2020年受難週の栞

◇2020年の「受難週の歩み」を作製しました。今年は、特に、敬虔な思いをもって受難週を過ごさせて頂きたいと思います。朝の祈りの時間にでも、ご活用頂ければ幸いです。

PDF版はこちらです。2020年 受難週 ディボーション

 

 

4月5日(日)棕櫚の日曜日(パームサンデー)【エルサレム入城】

マタイ21:5~9 「娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」そこで弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。そこでイエスはその上に座られた。すると非常に多くの群衆が、自分たちの上着を道に敷いた。また、木の枝を切って道に敷く者たちもいた。群衆は、イエスの前を行く者たちも後に続く者たちも、こう言って叫んだ。「ホサナ、ダビデの子に。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。ホサナ、いと高き所に。」

黙想と祈り『柔和と謙遜を身にまとった王として』

イエス様は、旧約聖書のゼカリヤ書9章9節に預言されていた通り、ロバの背に乗ってエルサレムに入って来られました。ローマの総督は、自分の力と権威を誇るため軍馬にまたがり、大勢の兵士を引き連れてエルサレムに入って来ました。それは人々を脅し、力で支配するためでした。それに対して、イエス様はロバの背に乗り、しかも荷物を運ぶロバの子の背に乗って、来られたのです。ヘンデルが「主の主、諸王の王」と賛美したイエスキリストは、柔和と謙遜を身にまとった王としてこの世界に来られました。力づくで支配する神ではなく、愛と義を土台とした信頼関係によって治める王として来られたのです。「ホサナ」とは、「どうか、救って下さい。」という意味です。柔和と謙遜の王イエス・キリストを「私の主」「私の王」として、心にお迎えしましょう。ホサナ!どうか、主よ。私を救って下さい。

 

4月6日(月)【宮きよめ】

マルコ11:15~17 こうして彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。また、だれにも、宮を通って物を運ぶことをお許しにならなかった。 そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。

黙想と祈り『教会は、祈りの家と呼ばれる』

柔和なイエス様が、めずらしく怒りをあらわにされました。本来、神への祈りを捧げる場所である神殿が、祈りの場ではなく、商売の場所とされていたからです。イザヤ書 56章7節に「わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。・・・わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」とあります。教会とは、第一に「祈りの家」でなければなりません。天においても地においても、一切の権威を持っておられる神を認め、敬虔な思いをもって祈ります。祈りは、神への畏敬の念から出てきます。同時に、祈りは楽しみでもあります。私を愛しておられる方に信頼し、子が親に願うように、どんなことでも求めることが出来ます。コロナ禍中で、今、多くの人が恐れを抱いています。こういう時だからこそ、聖なる畏れと、深い憐みを受けて、主なる神に祈りましょう。主は折にかなう助けを与えて下さいます。

 

4月7日(火曜日)【神殿で教えられたイエス】

ルカ21:29~36  それからイエスは、人々にたとえを話された。「いちじくの木や、すべての木を見なさい。木の芽が出ると、それを見て、すでに夏が近いことが、おのずから分かります。同じように、これらのことが起こるのを見たら、あなたがたは神の国が近いことを知りなさい。まことに、あなたがたに言います。すべてのことが起こるまで、この時代が過ぎ去ることは決してありません。天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨むのです。しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」

黙想と祈り「神の前に立つことができるように」

ガリラヤからエルサレムにやってきた弟子たちは、神殿の壮大さに驚きました。その時、イエスは、形あるものには、必ず終わりが来ることを教えられました。そして「終わりの日のしるし」について話されました。戦争や、民族対立、大きな地震、飢饉、疫病、偽預言者の出現。迫害、恐ろしい天変地異、いわゆる「患難時代」の到来です。しかし、その時、再臨のキリストが、神の国を完成させるために、地上に来られるのです。その日、その時がいつであるかは誰も知りません。その日は、盗人のようにやって来ます。しかし、木の芽が出ると、夏が近いことが分かるように、これらのことが起こったら、主の再臨が近いことが分かるというのです。私達は皆、すべてをご存知の主の前に立ちます。私の隠れた罪も、すべて明らかにされます。キリストの十字架による赦しを得ている人は救われます。どうか、私達が、霊的に目を覚ましていることが出来ますように。祈りを絶やすことがありませんように。

 

4月8日(水曜日)【ナルドの香油】(ベタニヤ)

ヨハネ12:3~7 一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。 弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。イエスは言われた。「そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。

黙想と祈り『キリストの香りを放つ』

マリアは、イエス様の足に高価なナルドの香油を注ぎました。すると、家いっぱいに香油の良い香りが広がりました。この行為は、イスカリオテのユダが指摘しているように「無駄」であったかもしれません。売ってお金に換えれば、貧しい人たちを助けることも出来たでしょう。しかし、イエスさまはマリアの行為を喜んでくださいました。それは、マリアが、私心を捨て、純粋にイエス様を愛して行った行為だったからだと思います。マリアは自覚していなかったかもしれませんが、それは、イエス様の埋葬の用意となりました。損得勘定ではなく、純粋にイエス様を愛する心で行う行為は、一見無駄と見えたとしても、主に喜んでもらえるのです。マリアが注いだナルドの香油が、部屋一杯に広がったように、私たちも、純粋にイエスさまを愛し、良き香りを放つキリスト者でありたいと思います。『主よ。私も周りの人たちに、キリストのよき香を届けることが出来ますように、聖霊で満たして下さい。損得からでない、主を愛する愛で、満たして下さい。』

 

4月9日(木曜日)【ゲッセマネの祈り】

ルカ22:39~46 それからイエスは出て行き、いつものようにオリーブ山に行かれた。弟子たちもイエスに従った。いつもの場所に来ると、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。 そして、ご自分は弟子たちから離れて、石を投げて届くほどのところに行き、ひざまずいて祈られた。「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」〔すると、御使いが天から現れて、イエスを力づけた イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。〕 イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに行ってご覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。 そこで、彼らに言われた。「どうして眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい。」

 黙想と祈り『みこころがなりますように』

主イエスが、十字架に掛けられる前の晩、弟子たちと最後の晩餐をともにした後、オリーブ山の麓にあるゲッセマネで、主イエスは苦しみもだえながら、父なる神に祈りました。「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」この「杯」とは、多くの人の罪の身代わりとして、十字架に付けられることでした。それは、神のひとり子イエス様の上に、全人類の罪が被せられ、汚れた罪人とされ、きよい神から見捨てられるという、イエス様にとっては耐えられない苦しみでした。主は出来ることなら、この苦しみを避けて通りたいと願われたのです。しかし、イエス様は、自分の願いを主張し続けるのではなく、すべてを、父なる神の御心に委ねました。私たたちも、自分の願う通りになることではなく、神の御心がなりますようにと、祈る者でありたいと思います。すべてを、主に委ねることが出来ますように。

4月10日(金曜日)【十字架】

ルカ 23:32~38 ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行った。 「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。 民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」 兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。

黙想と祈り『父よ。彼らをお赦しください。』

イエス様が十字架上で語られた7つの言葉が、聖書に記録されています。その第一番目が「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」でした。ご自分に対して、鞭を打ち、茨の冠を被らせ、つばをはきかけ、愚弄し、手と足に釘を打ち込んだローマ兵たちのために、「彼らを赦して下さい。」と祈られたのです。彼らは、上官の命令に従っただけで、自分がしていることの意味が分かっていなかったかもしれません。そうだとしても、こんな酷いことをして、赦される筈がありません。しかし、イエス様は、彼らを赦してください。と祈られました。「彼ら」の中には、実は、「私」も含まれています。主は、私の罪を担われ、その上で、「彼を罪に定めないでください。」と祈られました。主の愛と、憐み深さに、感謝せずにはおられません。

 

4月11日(土曜日)【安息日/墓の中】

 ヨハネ19:38—42 その後で、イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取り降ろすことをピラトに願い出た。ピラトは許可を与えた。そこで彼はやって来て、イエスのからだを取り降ろした。以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た。彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料と一緒に亜麻布で巻いた。イエスが十字架につけられた場所には園があり、そこに、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の備え日であり、その墓が近かったので、彼らはそこにイエスを納めた。

黙想と祈り『十字架の前での決断』

アリマタヤのヨセフは、イエス様の弟子でしたが、ユダヤ人を恐れてそのことを隠していました。社会的な地位がありましたから、自分の評判を気にして、主イエスへの信仰を告白できずにいたのかもしれません。しかしイエス・キリストが、十字架に掛けられたことを、目の当たりにしたとき、彼は、「この方は、本当に正しい方であった。」と確信したのです。彼は、主の十字架を見て、変わりました。人々の前で堂々と、総督ピラトにイエスを葬る許可を求めたのです。イエスに反対していたユダヤ人たちから攻撃を受けることは覚悟の上であったと思います。主の十字架を前にしたとき、私達も決断を迫られます。「イエスキリストは、誰なのか」単なる偉人のひとりに過ぎないのか。それとも、私の主、救い主として信じるのか。十字架のイエスの前に跪き、聖霊の促しに従うことが出きますように。主への信仰を告白することが出来ますように。

 

4月12日(日曜日)【イースター(復活)】

ヨハネ20:19~22  その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。

黙想と祈り『平安があなたがたにあるように』

弟子たちは、日曜日の朝、部屋に閉じこもり、厳重に鍵を閉め、誰も入って来られないようにしていました。主イエスを十字架に掛けた、ユダヤ人指導者たちを、とても恐れていたのです。罪のない、全く正しい方が殺されるという「究極の悪」が、目の前で起こってしまったのですから、恐れない訳がありません。しかし、そこへ、復活のイエスさまが、入って来られ、恐れていた弟子たちの真ん中に立たれました。そして、「平安があなたがたにあるように。」と仰り、十字架の釘の跡を示されました。それを見た弟子たちは、喜びました。完全に、希望が打ち砕かれたと思って、失望落胆していたところが、復活の主が、彼らの目の前に立っておられるのですから、その喜びは、如何程であったろうかと思います。今、私達は、コロナウイルス感染拡大の恐れの中にいます。イエスの弟子たちと同じように、家に閉じ籠って、息をひそめています。しかし、その恐れの真ん中に、復活の主が来て下さいます。十字架の釘の跡を示し、「あなたの罪は、贖われた。」と仰ってくださいます。シャローム「平安があなたにあるように」と言われます。「復活の主よ。あなたを信じます。私達を恐れから救い出し、聖霊の平安で、心を満たして下さい。主の御名によって祈ります。アーメン。」

 

「十字架上の七言」

「父よ。彼らをお赦し下さい。父よ。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34) 第1の言葉は、自分を苦しめる者たちのために赦しを乞う、「とりなし」

「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43) 第2のことばは、「赦しの宣言」

「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」「そこに、あなたの母がいます。」(ヨハネ19:26,27)第3のことばは、「残される者への配慮」

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」

(マタイ27:46)。第4は、私たちの身代わりとして味わわれた「霊的な絶望」をあらわすことば

「わたしは渇く。」(ヨハネ19:28)

第5は、同じく「肉体の苦しみ」をあらわすことば。

「完了した。」(ヨハネ19:30)

第6は、「贖いを完成」の宣言

「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)

第7は、神への「全的な委託」

イエスさまは、十字架上で7つのことばを発せられた。ご自分も苦しい筈なのに、「赦しのことば」「救いのことば」「配慮のことば」「信頼のことば」が何と多いことだろう。苦しみのとき、私達の口から出ることばは如何に。