉で、意志の疎通が出来ていました。しかし、人々が神さまを抜きにて、自分たちだけで、一致団結しようとしたとき、神は、彼らの暴走を止めるために、やむを得ず、言葉を混乱させ、互いに言葉が通じないようにされたのです。その結果、人々は、言葉が通じなくなり、コミュニケーションが取れなくなりました。その原因は、心の高ぶりにありました。

 

コミュニケーションの最大の障害は、言語の違いにあるのではないと思います。ある方々は、英語があまりはなせなくても、身振り手振りで、コミュニケーションが出来てしまいます。心が通じ合うのですね。バベルの塔の出来事は、高ぶってしまったために、心と心が通じなくなったということを示していると思います。神様を抜きにした「会話」の行き着く先は、「混乱」です。一見、うまく行くように見えても、途中でとん挫してしまいます。聖霊は、人の罪によって、混乱してしまったコミュニケーションを、もう一度、回復するさるために、来てくださいました。

 

2~4 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

 

聖霊は、「炎のような分かれた舌」のように、ひとりひとりの上に留まったとあります。もちろん、これは、象徴的な意味を持っています。聖霊は、炎とか火と関連づけられていますが、聖霊は、私たちの心に、神の愛の炎を点じてくださいます。聖霊が来てくださるとき、罪のために、冷えてしまった心に、神の愛の炎が灯されます。ローマ書5章5 節に「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」とあります。

 

私たちの心が、冷えて来ると、私たちの口から出る言葉も、否定的になります。人を裁いたり、神を呪ったり、破壊的な言葉が、口から出てきます。しかし、聖霊によって注がれる神の愛の炎によって、心が温められるとき、私たちの口からは、神への賛美、神への感謝が、出て来るようになります。

 

心に神の愛の炎が燃えていなければ、本物のコミュニケ―ションは、期待できないと思います。バベルの塔の出来事に見るように、神さまを抜きにした人と人とのコミュニケーションは、うまく行くように思えても、結局は、混乱で終わることになるからです。聖書は、心に聖霊を迎えして、初めて、本当のコミュニケーションを持つことができると教えています。人が罪に堕ちる以前のコミュニケーションを回復するために、聖霊が、「炎のような分かれた舌」として、私たちひとりひとりの上に来てくださいました。

 

3、言葉を制御する力

4節 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

 

「御霊が話させてくださるとおりに」というのは、人の意志とは無関係に、機械的に言葉が出てくるということではありません。私たちの口から出る言葉に、聖霊のコントロールが与えられるという意味です。詩篇141:3「【主】よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。」とあります。

 

ヤコブ 3:2-6  私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。 また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。 舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。

 

私達は、よく言葉で失敗をします。「あんなこと言わなければよかった。」と、私も何度、後悔したことでしょうか。言葉には、力があって、人の徳を建て上げることもできれば、人間関係を壊すこともできます。私達は、言葉の持つ力を軽く見てはいけないと思います。聖書は、「 あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。」と教えています。私たちが、聖霊に満たされるとき、聖霊が、語るべきことばを教えてくださいます。

 

14節「そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。あなたがたに知っていただきたいことがあります。どうか、私のことばに耳を貸してください。」

 

ペテロと11人の弟子たちは、立ち上がって、大きな声で、「はっきり」と福音を語りました。言わなくて良い言葉を口から出さず、言うべき言葉をはっきりと言う、聖霊は、その力を与えてくださいます。主の弟子たちは、恐れに打ち勝って、罪の悔い改めと、イエスを信じる信仰について、「はっきり」とかつ「論理的に」語りました。聖霊に満たされるとき、私たちは、「言わなければならないこと」「語る必要のあること」を、はっきりと語る力が与えられるのですね。

 

山口県の津和野に乙女坂というところがあります。以前、教区会で研修に行きました。明治の初期に、キリシタンが連れて来られ、収容された場所です。そこに「モリちゃん」という5歳の女の子の話が残っています。ある日、見張りの役人が、モリちゃんに、おいしいお菓子を見せてこう云いました。「おじょうちゃん、お腹がすいたろ。おいしいお菓子をあげようか。イエスなんてきらいだといいさえすれば、おいしいお菓子をあげるよ。」その様子を、お母さんが遠くから、心配そうに見ていました。「モリは、どうするのだろう。お役人になんと答えるのだろう。」でも、モリちゃんは、こう答えたのです。「そんな悪いこと云えないわ。わたしは、イエスさまが大好きだもの。わたしは天国に行きたいもの。」わずか5歳の女の子が、はっきりと答えたことに、役人も、いたく感服したそうです。

 

イエスさまは、「はいは、はい。」「いいえは、いいえ。」と答えなさいと仰いました。「言うべきことを言い、言うべきでないことを言わない」そう簡単なことではありませんが、聖霊は、私たちを助けてくださいます。人の顔色を伺うのでなく、正しいことは、正しい、だめなものは、だめと言える力を、私も欲しいと思います。

 

4、聖霊によるコミュニケーション力を身に付けよう

皆さまは、言葉によるコミュニケーションが得意でしょうか。私は、苦手意識があります。でも、苦手だからと言って、そこから、逃げてばかりもおられません。私達は、みな、言葉によるコミュニケーションの上達を目指して行く必要があります。それを助けてくれるのが、聖霊です。

 

実は、旧約聖書の中で、最も偉大な人物のひとりであるモーセも、言葉によるコミュニケーションが苦手な人でした。モーセは、自分のことを「ことばの人ではない」と言っています。

 

出エジプト4:10-16

モーセは【主】に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」【主】は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれが口をきけなくし、耳を聞こえなくし、あるいは、目を開いたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、【主】ではないか。 さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」

 

60万人以上の人々を連れて、出エジプトの大事業を行ったモーセは、さぞかし、雄弁な人だろうと思いきや、非常に、言葉によるコミュニケ―ションが、苦手な人でした。神様が、何度も何度も、モーセを励ましているにも、かかわらず、モーセは、なかなか、「はい。」と首を縦に振りませんでした。それで、よく話す兄のアロンが、スポークスマンを務めるようになるのです。

 

神さまは、口の重たいモーセに「さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」 と言われました。神様が、モーセとともにいてくださり、言うべき言葉を教えてくださいました。現代においては、聖霊が、私たちに語るべき言葉を教えてくださいます。

 

私達も「ことばの人」でないかもしれません。しかし、私たちの言葉によるコミュニケーションを助けるために、もうひとりの助け主である聖霊を送ってくださいました。私たちの口から出る言葉が、神をほめたたえ、人の徳を建て上げるものとなったら、どんなに幸いでしょうか。聖霊は、そのことを可能にする力を与えてくださいます。

 

パウロは、「わたしはすでに、完全にされているのではありません。それを得るように追及しているのです。」と言っていますが、私たちも、言葉によるコミュニケーションを豊かなものとするために、もっと聖霊に満たして頂きたいと思います。聖霊は、私たちの心に、神の愛の炎を点じてくれます。私たちの口から出る言葉を、聖霊の火できよめ、「親切で、塩味の効いた言葉」としてくださいます。

 

「私にも、聖霊を与えてください。」とお祈り致しましょう。聖霊は、私たちの生涯を、実りある生涯にしたいと願っておられます。

 

2~4 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

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M140608 コミュニケーションの回復 使徒2章1~21節  学びシート