今晩のお祈り会は、予定通り教会で行いますが、江東区に大雨、洪水注意報が出ています。無理はなさらないでください。
家で、お祈りしてくださっても構いません。
以下に、今晩のメッセージを載せておきます。
M150909 「わたしのところに持って来なさい」 マタイ14:13~21
イエスさまは、ひとり舟に乗って、寂しいところに行かれました。と、言っても、小さな帆かけ舟ですから、舟は岸から見えていたと思います。群衆は、岸辺を歩いて、先回りしてイエスさまが来られるのを待っていました。イエスさまは、船から降りると、彼らを深くあわれんで、彼らの病気をいやされました。
夕暮れが近づいてきました。そこに集まっていた人々は、女性と、子供を抜かして、成人男性だけで五千人でした。そんな寂しいところまでついて来る女性や、子供たちは、それほど多くはなかったかもしれません。しかし、ヨハネの福音書6章では、少年が、大麦のパンと、5つの魚を持って来たとありますから、総勢で5千人はゆうに超えていたことでしょう。
夕方となり、夕食の時間となりました。しかし、食べるものはありません。近くには、お店も民家もありませんでした。弟子たちは、心配してイエスさまに言います。「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。」
先回りにしてついて来た大人たちは、誰も、食事のことなど考えずに、「とにかく、イエス様のところに行こう。」そう願って、イエス様に着いて来たのでしょう。しかし、弟子たちは、違っていました。自分たちの食事のことではなく、集まった人たちの食事の心配をしました。この点は、さすが弟子たちだと思います。「おなかが空くと困るから、日が暮れる前に、食事に行くように言ってください。」とイエスさまにお願いしたのですね。
しかし、イエスのお答えは、こうでした。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」弟子たちは、「えー。そんな。」と言ったかもしれません。しかし、とにかく、どのくらい食料があるか、調べました。ヨハネの福音書 6:9にはこうあります。「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」
調べた結果、彼らが持っていたのは、少年が差し出した、一人分のお弁当、「2匹のさかなと、5つのパン」だけでした。弟子たちは、イエス様にお答えしました。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」「たった、これっぽっちです。とても、とても間に合いません。全然足りません。」いくら計算してもしなくても足りません。一人分で5千人以上の人々のおなかを満たすことは不可能でした。
同じような状況が、私たちの現実にも起こることがあるのではないでしょうか。「この状況を、何とかしなければならない。」「でも、無理だ。とても間に合わない。」現実を見れば、「不可能」としか見えないのです。私たちは、そこで、失望したり、あきらめたりします。しかし、イエスさまは仰いました。「それを、ここに持って来なさい。」直訳すると、「そこで(彼=イエス)は言われた。「あなた方は持って来なさい。私に。ここに。それを。」
単に「ここに」というよりも「わたしのところに、ここに」持って来なさいという意味です。イエス様は「それ(2匹の魚と5つのパン)をわたしのところに持って来なさい。」と言われました。弟子たちが「たったこれっぽっちです。とても足りません。」「たったこれだけでは何になりましょう」と言った少年1人分のお弁当、それを持って来なさいと言われたのです。
18、19節 すると、イエスは言われた。「それを、ここに持って来なさい。」そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。
弟子たちは、そのお言葉に従って、イエス様のところに持って行きました。そして、イエス様の手に渡しました。イエスさまは、それをお受け取りになり、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられました。弟子たちは、それを人々に配られました。すると、不思議なことに、人々はみな、食べて満腹し、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいありました。まさに、奇跡としか言いようがありません。「5千人の給食の奇跡」と呼ばれます。私たちがは、この出来事から、私たちの信仰について学ぶことが出来ると思います。
①御手の中で変わる
それは、まず第一に、「イエス様の御手の中で変わる」ということです。
いつ、パンが増えたのでしょうか。弟子たちが持って行く途中でしょうか。それとも、弟子たちが、配っているときでしょうか。そうではなく、イエスさまが、パンを裂かれたときだと思います。パンは、イエスさまの御手の中で、増えたのです。魚は、どうなったのでしょう。ヨハネは、「また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。」と記しています。
パンも、魚も、どちらも、イエスさまの御手の中で増えたのです。「たったこれっぽっち」「それが何になりましょう」と言った5つのパンと2匹の魚が、5千人が十分食べて、なお、余りが出ました。「御手の中で、すべては変わる感謝に。」という賛美がありますが、イエスさまの御手の中で、不可能が、可能に変わりました。
マタ 19:26「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」)とあります。イエス様の御手の中で、変わるのです。イエス様の御手の中で、不可能が可能と変わります。
②イエス様のところに持って行く。
2番目に、イエスさまのところに持って行くことです。イエスさまは、「それを、ここにもって来なさい、」と言われました。
「不可能が、可能とされる」そのカギは「イエス様のところに、それを、持って来る」ということです。現代を生きる私たちにとって、それは、 祈りに他ならなりません。難しい問題があるとき、自分の小さな思いの中で、無理です。と、あきらめてしまうのではなく、それを、イエス様のところに持って行けばよいのですね。イエスさまの御手の中で、栄光へと変わります。イエスさまは、私たちにも、「それを、ここに持って来なさい。」と言われます。私たちも、祈りの中で、その問題課題を、そのまんま、イエスさまの御手の中にお渡しいたしましょう。
③祝福を配る
3つ目は、「祝福を配る者となる」ということです。
19節 そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。
「弟子たちは、群衆に配った。」イエス様の御手の中で、変えられたものを、弟子たちが、人々に配りました。せっかく、イエス様の御手の中で祝福に変えられても、それを周りの人々に配る人がいなければ、その祝福は、人々に届きません。配るのは、弟子たちの役目でした。
そして、私たちの役目でもあります。自分で増やすのではありません。私たちは、イエスさまのところに持って行き、イエス様が栄光へと変えてくださった祝福を、また、人々に配るのです。イエス様のところへ持って行く。そして、イエス様の祝福を配る人になる。それが、私たちの役割です。この流れのどこかがストップしても、この奇跡は起こり得なかったと思います。
今晩、私たちに与えられている役目は、いろいろな問題、課題を、イエス様のところに持って行くことです。そして、イエス様の御手の中で、祝福に変えて頂くことです。自分で足したり引いたりせず、そのまま、イエス様の御手の中に持って行きましょう。
17~19 しかし、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」すると、イエスは言われた。「それを、ここに持って来なさい。」そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。