いつまでも残るものは信仰と希望と愛です―キリストを信じるという生き方ー

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今日の聖書箇所は、イエス様が十二弟子を村々にお遣わしになった箇所です。「旅のためには」とありますが、この旅は、観光旅行ではありません。伝道旅行です。彼らは伝道の実習に遣わされたのです。今もそうですが、私が神学生だった頃、夏季実習に遣わされて行きました。実習先の教会が発表になるとき、どきどき、わくわくしました。「出来るだけ、遠いところになりますように。」とひそかにお祈りしたものです。そんな時に限って、神学院に居残りとなったりして、がっかりなんてこともありました。

 

イエスさまの弟子たちにとって、この旅は、どんな旅だったのでしょうか。たぶん、涙あり、ハプニングあり、感動ありの珍道中だったのではないかと思います。と言いますのも、イエスさまの訓練の方法は、とてもユニークなものだったからです。イエスさまは、弟子たちに「旅のためには、杖一本のほかは、何も持って行ってはいけません。パンも、袋も、胴巻に金も持って行ってはいけません。くつは、はきなさい。しかし二枚の下着を着てはいけません。」と、ほとんど何も持たせずに、送り出しました。

 

いったい、イエスさまのご命令には、どのような意図があったのでしょうか。この実習は、弟子たちが、福音を伝える者となるために、どうしても学ばなければならないものでした。それは、今日、私達が、家族や、友人、愛する方々に、イエスさまの救いを伝えるために、私たちが身に付けなくてはならない、霊的な資質でもあります。

 

1、互いに愛すること学ぶ

7節  また、十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった。

 

第一は「互いに愛することを学ぶ」ということです。弟子たちは、「ふたりずつ組にして」遣わされました。当時、一人で旅することは、強盗に襲われたりする危険がありました。良きサマリヤ人のたとえに出くる旅人は、強盗に襲われて道端に倒れていましたが、長い旅をするときは、隊列を組んで旅をしました。そうすれば、強盗に襲われる危険が減るからです。しかし、この二人ひと組での派遣には、もっと大事な意味が込められていました。イエス様は、弟子たちに、単独の働きを求められませんでした。イエスさまは、福音を伝える働きは、力を合わせ、協力して、行うものだということを教えてくださったのだと思います。

 

Ⅰヨハネ4:8~12にこうあります。

「 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」

 

福音を聞く人たちが、イエスさまが救い主であることを知りたいと思うのは、弟子たちの間に、互いに愛し合う愛があることを感じるからだと思います。病気が癒されたり、不幸な出来事から回復したり、そのよう奇蹟は、一時的に人々の心を惹きつけはしますが、永続するものではありません。しばらくすると、感動も薄れてくるでしょう。しかし、神さまの愛は、違います。愛は、いつまでも残るものです。箴言に「人の望むものは、人の変わらぬ愛である。」とありますが、人々が最も求めているものは、変わらぬ愛です。

 

ふたり一組で遣わされた弟子たちが、もし、喧嘩ばかりしていたらどうでしょうか。いくら、口で真理の言葉を語っても、実際に身近な人とトラブルばかり起こしていたら、誰も、聞く心を持たないでしょう。それどころか、なんだ、口ばっかりだと、がっかりしてしまうかもしれません。しかし、弟子たちの間に、互いに愛し合う、互いに尊重しあう、そのような麗しさを見る時、他の人々は、そこにイエスさまの愛を見るのです。

 

私は、大学生のとき、初めてイエス・キリストを信じる同年代の人に会いました。それまで、クリスチャンなんて、と高ぶっていた私ですが、彼らに会って、他にはない、何とも言えない真実さ、優しさを感じました。私は、その魅力に惹きつけられるようにして、聖書を学ぶようになりました。ヨハネが言うように、「いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」

 

イエスさまの弟子たちは、最初、誰が一番偉いかと、互いに足の引っ張り合いをしてばかりいました。彼らは、みなばらばらで、協力することが出来ませんでした。イエスさまが任命された「ふたり組」は、反りの合わない人もいたと思います。顔を合わせると、ぷいと横を向いてしまうようなペアもあったかもしれません。

 

普通なら、それでも何とかやって行けたと思いますが、なにせ、パンもないし、パンを買うお金もありません。ずっと仲たがいしたままなら、ふたりとも自滅してしまいます。食べ物や持ち物が十二分にあれば、 争ってもいられますが、食べるものすらなくて困ったら、そんなことして居られません。どうしても助け合わなければなりません。

 

イエス様は、彼らを送り出すに当たって、 持ち物を持たせなかった理由がここにあります。困難の中に置かれる時こそ、真の協力者になるチャンスです。イエス様は彼らの持ち物を取り上げて、協力することを学ばせようとなさったのだと思います。 福音を伝える者となるための第一の訓練は、「互いに愛すること」そして、「互いに協力すること」でした。これを抜きには、どのように福音を語っても、よい行いをしても、福音は伝わらない、ということを教えられます。

 

2、へりくだることを学ぶ

10節  また、彼らに言われた。「どこででも一軒の家に入ったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまっていなさい。

 

第二に学ぶべきことは「へりくだること」です。主は「パンも、袋も、また帯 の中に金も持たず」に行くことを求められました。それでは、どうやって生きて いったらよいのでしょう。主はこう言われたのです。10節「どこででも一軒の家に入ったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまっていなさい。」

 

当時のユダヤ人社会においては、旅人を泊めたり、もてなしたりすることは、よくあることでした。現代のように、駅前にホテルが建っている訳でもありませんから、旅人が、尋ねて来たとき、彼らを温かく迎えることは、必要なことでもありました。ローマ書12:13に「聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。」とあります。要するに、イエスさまは、「旅先で誰かの世話になれ」と仰ったのです。

 

「田舎に泊まろう」という番組を見たことがあります。有名人が、突然その地域を訪ねて行って、「今晩泊めてください。」とお願いするのですが、そう簡単には行きません。何度も断られて、途方に暮れ、日が暮れて行くこともあるようです。有名人ですらそうなのですから、無名の弟子たちが行っても、すぐには、受け入れてもらえなかったかもしれません。

 

お世話になるためには、身を低くして、お願いする必要がありました。福音を宣べ伝える前に、まず、へりくだる必要がありました。イエスさまは、弟子たちが、そのような弱い者として村に入っていくようにされたのです。

 

先週は、アメリカからのお客さんが、教会に泊って行かれました。学生ですから、数週間もホテルに泊まるお金等ありません。ですから、知りあいのところに泊めてもらうしかないのです。「求めよ。さらば、与えられん。」お願いした者勝ですね。彼は、一宿一飯ならぬ五宿五飯の恩義で、ピアノの裏まで、きれいに掃除して行ってくれました。

 

イエス様は、弟子たちが「与える者」となる前に、「受ける者」となうように言われたのです。人々を助ける働きをする前に、自分が助けを必要とする弱い人々として村に入ることを求められたのです。イエスさまは、強い人間が、弱い人間を助けるかのように、弟子たちが村々に入っていくことをお許しにならなかったのです。

 

「わたしは人のお世話にはなりたくない」ということを聞きます。ある面、正しいことかもしれませんが、しかし、それがプライドから来るものならば、福音を伝える妨げとなっているかもしれません。受ける側に身を置くことを嫌い、与える側だけに身を置こうとするのところに、落とし穴があります。イエスさまは、確かに「受けるより、与える方が幸いである。」と仰いました。しかし、与える人になる前に、喜んで受けることができる人になりなさいと仰たのです。同じ地平に立って、 他者と大切なものを分かち合う人になることを弟子たちは、学ばなければなりませんでした。

 

3、 主にのみ信頼すること学ぶ

8、9節  また、彼らにこう命じられた。「旅のためには、杖一本のほかは、何も持って行ってはいけません。パンも、袋も、胴巻に金も持って行ってはいけません。くつは、はきなさい。しかし二枚の下着を着てはいけません。」

 

第三に学ぶべきこと、それは「神への信仰」です。彼らは、パンも、袋も、胴巻きに金も持って行きませんでした。袋とは、マタイの福音書10章には、「旅行用の袋」とあります。現代で云えば、旅行鞄です。大事なお金は、肌身離さず胴巻きに入れて持ち運んだようですが、それも、持って行ってはいけないと言われました。つまり、人間的に頼りになるものは、ほとんど何も持たない状態です。ただ一つ許されたのは、杖1本でした。

 

この記事は、マタイの福音書10章と、ルカの福音書10章にも、平行記事が出て来ます。マタイと、ルカは、「杖も持って行ってはならない」と書いているのですが、マルコは、杖1本は持って行って良いと書いています。あとで、ご自分で調べてみてください。マルコが聞き間違えたのでしょうか。私も、どうしてなんだろと考えましたが、おそらく、マルコは、この「杖1本」に、歩くための助けとなる「杖」以上の意味を含ませたのではないかと思うのです。

 

聖書の中で、杖は、信仰と深い関わりがあります。いろいろな場面で登場しますが、ヤコブは、杖1本持って、故郷を出て行き、神さまの祝福に与りました。モーセは、その手に、神の杖をもって、数々のしるしを行い、イスラエルの民をエジプトから脱出させました。ダビデは、羊飼いの杖をもって、ゴリアテに立ち向かい、勝利を得ました。つまり、彼らにとって、杖は、単なる旅をする時の道具ではなく、神の業があらわされる「信仰の杖」であったのです。イエスさまは、この「杖一本のほかは、何も持って行」くなと、仰ったのです。そして、弟子たちは、イエスさまが仰る通り「信仰の杖1本」を持って、出て行きました。

 

これは、神さまだけを頼り頼む訓練でした。人間的により頼むものが、いつも近くにあるとき、あまり真剣に、神により頼むことはしないでしょう。そんなことをしなくても、十分、自分の力でやって行けるからです。しかし、人的な頼みの綱が断ち切られたとき、ただ、神にのみ、頼るしかありません。弟子たちは、神にのみ信頼することを学ぶ必要がありました。

 

弟子たちは、神さまが、この旅の責任を持ってくださることを、学ばなければならなかったのだと思います。弟子たちは、明日どこに泊まろうか、明日何を着ようか、明日何を食べようか、いろいろ心配したと思います。しかし、心配する必要はありませんでした。すべての必要は、備えられていたのです。

 

このことは、私たちを励まし、勇気づけるものです。たとえ、私たちが、何も持っていなかったとしても、本当に小さく、乏しく、力などない器だとしても、ただ、主に対する本物の信仰があるなら、神の業があらわされるということです。主イエスさまが、この旅の全責任を持ってくださる、その信仰こそ、福音を伝える鍵ではないでしょうか。

 

私達は、図らずも、失敗したり、失ったりする経験をします。人は、順調にばかり行くと、知らず知らずのうちに高ぶってしまいます。何か自分に力があるかのように錯覚してしまいます。ですから、時には、失敗も良いものです。失敗を通して、自分の欠しさを自覚することが出来ます。それと同時に、主イエスさまは、私たちの失敗さえも益と変えてくださるお方であり、イエスさまこそ、この旅全体の責任者であること知ることができるのです。

 

ですから、私たちも、この旅を歩む勇気を得ます。たとえ、自分の弱さ、自分の無力さ、自分の貧しさに恐れおののくことがあっても、主が、1週間の旅路の責任を持ってくださるのですから、平安のうちに、主を信頼して歩み出します。そして、後から振り返って、「なんだ。心配することはなかった。主が、ちゃんと必要を備えてくださったではないか。」と感謝することになのです。

 

4、救いを伝える者となろう

私達も、イエスさまの救いを伝えるために、家庭に、学校に、職場に遣わされて行きます。永遠のいのちに与って頂きたいと願います。これは、先に救われた者に与えらた愛の重荷です。救いを伝えるために、今日、学んだ3つのことに、本気で取り組ませて頂きたいと思います。「互いに愛し合うこと」「神と人の前にへりくだること」「主にのみ信頼すること」このそうすれば、必ず、状況は変わって来ると信じます。私たちの希望は、主にあります。

 

6:8 また、彼らにこう命じられた。「旅のためには、杖一本のほかは、何も持って行ってはいけません。パンも、袋も、胴巻に金も持って行ってはいけません。

M140720 信仰の杖1本持って マルコ6:7~13  学びシート