いつまでも残るものは信仰と希望と愛です―キリストを信じるという生き方ー

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ある新聞の見出しに「日本、ギリシャに0―0 決勝T進出に望み」とありました。はっとさせられました。サッカーのワールドカップ、日本は、コートジボワールに、まさかの逆転負け、絶対に勝つと意気込んで臨んだギリシャ戦は、試合を有利に進めながらも、得点できず、引き分け、多くの人が、決勝トーナメント進出は絶望的と思ったのではないでしょうか。しかし、まだ、望みはあるのですね。それこそ、「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって」進んで行くしかありません。今日は、ピリピ書3章13,14節を中心に、「前に向かって進もう」と題してメッセージを語らせて頂きたいと思います。

 

1、前に向かって進もう

13-14 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

 

パウロは、「ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っている」と言っていますが、「前に向かって進む」ことは、そう簡単なことではないと思います。かつて、イスラエルの人たちは、モーセに率いられて、奴隷として苦しんでいたエジプトを出て、約束の地カナンに向かって進んで行きました。エジプトを出たイスラエルの民は道の途中、何もない荒野の旅に飽きて、エジプト時代の華やかさを思い出し、何度も、エジプトに帰りたいと言っては、モーセを困らせました。

 

カデシュ・バルネアで、彼らがこれから入って行こうとする、カナンの地は、どのような場所か調べるために、12人の偵察隊が派遣されました。彼らは40日にわたり、その地をつぶさに調べ、そこが、素晴らしく豊かな土地であることが分かりました。しかし、そこには、強い敵がいて、自分たちは、そこに入って行くことなど出来ないと、神さまの命令と約束に対する不信仰に陥ってしまいました。

 

ただ、ヨシュアとカレブのふたりだけが、「ぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」と言いました。しかしあとの10人は、だめだ、自分たちには、とても出来ない。不可能だと、不信仰な結論を出しました。その結果、イスラエルの民は、四十年間、荒野を放浪することになったのです。

 

イエスさまは、こう仰いました。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」(ルカ9章62節)神の国に入るまでには、多くの試練を乗り越えて進んで行く必要があります。困難があるからと言って、途中でやめてしまっては、神の国に入ることが出来ません。私たちは、イエスさまを信じて、天の御国への道を歩み出しました。後戻りすることなく、ひたすら前に向かって進ませて頂きましょう。

 

2、今達してるところからスタートしよう

16 それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。

 

皆さまは、今、どういう状態でしょうか。パウロは、たとえ今、私たちがどういう状態であっても、さあ、ここから、再び立ち上がって、前に向かって進んで行こうではありませんかと、私達を励ましていてくれています。

 

神さまは、決して追い立てるようなお方ではありません。早く歩けない人もいます。それぞれのペースがあり、ゆっくりでも、良いのです。信仰の歩みは、誰か他の人との競争ではありません。イエスさまは「あなたは、わたしに従って来なさい。」と、仰いましたが、神様は、私たちの状態に合わせて、導いてくださるお方です。エマオの途上で、ふたりの弟子が暗い顔つきになって、立ち止まったとき、復活のイエスさまも立ち止まり、彼らの話を聞いてくださいました。

 

イエスさまは、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28~30)と、仰いました。

 

私達が歩む、天国への道は、確かに狭い道、主の小道です。いのちに至る狭い道です。いろいろな、戦い困難があります。しかし、私達は、一人で、この道を進んで行くのではありません。主がともにおられます。疲れたときには、主が、私達を休ませてくださいます。私たちは、すべての重荷を主に委ねて、疲れを癒やして頂きます。そうして、再び、自分の十字架を負って、主に着いて行きます。

 

他の人と比べないようにしましょう。先を進む人もいれば、ゆっくりと進む人もいます。それぞれが、与えられている賜物も違いますし、立場も違います。私たちは、神さまの御導きに、忠実であらせて頂きたいと思います。

 

3、価値観の転換

7、8節  しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

 

パウロは、イエス・キリストに出会って、価値観が全く変わりました。キリストを知る素晴らしさのゆえに、それまで得と思っていたことを、損と思うようになったというのです。パウロが、それまで、得と思っていたこと、価値があるとおもっていたこととは、「律法による義」です。

 

4~6節 「私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。」と言っています。

 

「律法による義」とは、「自分の力で、律法を守ることによって、義と認められる」ことです。これは、「イエス・キリストを信じる信仰による義」の反対です。自分の努力、頑張りによって、神さまに義と認めてもらう、それが、パウロの誇りであり、人生の目的でした。何が問題なのでしょうか。律法が悪い訳ではありません。律法による義は、自分の努力、頑張りによって、目標を達成しようとします。一方、イエスキリストを信じる信仰による義は、イエスさまを信じる信仰によって、目標を達成しようとします。目標に至る方法が違うのですね。

 

努力することは、良いことです。しかし、自分の努力で目的を達成するとき、意識するとしないとに関わらず、自分を誇り、高ぶってしまいます。高ぶる者からは、神の恵みが失われて行きます。一方、キリストを信じる信仰による義は、イエスさまに信頼し、その導きに従うことで、義を達成しようとします。イエスさまに信頼することは、神の前にへりくだることですから、何かを達成しても、自分を誇ることにはなりません。すべては、神の栄光となります。つまり、キリストを信じる信仰による義は、高ぶることなく、目標をクリアー出来る唯一の方法なのです。

 

パウロは、「律法による義」を誰よりも熱心に追及しました。熱心になればなるほど、心は高ぶり、そうでない人を裁き、ついには、教会の迫害という暴力にまで至ったのです。「律法による義」の追求は、暴走する危険性を孕んでいます。しかし、パウロは、イエスキリストに出会って、自分の間違いに気が付きました。自分の力で、義を勝ちとるのではない。義とは、イエス・キリストによって与えられるものだと悟ったのです。これは、パウロに、価値観の大転換をもたらしました。

 

この価値観の転換こそ、私たちが、前に向かって進むために、必要なものです。この切り替えが中途半端ですと、私たちは、信仰に成長することが難しいと思います。私は、「きよめ」というのは、この切り替えが、はっきりとすることだと思います。肉の頑張りで達成しようとするのではない。キリストを信じる信仰によって義とされることを追い求める。この点を再点検させて頂きましょう。

 

4、信仰による義の追及

9~12  キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。

 

この時から、パウロの「キリストを信じる信仰による義」の探求が始まりました。パウロは、自分の頑張りで、律法による義を求めていたときは、非常に辛かったのだと思います。その熱心は、盲目的な熱心でした。しかし、イエスキリストを信じる信仰による義を知ったとき、パウロは、希望を見出しました。「信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる」と言う希望です。そして、それを捕えようと、追及し始めました。

 

ここで、パウロが「前に向かって進む」というのは、この「信仰による義」を追求することを言っています。それは、「キリストを知る」ということです。単に、聖書を読んで、イエスさまとはどういうお方であるか、何を仰り、どのようなことをされたのか、知識を得るということではなく、キリストご自身を体験するということです。毎日の生活の中で、キリストの救いを体験すること、それが、「前に向かって進む」ということです。

 

パウロは、特に「キリストの復活の力」を知りたいと願いました。こう述べています。「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」信仰の試練、困難に直面するとき、それは、キリストの苦しみに与るチャンスだとパウロは考えました。その中でしか、キリストの復活の力を体験できないからです。

 

これは、私たちにも当てはまることだと思います。私たちが、様々な困難、限界、失望、試練にぶつかる時、その時こそ、キリストの復活の力を体験するチャンスです。もう、自分の力は限界です。どうにもなりません。お手上げです。私をこれ以上、苦しめないでくださいと神に訴えることがあると思います。私もありますし、パウロもそうであったと思います。

 

その時です。私たちは、キリストの復活の力を体験するのです。この力は、もうだめだと絶望しているところに、大逆転を与えてくれます。私は今日の早朝、小さな体験をしました。実は、今朝になっても、納得のゆく説教準備が出来ていませんでした。まるで、ギリシャと試合をしているザックジャパンのように、もしかしたら、このまま時間切れという、いやーな考えが心をよぎります。私にとって、納得の行かない説教をするのは、非常に辛いことです。ところが、神さまは、不思議なように助けてくださり、その後、短時間でぴたっと、考えがまとまり、仕上げることができたのです。ですから、皆さんはどう思うか分かりませんが、私としては、主から頂いたメッセージをお届けできたという喜びがあります。イエスさまは、自分の限界に直面し、自分の至らなさに涙する私たちをぐっと、引き上げてくださるお方です。ですから、前に向かって進むことをやめてはいけないのだと思います。

 

しかし、これは、一度の体験で、終わるものではありません。生涯のうち、何度もそのような場面を通過して行きます。「キリストに似た者となる」それは、何か一度の救いの体験で、完成するものではありません。私たちは、一生涯、その道を辿って行きます。ですから、パウロは、「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。」と述べているのですね。

 

そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださいました。これは、神さまの御心なのです。自分で、その道を変更することは出来ません。イエスさまが、永遠の愛をもって、私たちを造り代えようと、信仰の学校へと導き入れてくださいました。その行き着くところは、永遠のいのちです。天の御国です。永遠のいのちに至る道は、これ以外にはありません。何度も言いますが、裏口はありません。永遠のいのちに与りたいなら、この狭い門を通って行くしかありません。

 

先日、我が家に、ナミアゲハの幼虫2匹がやってきました。その姿、何かに似ているなあと思ったら、鳥の糞だそうです。鳥に食べられてしまわないように、鳥の糞のかたちをしているのですね。擬態というそうですが、何という神さまの知恵というか、ユーモアでしょうか。その小さな鳥の糞のような幼虫が、やがて、あの美しいアゲハ蝶に変わるなんて、想像が付きません。でも、神さまは、実際、そのようにしてくださるのですね。

 

私たちも、たとえ、今どのような状態であっても、この道を前に向かって進んで行くなら、キリストの復活の力によって、神の栄光を現すものへと変えられて行きます。そこに、私たちの希望があるのです。

 

5、前に向かって進みましょう

13-14 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

 

私達も、上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標目指して、走り続けたいと思います。「うしろものを忘れ」とありますが、しばしば、過去の栄光が、前に進むことを邪魔することがあります。前と同じ方法で、何とか出来ると思い込み、せっかくのキリストの復活の力を体験するチャンスを失ってしまうのです。

 

豊富な人生経験が、私たちを成長させるのでしょうか。それでない例もたくさんあります。私たちが、自分の限界に直面する、その場面、その場面で、キリストの復活の知ることが、前に向かって進むことです。過去の栄光、過去の成功体験は、一旦捨てるべきではないでしょうか。それに頼るのではなく、私たちは、新しく、キリストとその復活の力を知って行くのです。

 

先日、金沢教会に招かれたとき、ちょうど、金沢港にロゴスホープ号という船が来ていました。金沢教会の萩原先生が、受け入れに協力してくれた教会の方々を招いての愛餐会へ私を連れて行ってくださいました。突然の訪問者であるにもかかわらず、こんな恵みに与っていいのだろうかと恐縮しましたがが、神さまからの、素晴らしいプレゼントとして、楽しませて頂きました。

 

ロゴスホープ号というのは、ノアの箱舟と同じくらいの長さだそうですが、世界中のクリスチャンボランティア約400名が乗り込んで、世界の港から港に進んで行き、そこで、船から降りて、現地の人たちに、医療や教育を通して奉仕したり、また、船に現地の人たちを招いて、福音のドラマを上映したりして、福音を伝える働きをしています。

 

ミニストリーの責任者の方が、こう仰っていました。「新しい港に入って行くときは、これからどんな出会いがあるか、とてもわくわくする。しかし、港を出るときは、いつも別れの辛さ、寂しさがある。でも、私たちは、一つの港にずっと留まっている訳には行かない。次の港に進んで行かなければならないのである。」と。

 

私たちの人生も、天の港を目指して進んで行く、航海に例えることができるかもしれません。「キリストとその復活の力を知」るクリスチャン生涯において、一つの港にずっと、留まっていることはできません。慣れ親しんだ習慣、すっかり身に着いた考え方に別れを告げるのは、寂しいことですが、新しくキリストと復活の力を知る希望の方が、はるかに素晴らしいとものです。私たちの最終ゴールは、天の御国なのです。たとえ、その一歩手前まで行っても、そこに到達しなければ、意味がありません。私たちも、うしろのものを忘れ、前に向かって進んで行きましょう。主イエスさまが、私たちを、そのように導いておられます。

 

10~14節  私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

 

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