「はからずもの恵み」

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M141019  「はからずもの恵み」 ルツ記2章1~16節

 

今日は、インマヌエル綜合伝道団の創立記念礼拝です。インマヌエルとは、ヘブル語で「神、我らとともにいます」という意味です。創立者の蔦田二雄牧師が、戦時中、キリスト教の弾圧によって、2年間投獄されたのですが、その独房の中で、主イエスさまが共にいてくださるという霊的体験をされ、そこから「インマヌエル教会」が始まりました。

 

今日は、説教題を「はからずもの恵み」と付けさせて頂きました。ルツが、図らずも足を踏み入れた畑は、ナオミの無くなった夫エリメレクの親戚ボアズの畑でした。そこから、思わぬ出来事が展開して行くのですが、人にとっては「図らずも」意図しない出来事であっても、実は、神さまの深い導きの中にあるということを教えられるところです。

 

1、落ち穂拾い

1、2節  ナオミには、夫の親戚で、エリメレクの一族に属するひとりの有力者がいた。その人の名はボアズであった。 モアブの女ルツはナオミに言った。「どうぞ、畑に行かせてください。私に親切にしてくださる方のあとについて落ち穂を拾い集めたいのです。」すると、ナオミは彼女に、「娘よ。行っておいで」と言った。

 

ナオミとルツがベツレヘムに戻って来たのは、大麦の刈り入れの始まった頃でした。早速、ルツは、ナオミに「落ち穂拾いに行かせてくれ」と頼みます。イスラエルでは、やもめさんや、孤児たちが、ちゃんと生きて行けるように、「落ち穂拾い」という制度が、聖書に記されていました。

 

レビ記 23:22に、こう書いてあります。「あなたがたの土地の収穫を刈り入れるとき、あなたは刈るときに、畑の隅まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂も集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、【主】である。」

 

世界で最初の社会保障制度です。イスラエルでは、土地は神さまのものであり、そこから得られる収穫も、自分たちだけで独占してはならないと考えられていました。ですから、畑の持ち主は、畑の隅々まで刈り取ってはならないし、途中でこぼれた穂を拾い集めてもいけないと、命じられていたのです。何故なら、やもめや、孤児たち、自分たちで畑を持っていない人たちが、それを拾って、生活して行けるようにするためでした。愛と憐みに満ちた神は、そのことを制度として、旧約聖書に定められたのです。

 

ルツは、ベツレヘムに着くと、早速、ナオミに「落ち穂拾い」に行かせてくださいとお願いします。ルツは積極的に、神さまが備えて下さった「恩寵の手段」である「落ち穂拾い」を活用しました。ルツが祝福を受けた秘訣は、神の備え給う「恩寵の手段」を積極的に活用したというところにあるのではないでしょうか。これは、私たちにも当てはまることです。神様の備えておられる「恩寵の手段」を使えば良いのですね。

 

2、はからずもの恵み

3節 ルツは出かけて行って、刈る人たちのあとについて、畑で落ち穂を拾い集めたが、それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった。

 

ルツが出かけて行って、落ち穂拾いをした畑は、はからずも、エリメレクの親類であるボアズの畑でした。20節でボアズは、「買い戻しの権利のある親類」と言われていますが、このボアズとの出会いが、後の運命を決することになります。「買い戻し」については、来週お話しますが、一旦売られて他人のものとなってしまった土地や畑を、その人の名前を残すために、親類の者が買い戻すことが出来る権利です。

 

ルツは、その畑がエリメレクの親類であるボアズの畑であることも全く知りませんでした。まさにルツは、「はからずも」ボアズの畑に行ったのでした。「はからずも」というのは「思いもかけず」「全く意図したわけでもないのに」という意味です。ここに、神さまの導きの不思議さ、素晴らしさを見ることが出来ると思います。私たちの側では「はからずも」行ったことが、実は、その背後に深い神さまの導きがあったのです。

 

また、「はからずも」というのは、ルツが何か損得を計算して行ったのではなく、ただ、一生懸命、ナオミを助けたい、これからの生活を何とかしたいという一途な思いを表していると思います。ルツの働きぶりが、6節と7節に記されています。

 

「あれは、ナオミといっしょにモアブの野から帰って来たモアブの娘です。 彼女は、『どうぞ、刈る人たちのあとについて、束の間で、落ち穂を拾い集めさせてください』と言い、ここに来て、朝から今まで家で休みもせず、ずっと立ち働いています。」

 

ルツは、すぐに、刈る人たちの仲間に入り、朝からずっと休みなく働きました。ルツは、ほとんどの時間、刈る人たちの手伝いをしたのでしょう。ルツは、ただで穂ち穂をもらおうとはしませんでした。まず先に、家の手伝いをしたのです。そのような彼女の献身的な姿を見て、周りの人たちは、ルツに好感を持ちました。

 

もし、ルツが自分のために、落ち穂ばかりを集めていたら、どうでしょうか。「もう、来ないで」と、断られはしなかったと思いますが、それ以上の祝福はなかったと思います。しかし、ルツが、自分を無にして一生けん命働いている姿を見て、周りの人たちも、ルツと言う人物を認めるようになりました。

 

この「ご自分を無にして、仕える者の姿」は、イエス・キリストのお姿そのものですが、ルツの献身的な姿勢が、認めれたのですね。自分で、こうすれば良い事がありそうだとか、こうしたら楽が出来そうだとか、そういう損得計算で動くとき、上手く行かないことが多いです。しかし、主を精一杯愛し、主にお従いして行くとき、神さまが、「はからずも」の恵みを与えてくださるのだと思います。

 

3、隠れた良い行い

11節 ボアズは答えて言った。「あなたの夫がなくなってから、あなたがしゅうとめにしたこと、それにあなたの父母や生まれた国を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私はすっかり話を聞いています。

 

ルツは、ボアズのことを知りませんでしたが、ボアズは、ルツのことを聞いていました。ナオミが、ルツのことを、皆に話していたのです。夫が亡くなってからも、姑のナオミにどれほど親切にしてくれたか、ナオミから自分の民と自分の神のところへ帰りなさいと言われても、ルツは「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。」と言って、自分の家を離れて、ナオミについてにやって来たことを、ボアズは、ナオミからよく聞いていました。

 

Ⅰテモ 5:25 に「良い行いは、だれの目にも明らかですが、そうでない場合でも、いつまでも隠れたままでいることはありません。」とありますが、隠れた良い行いは、いつまでも隠れたままでいることはありません。隠れたところで見ておられる神様が、報いてくださるからです。

 

こうして、ルツは、ボアズからの好意をも受けるようになります。ボアズは、働き者で、愛情深いルツに好感を持ったのですね。ボアズは、若い衆に、畑の隅だけでなく、収穫して束にしてある間からも、落ち穂を拾い集めさせるように命じました。何と、わざと、束から抜き落として、拾い集めさせるように命じたのです。

 

日本のことわざに「情けは人の為ならず」とありますが、ほんの小さな親切や、愛の籠った言葉が、神さまの壮大なご計画の歯車を、回して行きます。ルツは、自分に出来ることを精一杯しただけだったと思います。しかし、神は、それを何倍もの祝福に変えてくださいました。

 

先週の木曜日、H兄の洗礼式を持ちました。前日に、お姉さんのK姉が、「明日、洗礼を受けようね。」とお話してくださっていました。もう病院からは食事が出されていないくらいの状況なのですが、洗礼式のとき、「イエスさまを信じて、罪を赦して頂きましたね。」と聞くと、はっきりと「はい。」と答えてくださいました。「イエスさまを信じて、永遠のいいのちに与りましたね。心配ないですね。」と言いますと、「はい。」と、大きな声で答えられました。

 

ちゃんと、イエスさまを信じて、救われておられると確信しました。洗礼式のあとで、H兄が「ああ、おれは、ベットに寝ていればいいんだな。」とぼそぼそと語り、K姉が「ああそうだよ。あんたの仕事は、ちゃんとベットに寝てること。私の仕事は、あんたにこうして、会いに来ること。」という会話を聞いて、麗しい兄弟愛だなあと思いました。H兄のために、東京から群馬に引っ越してきたK姉の愛と、小さな親切の積み重ねが、H兄を救いに導いたのだと思いました。

 

私たちの行いは、いつも「はからずも」の連続のような気がします。誰も、明日のことは分かりませんし、その先、どうなっているのかもわかりません。しかし、み言葉にありますように、神を愛し、神さまの導きに一歩一歩従って行くとき、私たちの側では、「はからずも」であっても、神さまの側では、神さまの壮大なご計画の歯車をちゃんと回してくださっているのですね。今は、分からなくても、天国に行ったときその全容が分かるでしょう。

 

箴言19:21に「人の心には多くの計画がある。しかし【主】のはかりごとだけが成る。」とあります。私たちは、自分で「こうしたらうまく行くだろう。」とか「ああしよう。」「こうしよう。」といろいろと、自分の頭で、自分のこと、将来のことをいろいと考えます。しかし、神の導きがなければ、「労多くて実りなし」ということになってしまいます。もし、私たちが、へりくだって、主の導きを求め、主の導きに従おうとするなら、神さまは素晴らしい恵みを用意しておられます。

 

4、いつくしみ深い神の御翼の下こそ

 

12節 【主】があなたのしたことに報いてくださるように。また、あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、【主】から、豊かな報いがあるように。」

 

これらの全ての出来事は、ルツが「その翼の下に避け所を求めて来た、イスラエルの神、主」の恵みによるものでした。主は、私たちの信仰に報いてくださる方です。「主の翼の下で、すべては益と変えら」て行くのです。

 

神さまの翼の下こそ、祝福の場所です。いつくしみ深い神の翼の下で、私たちは、憩いを得ることが出来ます。すべての悲しみ、苦しみ、辛かったこともすべて、益と変えられて行きます。神様の翼の下こそ、私たちがおるべき場所です。神は、ご自分を信頼して、その翼の下に、身を避けて来るものを、決して、見捨てたり、ないがしろにしたりされません。

 

主の翼の下以外に、私たちの身を避ける場所はありません。どんな場合でも、どんなことがあっても、神の翼の下に身を避けることが最善です。たとえ、今は、神さまのご計画が見えなくても、必ず、その全容が明らかになる時が来ます。最後まで、あきらめず、失望せず、恵みに深い神に寄り頼んで行きましょう。

 

「あなたがその翼の下に避け所を求めて来たイスラエルの神、【主】から、豊かな報いがあるように。」

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