1、イエスさまのもとに行く
28節 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」よく、教会の看板にも書かれています。私の尊敬する知り合いの牧師は、生きる意味が分からなくなり、駅のホームに身を投げようとしたとき、駅の看板に書かれていたこの言葉を読み、死ぬ前に教会に行ってみよう、それからでも遅くないと思いとどまって教会を尋ね、イエスさまを知り救われたという証詞を聞いたことがあります。
イエス様は、クリスチャンであってもなくても、すべての人に対して、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と招いておられます。私も、時々疲れているなあと感じることがあります。疲れがたまって来ると、思考力が落ちて来て、信じられないようなポカミスが増え、考えがネガティブ否定的になってきます。休もうにも、しなければならないことが、次から次にあり、そうこうしているうちに、うつに陥って行く。この疲れのスパイラルには、要注意です。
モーセの十戒の中に、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。」とあります。ユダヤ人は、6日間働いて、7日目に休むという安息日の規定を、厳格なまでに守って来ました。「愚かだ。」という人もいますが、逆に、それが、彼らを守って来たと言われます。安息日は、人を縛るためではなく、人を生かすために、神さまが設けられた日です。人には、休みが必要です。
イエスさまは「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と仰いました。イエスさまは、日曜日だけ、わたしのところに来なさいとは仰いません。疲れていると思ったら、いつでも、どこでも、直ちに、わたしのところに来なさいと仰るのです。復活の主イエスさまは、疲れることも、弛むこともありませんから、一度に何千人、何万人がみもとにやって来たとしても、その人の為に、マンツーマンで相手をしてくださいます。
29節に「わたしは心優しく、へりくだっているから」とありますように、イエスさまの所に行くとき、イエスさまは、私たちをありのまま受け入れてくださいます。「何やってる」と、叱りつけたりされませんから、私たちは、安心して主に近づくことができます。もし、重荷を負い、疲れている方がおられましたら、心配せずに、「わたしのところに来なさい。」と仰るイエスさまのとこと行き、重荷をおろして、休ませて頂きましょう。イザヤ書9章に「不思議な助言者」とありますように、イエスさまは、ワンダフル・カウンセラーです。私たちの悩みを知り、必要な慰めと励ましを与えてくださいます。
2、幼子のように
25~27節 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。
イエスさまの所に行きさえすれば、休むことが出来るのですが、それを邪魔するものがあります。それは、自分の中にある、疑いとか、不信仰です。イエスさまは、「これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。」と仰っいました。幼子は、単純に信じることが出来ます。しかし、賢い者や知恵ある者は、自分の頭で考えて、「そんなことあり得ない。」「ある訳ない。」と、自分で結論を出して、単純に信じることが出来ません。ですから、せっかく、そこに救いがあっても、隠されているのです。
イエスさまの所へ行くためには、幼子のような単純な信頼が必要です。「思い切って、イエスさまの救いの中に、飛び込んで」みたら良いのです。自分で重たい荷を背負って、苦しみ続けるのではなく、それらの重荷をすべて、肩からおろして、幼い子供のように、イエスさまと、そのふところに飛び込んだら、良いのです。すると、イエスさまが、ちゃんと受けとめてくださいます。
詩篇31:5 にこうあります。「私の霊を御手にゆだねます。真実の神、【主】よ。あなたは私を贖い出してくださいました。」ユダヤ人は、子どものころから、この祈りを教えられるそうです。イエスさまも、十字架で、息を引き取るとき、「父よ、我が霊を御手にゆだねます。」と祈られました。しかし、この祈りは、死ぬときだけでなく、生きているときも、捧げるべき祈りです。自分で、何とかしようともがき苦しむことをやめて、主に委ねるとき、魂に安息が来ます。深い安息です。神は私たちが、皆この安息に入ることを、願っておられるのです。
天国の門は、我が身一つしか入れない狭き門です。余分な荷物は、すべて置いて行かねばなりません。イエスさまは、「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」(ルカ 18:17)と仰いました。よく考えて信じることは大事なことですが、考え過ぎて、入れなかったら意味がありません。時には、幼子のような単純さをもって、イエスさまの救いに飛び込んでみたらどうでしょうか。
3,くびきを負って、主から学ぶ
29、30節 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
「くびき」とは、牛とか馬の首のところに付けて、荷車を引いたり、鋤をつけて畑を耕したりする木製の馬具のことです。言い伝えによると、大工の仕事をしていたイエスさまは、この「くびき」作りの名人で、全国から、その「くびき」を求めて、集まって来たそうです。イエスさまが作る「くびき」は、同じサイズではなく、それぞれのサイズに合わせて作るオーダーメイドでした。私たちにとって、イエスさまのくびきを負うとは、イエスさまにお従いするということです。
たましいのやすらぎというのは、ただ休むだけでけでは、だめなのですね。むしろ、イエスさまのくびきを負って、学んで行くときに、魂のやすらぎが深められてきます。イエスさまは、「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」と仰いました。
イエスの「くびき」を負うとは、主の弟子になるということです。イエスさまがイスラエルで福音を宣べ伝えていたとき、イエスさまの周りには、いつも、大勢の人たちがいました。彼らは、イエスさまが、病気を治したり、多くの人にパンを与える奇蹟を行うのを見るために、どこにでもついて行きました。ある時は、先回りをして待っていたりしました。いわば、イエスさまの「おっかけ」です。「この人の近くにいれば、何かいいことがあるに違いない。」そう思ってついて行ったのです。しかし、イエスさまが、十字架に付けられることが分かったとたん、蜘蛛の子を散らすように、いなくなってしまいました。
群衆は、いいとこどりのお客さんでした。決して、イエスさまが与えるくびきを負って、イエスさまから学ぼうとはしませんでした。しかし、主の弟子たちは違いました。ペテロやヨハネ、トマスやマタイ、彼らは失敗もしましたが、イエスさまから、「わたしについて来なさい。」と言われ、主に従って行きました。彼らは、遠くからただ、眺めているだけの人ではなく、主のくびきを負って、主から学ぶ人になったのです。
彼らが払った犠牲は、決して小さくはありませんでした。しかし、受けた報いは、その幾倍もの大きなものでした。この魂のやすらぎ、安息、平安は、何ものにも代えがたいものです。そして、そのやすらぎは、主のくびきを負って、主から学び続ける者に与えられます。遠くから眺めているだけでは、魂のやすらぎは、得られません。イエスさまを「わたしの主」と信じ、罪を赦され、洗礼を受け、主の弟子となり、キリストのからだである教会の建て上げのために、身を当てはめて行くときに、魂にほんとうのやすらぎが与えられるのです。
時に、背負わされたくびきが重たく感じられて、外してしまいたくなることがあるかもしれません。その時は、すかさず、主のもとに行って、重荷をおろし、身軽になりましょう。主は、重荷を負って労する者を休ませてくださいます。そうして、たましいの元気を回復し、「よいしょ」と、主が与えてくださるくびきを負って、イエスさまについて行きます。それが、クリスチャンの歩みです。「くびき」を負って、イエスさまに付いて行かなければ、クリスチャンとは言えません。
4、「愛」という「くびき」に
30節に「 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」とあります。イエスさまが、私たちのために備えていてくださる「くびき」は、「愛」という「くびき」です。イエスさまは、こう仰いました。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)
先日、ある方の葬儀に出席しました。式の中で、3名の方が、追憶の辞を述べておられました。皆さんが、共通して語ったのは、その方がなさった「愛の労苦」についてでした。私は、告別式に出席しながら、最後に残るものは、やはり愛、しかも無私の愛、見返りを期待しない愛なのだと思いました。
イエスさまが、私たちに与えてくださる「くびき」とは、「あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ。」という「愛」の「くびき」に他なりません。この「愛のくびき」は、決して重荷にはなりません。何故なら、聖霊によって、神の愛が、私たちの心に注がれているからです。原動力が神様の愛だからです。同じ労苦でも、愛は、重荷となりません。
私達は、世の中で生きているうちに、いつのまにか、見栄とか義務とか、愛以外の「くびき」とすり替わってしまうことがあります。その時、私たちは疲れてしまいます。ですから、私達はイエスさまのところに行き、「義務」という「くびき」を「愛」という「くびき」に変えてもらわなければなりません。イエスさまは、私たちの肩から「義務」という重荷を取り去り、「愛」という「くびき」を負わせてくださいます。
イエスさまの元に行き、「義務」という重荷をおろし、主のご愛に憩わせて頂きましょう。そして、イエスさまが与えてくださる「愛」という「くびき」を負い、主の弟子として歩ませて頂きましょう。そうすれば、たましいにやすらぎが来ます。
28~30節
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。