いつまでも残るものは信仰と希望と愛です―キリストを信じるという生き方ー

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M140713 「平和を作る者にしてください」 ヤコブ3:1~18

 

1、リーダーの為に祈る

1節  私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。

 

聖書は、「教師は、格別きびしいさばきを受ける。」と言います。私も襟を正されます。これは、「教師」だけでなく、すべてのリーダーについても言えることです。教師や、リーダーが、間違ったことを教えたり、間違った方向に導くなら、多くの人の人生を巻き込んでしまうことになります。ですから、「教師」や「リーダー」の責任は重いのです。リーダーは、神さまから、格別厳しいさばきを受けます。

 

Ⅰテモテ2:1に、こうあります。「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。」

 

「平安で静かな一生を送る」新共同訳では「平穏で落ち着いた生活を送る」と訳されていますが、私達が、敬虔に、神さまから与えられたいのちの尊厳を保って生きることは、神の御心であり、神に喜ばれることです。戦争は、人間の尊厳を踏みにじる行為ですね。私達は、「平安で静かな一生」を送れるよう、祈り求め、とりなす必要があります。

 

悲惨な戦争が終わって来年で70年、日本は平和憲法によって守られて来ました。平和ボケと言う人もいますが、確かに、私達は、平和が当たり前だと思っていたかもしれません。そして、このまま平和が続くだろうと、たかをくくっていました。私たちは、平和のために、あまり真剣に祈って来なかったように思います。しかし、今、平和は当たり前ではないということに気づかされています。今こそ、平和のために、真剣に祈るべき時が来ています。

 

私たちの誇り、憲法第9条に「武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては、永久にこれを抛棄する。」と明記されています。こんな素晴らしい憲法は、他に類を見ません。しかし、今、この9条が有名無実化の危機にあります。国のリーダー自ら、国の最も重要な憲法を捻じ曲げて解釈し、それを内閣の誰も止められないという現実が起っているのです。

 

聖書は、「王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。」と命じています。私達は、リーダーたちのために祈る務めがあります。批判するだけでなく、間違った方向に進んで行かないように、とりなす必要もあります。そのとりなしには、意見を表明したり、選挙権を行使したりすることも含まれます。私たちは、日本の国民として、日本を愛するからこそ、リーダーが間違った道に進むことがないように、神に祈る必要があります。

 

太平洋戦争のとき、クリスチャンの間でも、意見が2つに分かれました。主流派は、この非常時に国家を応援するのは、キリスト教会の務めだと言って、戦争に賛成しました。一方、ホーリネスグループは、あくまでも戦争に反対しました。そのために、政府の弾圧を受け、インマヌエル教団の蔦田二雄先生も、投獄されました。中には、牢獄の中でいのちを落とした牧師たちもいます。戦後、戦争に賛成した人たちは、自分たちの間違いを、主の前に悔い改め、告白しました。告白の一部を紹介します。

 

「世の光」「地の塩」である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。まさに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。しかるにわたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを、内外にむかって声明いたしました。まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは「見張り」の使命をないがしろにいたしました。心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うとともに、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞にこころからのゆるしを請う次第であります。

 

再び、同じ過ちを犯すことがないよう、気が付いたら、こんなことになっていたということにならぬよう、私達は、真剣に祈るべきではないでしょうか。リーダーは、神さまから格別厳しい裁きを受けますが、もし、私たちが祈りもせず、何のとりなしもしなかったなら、私たちも、同じように責任を問われます。子どもたちが平和な世界で暮らせるように、祈りたいと思います。

 

2、上からの知恵

13~16節  あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。 そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。

 

平和は、私たちひとりひとりの生き方と、深く関わっていると、聖書は教えています。世界平和は、とても大きな問題で、私たちの力の及ばない範囲かもしれませんが、私たちが、日頃出会う、周りの人たちと、平和な関係を結んで行くことは、私たちが、毎日、取組むことができる課題です。

 

14、15節に「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。 そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。」とあります。まず、私たちのこころから、「苦いねたみや敵対心」が、取り除かれなくてはなりません。怒り、ねたみ、敵対心といったものから、争いが生じて来ます。カインは、苦いねたみから、弟アベルを殺してしまいました。

 

Ⅰヨハネ1章7~9節にこうあります。「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

 

イエスさまの十字架の血潮は、私たちの心にある悪いものを、きよめてくださいます。「苦いねたみと敵対心」は、自分で取り除くことは、出来ません。しかし、神様は、それをきよめることがお出来になります。私たちの心に、イエスさまの十字架の血潮が注ぎかけられるとき、私たちの心はきよめられます。もう一度、イエスキリストの十字架を仰いで、心をきよめて頂きましょう。

 

17節  しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。

 

私達に必要なのは、この「上から知恵」です。純真とは、「不純物の混じらない」と言う意味です。英語では「ピュア」と訳されています。私利私欲が混じらない、純粋な動機です。上からの知恵は、相手をやっつけてやろうとか、だましてやろうとか、怒りや、憎しみが、微塵も混じっていません。100%神の愛なのです。

 

「次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」上からの知恵は、争いではなく、平和をもたらします。上からの知恵は、寛容です。厳しく人を裁くものではありません。そして温順、温順とは、「穏やかで、素直なさま」とありました。上からの知恵には、素直さと、穏やかがあります。そして、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。上からの知恵には、裏表がありません。

 

この「上からの知恵」は、イエス・キリストご自身です。上からの知恵が、人なったのが、イエス様です。イエスさまを、私たちの心にお迎えするとき、私たちの生き方が変わってきます。イエス様の愛と、やさしさで、私たちの心が満たされるとき、私たちの生き方は、柔和な生き方に変えられてきます。私たちには、この上よりの知恵が必要です。

 

ヤコブ書1章5節に「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」とあります。上よりの知恵を、神に求めましょう。真実に、主に願うなら、主は、喜んで与えてくださると信じます。

 

1955年12月のある寒い日に、アメリカのアラバマ州モントゴメリーの町で、黒人女性ローザ・パークスは、一日の仕事のおえ、バスに乗り、家に向かっていました。そこに、ひとりの白人男性が、バスに乗って来て、ローサに「席を譲れ」と云いました。当時の法律では、黒人は白人に席を譲らなくてはなりませんでした。しかし、彼女は席を譲りませんでした。そのために警察に逮捕されました。

 

モントゴメリーの黒人たちは、彼女が逮捕されたことを知り、怒りました。ある人たちは、「暴力をつかってでも、戦う。」と言いました。しかし、マーティン・ルーサー・キング牧師は訴えました。「平和的な方法で。」「にくしみは、憎しみを引き起こします。愛だけが、憎しみを消し去ることができるのです。」そうして、町の全ての黒人たちが、彼女の逮捕に抗議して、バスの乗車ボイコット運動を始めました。381日間、1年と少し、雨の日も、風の日も、暑い日も、彼らは、歩いて、学校へ、職場へ、そして教会へ通い続けました。彼らは決して暴力に訴えることなく、イエス様が教えて下ったように、忍耐して、愛をもって差別と戦い続けました。

 

そして、ついに、法律が改正され、黒人もバスの好きな席にすわる日が来ました。愛が憎しみに勝利したのです。その運動の指導者キング牧師は、言っています。「暴力に、暴力で答えてはいけない。愛の力を信じ、わたしたちを憎む者を愛さなければならない。愛こそが、あらゆる問題を解決する、たったひとつの鍵なのです。」

 

ワシントンDCで行ったキング牧師の演説「I HAVE A DREAM」「私には夢がある。」今、聞いても感動します。「私には夢がある。いつの日がきっと、幼い黒人の少年少女たちが、白人の少年少女たちと、兄弟姉妹として、手を取り合い、力を合わせる日がくることを。」

 

私たちにも、夢があります。夢と言うより、幻・ビジョンと言った方が良いかもしれません。それは、世界中のあらゆる国民、部族、民族が、一つとなって、神の小羊なる贖い主を賛美し、礼拝する日が来ることです。ヨハネの黙示録に、その様子が描かれています。これは、絵に描いた餅ではなく、やがて、その夢がかなう日が来るのです。

 

信仰のない人は、そんなの非現実的だと非難するかもしれません。しかし、「上からの知恵」は、現実を超えた知恵です。罪と死の原理に閉じ込められた地上から、目を高く上げて、天の御国へと視点を向けさせる、それが「上からの知恵」です。ですから、私たちは、心を高く上げて、「上からの知恵」を求めたいと思います。

 

4、平和の種を蒔こう

18節  義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。

 

平和は、どのようにして作られるのでしょうか。それは、こつこつと、「平和の種」を蒔き続けることによると、聖書は言います。「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。」平和は、強制的に作り出されるものではありません。「威嚇による平和」「武力による平和」は、決して長続きしません。イエスさまが、仰ったように「剣を取る者はみな剣で滅び」るのです。それは、歴史を見れば明らかです。一時的に平和が訪れたとしても、再び、争いが繰り返されます。

 

この「平和の種」は、最初、イエスさまによって蒔かれました。イエスさまは、十字架に掛けられる前、こう仰いました。「 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」(ヨハネ12:24、25)

 

イエスさまは、「一粒の麦」として十字架で死なれ、「一粒の麦」として、私たちの心に蒔かれました。ご自分を犠牲にしてさえも、私たちを愛してくださった、神の愛の種が、私たちの心に蒔かれたのです。この種は、やがて、30倍、60倍、100倍の実を結んで行きます。そして、最終的には、天の御国という大木に成長します。

 

私たちに出来ることは、小さなことです。人の話を親身に聞いてあげるとか、とりなしの祈りを捧げるとか、人を赦すとか、困っている人を助けるとか、そのようにして蒔かれた小さな種が、やがて、子どもたちの心にも蒔かれ、孫たち、その家族にも蒔かれて行きます。ですから、私たちもまた、日常生活の中で、「平和の種」を蒔き続けて行きます。家庭で、子どもたちの心に平和の種が蒔かれ、学校や会社で、平和の種が蒔かれて行きます。

 

人を赦すこと、人に親切にすること、乱暴な言葉を言わないこと、困っている人を助けること、誰に対しても敬意を払うこと、それらは小さな「平和の種」です。しかし、の種を成長させ、実を結ばせてくださるのは、神さまです。「平和の種」を蒔く者、それが、ピースメーカー「平和を作る者」ではないでしょうか。

 

イエスさまは、終わりの時代について、こう仰いました。「戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。・・・不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」(マタイ24:6-12)

 

今、まさに、各地で、紛争が起こり、愛が冷たくなっている時代だと思います。しかし、キリスト者は、時代がどんなに暗くなろうとも、悲観することはありません。既に、最終的な勝利は確定しているのです。最後に、悪は、滅ぼされ、全く罪のない、神の国が実現します。ですから、信仰をしっかりと持ち、イエスさまの愛に心を満たされ、「平和の種」を蒔き続けましょう。

 

13世紀のイタリアで活躍した、アッシジのフランチェスコによるものと言われる「平和の祈り」があります。マザーテレサも、毎日、この祈りを捧げていたと言われます。私たちもご一緒にこの祈りを捧げたいと思います。今日の礼拝の締め括りの賛美は、この詩から作られた讃美歌です。

 

主よ、わたしを平和の道具とさせてください。

わたしに もたらさせてください……

憎しみのあるところに愛を、罪のあるところに赦しを、争いのあるところに一致を、

誤りのあるところに真理を、疑いのあるところに信仰を、絶望のあるところに希望を、

闇のあるところに光を、悲しみのあるところには喜びを。

 

ああ、主よ、わたしに求めさせてください……

慰められるよりも慰めることを、理解されるよりも理解することを、

愛されるよりも愛することを。人は自分を捨ててこそ、それを受け、

自分を忘れてこそ、自分を見いだし、赦してこそ、赦され、

死んでこそ、永遠の命に復活するからです。

『フランシスコの祈り』(女子パウロ会)より

 

私達も、「平和を作る者としてください。」と、主に祈りたいと思います。

 

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