いつまでも残るものは信仰と希望と愛です―キリストを信じるという生き方ー

OLYMPUS DIGITAL CAMERA1、マルタとマリヤ

38節  さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。

 

「イエスがある村に入られると」とありますが、「ある村」とは、エルサレムの南にあるベタニヤ村ですね。ベタニヤ村のマルタとマリヤ、そして兄弟ラザロの家は、しばしば、イエスさまと弟子たちの滞在場所となりました。この時も、旅の途中、イエスさま一行が来られるというので、姉のマルタは、喜んで家に迎えました。そして、張り切って、接待をしました。マルタという名前は、<女主人>という意味がありますが、実際マルタは、その家の主人、女あるじとして接待の一切を取り仕切ったのでした。

 

一方、妹のマリヤはと言いますと、39節にありますように「主の足もとにすわって、みことばに聞き入って」いました。姉のマルタが、忙しく働いているのに、手伝わないでイエスさまの足元に座って、み言葉に聞き入っていたのです。その妹の姿を見て、姉のマルタは、だんだん、いらいらして来ました。そして、ついに、マルタの堪忍袋の緒が切れます。イエスさまに向かって、「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」と訴えました。マリヤに対する怒りもさることながら、そのことを許しているイエスさまに怒りの矛先が向けられています。

 

皆さんは、この記事を読んで、どう思われるでしょうか。マルタの言うことが正しい。マリヤとイエスさまは、間違っているとまでは言わなくても、マルタの言うことも最もだと思う方も少なくないと思います。確かに、マルタのような人がいなければ、イエスさまを含め13名以上の人たちをもてなすことなど、不可能でしょう。皆がマリヤのように、主の足元に座って、み言葉に聞き入っていたら、誰も食事をとることさえ出来なかったと思います。

 

しかし、このマルタとマリヤの記事は、その前後の流れの中で、読み解く必要があります。この記事の直前には、有名な「良きサマリヤ人」の話があります。そこでは、イエスさまは、強盗に襲われて道端に倒れていた人を、身銭を切って介抱してあげたサマリヤ人のたとえを引いて「あなたも行って同じようにしなさい。」と仰せになりました。困っている人の脇を、見て見にふりをして素通りして行った祭司や、律法学者を暗に非難しています。また、このマルタとマリヤの記事の後にも、イエスさまと弟子たちが、村々を回って、福音を宣べ伝え、良きわざを行っている記事が続きます。

 

ですから、このところで、イエスさまが仰りたかったことは、決して「もてなす」ことや、良き業を行うことの否定ではないということです。むしろ、イエスさまは、愛の労苦を勧めています。その間に、礼拝と行いのバランスを取るかのように、このマルタとマリヤの記事が挿入されているのです。それは、「もてなす」ことや、良き業を行う前に、なすべき大事なことがあるということです。それは、主の足もとにすわって、み言葉に聞き入るということです。

 

私が、神学生のとき、毎年春に年会が、聖宣神学院で行われていました。当時は、全国から200名近い牧師たちが、神学院に集まり、4日間集会を行いました。神学生たちは、自分たちのベットをお客さんに使ってもらうために、自習室に寝泊りをして、来られた方々の宿泊の準備や、会場のセッティング、駅までの送り迎え、掃除清掃、とにかく忙しく働き続けました。1年で最も忙しい時期でした。

 

でも、夜の聖会だけは、特別な係りを除いて、出席することができました。み言葉に聞き入る恵みに与りました。世界の名説教者が語るメッセージで、心を燃やされました。あまりの心地よさに、疲れがどっと出て、夢の世界に入ってしまったこともありましたが、もし、聖会にも出られず、奉仕ばっかりだったら、きっと身も心も疲れ切ってしまったと思います。

 

イエスさまは、ここで、もてなすことが悪いとか、しなくても良いとか言っているのではありません。安息日が、労働の否定でないのと同じように、もてなすこと、お世話をすることは、大事な働きであり、それがないと世の中が回って行きません。しかし、イエスさまは、それに先立って、もっと大事なことがあるということを教えられたのですね。今朝は、「どうしても必要なこと」と題してメッセージを取り次がせて頂きたいと思います。

 

2、心がそれて行く

40節「ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。」

 

マルタは、機転が利き、とてもよく気が付く人でした。また、思いやり深い人であったと思います。もともと、もてなすことが大好きだったのでしょう。それは、素晴らしいことで、それまでも、多くの人がマルタのおかげで助かって来たと思います。イエスさまだって、マルタの良さを良く知っており、とても感謝していたと思います。

 

しかし、どんな人にも短所があります。マルタの場合、その短所は、彼女の長所をすっぽりと覆い隠してしまうほど、致命的なものでした。たった一つの短所が、その他の素晴らしい長所を、全てだめにしてしまうなんて、悲しいことです。それは、マルタにとっても、大変損なことで、イエスさまは、マルタを愛するが故に、何としても解決してもらいたいと思ったに違いありません。

 

この「気が落ち着かず」と言う言葉は、ギリシャ語でペリスパオーと言う言葉ですが、「心が逸れて行く」という意味です。だんだんと、心の焦点が、本来あるべきところから、ずれて来る、そういう状態を表しています。最初は、イエスさま一行を、喜んで家に迎えました。しかし、実際の仕事に携わってゆくうちに、仕事自体が目的となり、本来の主にお仕えするという目的からずれて来てしまいました。

 

実際、その仕事は大変だったと思います。少なくとも13名分の食事の支度や、テーブルのセッティング、食材の買い出し、掃除、やるべきことはたくさんありました。最初は、喜びに満ちていた心が、次第に、身も心もくたびれて来て、それと同時に、心に不平と不満が湧いて来ました。

 

その上、妹は何の手伝いもせず、イエスさまの足元に座って、み言葉に聞き入っている。その姿を見て、ついにイエスさまに向かって不満をぶちまけてしまいました。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」

 

おそらく、マルタが最も気に入らなかったのは、こんなに一生懸命やっているのに、イエスさまは、それを認めてくれず、何だか無視されているように感じたことではなかったでしょうか。「私は、こんなに一生けん命やっているのに、マリヤばかりいい思いをして。」そう思ったのではないでしょうか。

 

文字にすると、そうでもないように感じますが、その家の主であるマルタが、お客さんのイエスさまに対して、かなりきつい事を言った訳ですから、きっと、その場にいた人たちも、凍り付いてしまったのではないかと思います。せっかくの歓迎の場所が、いやな雰囲気になってしまいました。

 

そして、たぶん一番責任を感じたのは、マリヤではなかったと思います。文字としては書いてはありませんが、「こんなことになってしまったのは、私のせいだ。」と、自分を責め、落ち込んでしまったかもしれません。それで、イエスさまは、マリヤをフォローする必要もあったのだと思います。

 

3、イエスこそ、わが主

41、42節  主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

 

「マルタ、マルタ」と、彼女の名前を2繰り返していますね。イエスさまは、興奮しているマルタを落ち着かせようとして2回、名前を呼ばれたのでしょうか。イエスさまは、よくよく大事なことを伝えたいとき、2回繰り返して名前を呼ばれます。イエスさまは、彼女を責めているのではありません。そうではなく、彼女を心から愛しているのです。ですから、怒らないで、私の言うことを分かって欲しいと、その願いを込めて、「マルタ、マルタ」と2回名前を呼ばれたのです。

 

「あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。」口語訳では「あなたは、多くのことに心を配って思いわずらっている。」と訳しています。いろいろな気配り、心配りが、思い煩いに変わってしまいました。事を上手に行うには、細かなところにまで気を配る必要があります。段取りも細かく整えて、連絡も密にして、そうしないと物事は成功しません。しかし、それらが、思い煩いに変わってしまうことがあるのですね。

 

先に、マルタという名前は、オリジナルのアラム語では「女あるじ」とか「女性支配者」と言う意味があると申しました。確かに、彼女は、その家の家事一切と取り仕切るあるじでした。しかし、彼女の人生の主は、彼女自身ではありません。彼女の人生のほんとうのあるじは、目の前におられる主イエス・キリストさまでした。マルタは、そのことを忘れてしまい、自分こそ、この場のすべてを取り仕切るあるじであるかのように思い込み、そう振る舞ってしまったのです。そこに、マルタが陥った過ちがありました。

 

人は、何時の間にか、全部を自分の思い通りにコントロールしたいという、高慢な思いにとらわれてしまう弱さを持っています。これが、罪の本質です。サタンは、最初は主に忠実に仕える御使いの長でしたが、次第に自分の思い通りにしたいと思い、神より自分を高い位置に置こうとしました。その高ぶりの故に、天の場所から落とされてしまいました。

 

私達も、一生懸命仕事をしているうちに、いつのまにか、イエスさまのことなど、そっちのけで、自分で全部を取り仕切りたいという思いになってしまうことがあると思います。一生けん命やっているのに、喜びや感謝が薄れ、「何だか、恵まれないなあ。」と感じるようになります。そういう時は、ほとんどの場合、イエスさまそっちのけで、高ぶっているのです。そのような状態に陥っていたマルタに対して、イエスさまは、「マルタ、マルタ。」とやさしく呼びかけ、「あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。」と注意してくださったのですね。

 

4、なくてはならぬ一つのこと

42節  しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

 

ギリシャ語では、シンプルに「しかし、ひとつです。必要なことは。」となっています。ひとつが強調されています。この一つとは「主の足もとにすわって、みことばに聞き入ること」です。マリヤは、そちらを選びました。

 

私が思いますに、接待の仕事は、後からでも出来たのではないでしょうか。イエスさまが一番望んでおられたことは、皆で一緒においしい食事を食べ、楽しくおしゃべりし、わいわいと楽しむことではなかったと思います。もちろん、それも大事なことですし、必要なことです。しかし、イエスさまが彼女たちの家を訪ねて来る機会は、そう多くは残されていませんでした。マリヤのように、主の足もとにすわって、みことばに聞き入ること、それがイエスさまが一番願っておられたことだと思います。

 

そして、主のお言葉をしっかりと受け取り、また、聖霊の力に満たされてから、接待の仕事を、マルタとマリヤも一緒に力を合わせて、すればよかったのだと思います。マルタは、ちょっと張り切り過ぎたのでしょうか、イエスさまが来てくださった嬉しさの故でしょうか、その一番大事なことをスキップしてしまって、いきなり、おもてなしの仕事に取り掛かってしまったところに問題があったように思います。その結果、心の中心がずれて行き、思い煩いに支配されてしまいました。

 

どうしても必要なひとつのこととは、「主の足もとにすわって、みことばに聞き入る」ことです。これは、礼拝に他なりません。私たちは、毎週、まず主に礼拝を捧げて1週間の営みをスタート致します。いくら忙しくても、まず、主の足もとにすわり、みことばに聞き入ることを抜きにして、自分の仕事に取り掛かることは、良いことではありません。どうしても、教会に来れない時は、その場所で、短くても主に礼拝を捧げて、1週間を始めます。それが、どうしても必要なことです。

 

罪とは、ギリシャ語でハマルティアと言いますが、「的外れ」と言う意味です。私たちの人生の目的は、主なる神さまを礼拝し、主にお仕えすることです。この中心がずれて来ますと、様々なところに支障が出て来ます。何よりも、心から主の平安が失われて行きます。そして、心配、思い煩い、怒り、そういった思いに囚われて行きます。私たちの救い主であるイエスさまを礼拝せずに、自分の肉の思いで突っ走るのは、的外れの人生です。決して良い結果を生み出しません。

 

プロテスタント教会の信仰を教えるウエストミスター小教理問答というのがありますが、その中の「人生の目的」という項目で、こういう問と答があります。

問 人間のおもな、最高の目的は、何であるか。

答 人間のおもな、最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を全く喜ぶことである。

人生の最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。何をするに勝って、神を礼拝すること、神を喜ぶことが、私達にとってなくてはならぬことです。

 

5、静まること

主の御言葉に「聞き入る」ためには、静かな心が必要です。世の中には、たくさんの言葉、情報で満ちています。しかし、主の御声は、何かセンセーショナルな出来事の中にあるのではなく、静かな細き御声です。その主のお言葉に聞き入るためには、私達も、静かな心を持つ必要があります。

 

マザー・テレサは、現代の私達には、沈黙し、黙想する時間が必要だと言っています。

「私はいつも沈黙のなかで祈りをはじめます。神は静寂の友です。私たちは神の声に耳をかたむける必要があります。祈りは魂を満たしてくれます。そして、人間は、祈ることで神に近づくことができるのです。祈ることで、あなたは清らかで純粋な心を与えられるのです。」

 

そして、マザー・テレサは、心の静けさを得るために、次のような5つの沈黙を勧めています。目の沈黙、耳の沈黙、舌の沈黙、精神の沈黙、心の沈黙の5つです。

①目の沈黙・・・他人の過ちや、罪深いすべてのものに目を閉じ、神の美徳をさがす。

②耳の沈黙・・・ゴシップや告げ口、無慈悲な言葉等の声に耳をふさぎ、神の声や貧しい人の叫びに耳を傾ける。

③舌の沈黙・・・暗さや動揺、苦しみを引き起こすすべての言葉をつつしみ、私たちを啓発し、鼓舞し、平安や希望や喜びをもたらす神の真理の言葉、イエスの言葉を口にする。

④精神の沈黙・・・うそや混乱、破壊的な考え、軽率な評価、他人への誤った疑い、復讐心、さまざまな欲望などに精神を閉ざし、祈りと黙想において神の真理と知識に精神を開く。

⑤心の沈黙・・・すべての自分本位の考え、憎しみ、うらみ、ねたみ、欲ばりを避け、私たちの心、魂、精神、力において神を愛し、神が愛するように人を愛する。

 

沈黙の中で、私たちは、神さまの語り掛けを聞くことが出来ます。私達は、いつも騒がしさの中に置かれています。そして、見なくても良いものを見たり、聞かなくても良いものを聞いたりして、心を騒がせてしまうのではないでしょうか。心の静けさを求めたいと思います。より良く生きるために、主の前に静まることが必要です。それから、活動に入って行きます。マリヤは、そのよい方を選びました。私達も、良い方を選ばせて頂きましょう。

 

この「良いほう」とは、「主の足もとにすわり、静かな心で、主の御言葉に聞き入ること」です。主イエスさまとの交わりの中で、私たちの魂は、恵みを回復して行きます。暑い日が続きます。心も肉体も疲れやすい時です。こういう時こそ、まず、主の御前に静まることが必要です。すべての思い煩いを脇に置いて、み言葉と祈りを通して、主イエスさまを礼拝し、聖霊による、まことのいのちの供給を受け、心を平安で満たしていただきましょう。そして、身も心も、強められて、今週の活動に進ませて頂きましょう。

 

日曜日だけでなく、毎日、静まって個人の礼拝を捧げ、その日を始めましょう。ディボーションと言いますが、ディボ―ションの習慣が崩れている方は、再度、壇を築き直しましょう。私達は、この礼拝から、恵みと力を受け、主にお仕えするために、それぞれの場所に遣わされて参ります。主の祝福をお祈り致します。

 

39節 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。42節  しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

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M140824「どうしても必要なこと」 ルカ10:38-42  学びシート