いつまでも残るものは信仰と希望と愛です―キリストを信じるという生き方ー

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今週15日(金)は、69回目の日本の終戦戦記念日です。2度と、悲惨な戦争を繰り返してはならないと、不戦の誓いを新たにするときです。ヤコブ書には、人のうちにある戦う欲望が争いの原因だと指摘していますが、今日はイサクの記事から「譲る者に与えられる神の祝福」という題で、学ばせて頂きたいと思います。

 

1、彼は笑う

12、13節  イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。【主】が彼を祝福してくださったのである。 こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。

 

イサク、その意味は、「彼は笑う」です。自分の子に「笑」と名前をつけた父アブラハムの心境は、どのようなものだったのでしょうか。創世記17章に、彼の誕生にまつわる出来事が記されています。神が、アブラハムが百歳のときに、後を継ぐ男の子が生まれると約束されました。アブラハムは、こんな年寄りに子どもが生まれるなんて、そんなことある訳がないと思って、笑いました。奥さんのサラも自分の現実を見て、「絶対にあり得ない。」と心の中で笑いました。神様は、彼らが神の約束を笑ったことをしっかりご覧になって、「なぜ、笑うのか」と指摘されました。彼らは、あわてて「いえ、笑っていません。」と否定するのですが、その子が本当に生まれたとき、その子は、イサク「彼は笑う」と名づけられました。

 

この「笑い」には、いくつもの意味が含まれているように思います。最初の「笑い」は、神の約束に対する「そんなこと、あり得ない。不可能だ」という不信仰の笑いでした。しかし、やがてその「笑い」は、「神の約束は本当だった。」という、驚きの笑い、喜びの笑いに変わりました。詩篇 126:2に「そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。そのとき、国々の間で、人々は言った。「【主】は彼らのために大いなることをなされた。」とあります。

 

神のことばを軽んじる、不信仰な「笑い」から、神がなしてくださった偉大な御業に対する歓喜の「笑い」へと変えられました。おろらく、アブラハムは、最初神の約束を笑った自分の不信仰と、神の約束は本当だったという喜びの笑いの両方を忘れないために、生まれて来た子に、イサク「彼は笑う」と名付けたのだと思います。

 

ルカ 6:21に「いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。」とありますが、このみ言葉は、イサクの人生にぴったり当てはまるように思います。最初は、ペリシテの人たちに受け入れてもらえず、意地悪をされ、その地から追い出され、父アブラハムが掘った井戸も塞がれてしまいました。意地悪をされて、悲しくならない人はいません。

 

聖書は、イサクが、父アブラハムが苦労して掘った井戸や、自分たちが掘った井戸を、あっさりと手放しているように描いていますが、私は、イサクが悲しみ、人知れず涙したこともあったのではないかと思います。しかし、イサクは、そのような意地悪にめげることなく神を信じ、神さまに従って行きました。そして、最後に勝利を得ました。イサクは、最後に笑う者となったのです。

 

2、争いと敵意

14~17節  彼が羊の群れや、牛の群れ、それに多くのしもべたちを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。それでペリシテ人は、イサクの父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たしてこれをふさいだ。そうしてアビメレクはイサクに言った。「あなたは、われわれよりはるかに強くなったから、われわれのところから出て行ってくれ。」イサクはそこを去って、ゲラルの谷間に天幕を張り、そこに住んだ。

 

「パレスチナ」とは「ペリシテ人の土地」と言う意味ですが、今も戦争が起っているガザのあたりから地中海沿岸一帯を指しています。ペリシテ人たちは、イサクの一族が、神さまの祝福を受けて、多くの羊の群れや、牛の群れ、多くのしもべたちを持つようになったので、ねたみを起こし、井戸を塞いで、ここから出て行ってくれと命じたのでした。

 

イサクは、ペリシテ人と争いませんでした。今のイスラエルも自分たちの祖先イサクを見習ってくれると良いのですが・・・。彼は、「いやだ。ここは、父アブラハムのしもべたちが、苦労して掘った井戸がある場所だから、私たちも住む権利がある。」とは言いませんでした。イサクは、争いを避けて、そこを立ち去りました。

 

この争いは、井戸を巡る争いでもありました。イスラエルの南の地方は、砂漠地帯です。川は、ワディと言って、雨季だけ流れる川です。乾季には、干上がってしまいます。ですから、地下水を汲みだす井戸がなくては、生きて行けません。井戸の水は、まさに、いのちの水でした。

 

しかも、この井戸を巡る争いは、1度ならぬ、何度も繰り返されました。

19‐21節  イサクのしもべたちが谷間を掘っているとき、そこに湧き水の出る井戸を見つけた。ところが、ゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ」と言って、イサクの羊飼いたちと争った。それで、イサクはその井戸の名をエセクと呼んだ。それは彼らがイサクと争ったからである。しもべたちは、もう一つの井戸を掘った。ところが、それについても彼らが争ったので、その名をシテナと呼んだ。

 

イサクは、争うことをしませんでした。イサクはその井戸を「エセク」と呼びました。「エセク」とは、「争い」と言う意味です。ある注解書にこう書いてありました。「彼自身、ある程度、客観的に争いを見る余裕があったと思われる。この名は、イサクの不快な気持ちを表しているというより、軽いユーモアを含んだ寛容な気持ちと考えてよいのではないか。神の手にゆだねる信仰は、平和を守ろうとする態度と、自分の立場を客観視する特徴がある。直接の犠牲や、損害にこだわらない。」

 

確かにイサクの態度には、余裕が感じられます。それは、神を信じる者が持つ特徴なのですね。イサクのしもべたちは、別の井戸を掘りました。そして、水が出たのですが、その井戸に関しても争いが起りました。すると、イサクはその井戸を「シテナ」と呼びました。「もう争いはよしてな」と思ったことでしょうが、彼らは、絶対に譲ろうとはしませんでした。あくまでも、「これは、自分たちのものだ。」と主張したのです。

 

「シテナ」とは、「敵意」と言う意味です。彼らは、その井戸がなければ困るからではなく、「お前たちなんかに渡すものか」という「敵意」によって争ったのです。「シテナ」というヘブル語は、「サタン」というヘブル語と同じ語根をもっています。サタンは、敵意のかたまりのような存在です。「敵意」は、人が罪に堕ちたときに、心の奥底に植え付けらました。ちょっと利害がかみ合わないと、争いが起り、やがて敵意がむき出しになります。敵意がむき出しになると、なかなか止めらなくなります。もし、イサクがここで譲らなければ、多くの血が流されていたことでしょう。もしかしたら、共に自滅したかもしれません。「敵意」とは、冷酷で、恐ろしいものです。

 

イエス・キリストは、この「敵意」を廃棄するために来てくださいました。人間の中にある、冷酷な「敵意」を、イエスさまは、すべて、ご自分の身に受けられたのです。それが、イエス・キリストの十字架です。イエスさまは、罵られても罵り返しませんでした。天の軍勢を呼んで、相手を滅ぼすことなどいとも簡単に出来ましたが、そうはなさらず反対に「敵意」という罪の刃を、すべてご自分の身に引き受けられたのです。ですから、私たちは、イエスさまの十字架を見るとき、自分のうちにあるすべての「敵意」が、イエス・キリストを十字架に付けたのだということを悟る必要があります。

 

エペソ 2章にこうあります。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。・・・また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」(14-16節)

 

3、レホボテとは

22節  イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、【主】は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」

 

イサクは、ついに、争いのない井戸を得ることができました。そして、その井戸の名前を「レホボテ」と付けました。レホボテとは、「広々としたところ」と言う意味です。イサクは、ついに、神が与えてくださった嗣業の地を得ることができたのです。そして「今や、【主】は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」と神に感謝を捧げました。

 

私たちにとっての「レホボテ」とは、どこでしょうか。いろいろな考え方、捉え方があると思いますが、私は、最終的に、私たちのために用意されている「天の御国」と言うことが出来るのではないかと思います。天の御国には、「エクセ」争いはありません。もちろん、「シテナ」敵意もありません。天の御国は、私たちにとって、永遠に愛する主と、愛する兄弟姉妹と共に過ごす「広々としたところ」です。「レホボテ」とは、神が私たちのために備えておられる、天の御国を暗示しているのではないか、そう思うのです。

 

私達は、この世では、旅人であり、寄留者です。私たちの嗣業、相続地、そして国籍は、天にあります。この世の生がすべてだと思うなら、自分のものに固執せざるを得なくなります。しかし、私たちの故郷は、天の御国であり、天の御国に入るときには、余計なものは何も持って行けないということを悟るなら、人と争ってまで、自分の取り分に固執する必要はないと思うのです。

 

私達は、既に、イエス・キリストにある永遠のいのちを相続する者とされました。神様が、ちゃんと、私たちの永遠の住まいを確保していてくださいます。そのことが、本当に分かるなら、「争い」や「敵意」はさっさと放棄して、主にすべてをお委ねし、「広々とした心」にしていただけるのではないでしょうか。

 

戦争は、とどのつまりは、資源を巡る「争い」そして、「敵意」というものによって引き起こされると言えます。自分の権利に固執し過ぎることが、結局は、幸せを失う結果になるということを、私達は、しっかりと胸に刻む必要があると思います。これは、永遠のいのちを持たない人たちにとっては、たわごとのように思えるかもしれませんが、私達クリスチャンは、既に、永遠のいのちに与っているのですから、譲るゆとりを持たせて頂きたいものであります。

 

4、譲る者に与えられる祝福

26‐27節  そのころ、アビメレクは友人のアフザテとその将軍ピコルと、ゲラルからイサクのところにやって来た。 イサクは彼らに言った。「なぜ、あなたがたは私のところに来たのですか。あなたがたは私を憎んで、あなたがたのところから私を追い出したのに。」

それで彼らは言った。「私たちは、【主】があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。それで私たちは申し出をします。どうか、私たちの間で、すなわち、私たちとあなたとの間で誓いを立ててください。あなたと契約を結びたいのです。

 

今の世の中、譲ることは敗北で益を失うことであるかのように強く言う人たちがいます。しかし、イサクは、大胆に譲りました。そして、神の祝福を得ました。「これは、自分のものだ。誰が手放すものか。」と言って、戦うのではなく、神さまが最も良きものを与えてくださると信じて、相手に譲ったのです。そして、事実、イサクは「広々としたところ」を得ました。これが、イサクが神から受けた祝福です。

 

すると、面白いことが起りました。始めから終りまで、その様子を見ていた、ペリシテの人たちは、イサクの所にやって来て、こう言ったのです。「私たちは、【主】があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。それで私たちは申し出をします。どうか、私たちの間で、すなわち、私たちとあなたとの間で誓いを立ててください。あなたと契約を結びたいのです。」イサクは、「何を今更」と少し思ったようですが、彼らの申し出を受け入れました。

 

イサクに敵対し、イサクを追出した彼らの目にも、はっきりと、神がイサクを祝福しておられることが分かりました。そして、神なる主がいっしょにおられる以上、自分たちも彼らと平和を保った方が得策だと悟ったのです。それで、彼らの方から、和平条約を結んでくれるように、申し出て来ました。これぞ、神による勝利だと思います。自分で争ってでも益を得ようとすれば、損をし、賢明に争いを避けて、自分の権利であっても相手に譲ってあげるとき、幾倍もの祝福を神から受けたのです。

 

私達も、このイサクの態度に倣いたいと思います。「戦って、自分の権利を守るべきだ。」と考える方もおられるでしょうし、「譲ったら損をするんじゃないか。」と心配する方もおられるかもしれません。しかし、イサクの記事は、私たちに「譲る者に与えられる神の祝福」を示しています。

 

31‐33節  翌朝早く、彼らは互いに契約を結んだ。イサクは彼らを送り出し、彼らは平和のうちに彼のところから去って行った。 ちょうどその日、イサクのしもべたちが帰って来て、彼らが掘り当てた井戸のことについて彼に告げて言った。「私どもは水を見つけました。」そこで彼は、その井戸をシブアと呼んだ。それゆえ、その町の名は、今日に至るまで、ベエル・シェバという。

 

最後に、もうひとつの井戸が見つかりました。その井戸は「シブア」と名付けられました。「シブア」とは「誓い」と言う意味です。「私はこの契約を守ります。」という誓いです。その契約とは、29節にありますように、お互い仲良くしますという平和の契約です。最初、争いをしかけて来たペリシテの人たちが、イサクが自分の権利を譲る姿を見て、自分たちもイサクに倣うものとなったのです。そうやって、この地に平和が訪れました。これもまた、「譲る者に与えられる神の祝福」であると思います。

 

新約聖書ローマ書12章21節にこうあります。

「 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」

「譲る者に与えられる神の祝福」 創世記26:12‐22 学びシート