「御霊の務め」

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1、御霊の務め
6 ~8節 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、 まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。

私たちクリスチャンは、主イエス・キリストに仕える者ですが、このところでは「御霊に仕える者」ということが強調されています。御霊は、私たちのうちに働いて、実際に、私たちを助けてくださる方です。私たちが、クリスチャンとして成長するためには、どうしても、御霊の助けが必要です。私たちクリスチャンは、「新しい契約に仕える者」であり、それは、とりもなおさず、「御霊に仕える者である」ということを、もう一度、深く悟らせて頂きたいと思います。

2、私たちを生かす務め
6節 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。

まず第一に、御霊の務めは、「私たちを生かす」務めであるということです。「文字は殺し、御霊は生かすからです。」とありますが、御霊は、復活のキリストのいのち、そのものです。御霊が、私たちの心に来てくださるとき、私たちは、神様のいのちによって生かされます。御霊は、様々な心配や不安で、沈んでいた心に、神様の愛と、希望を与えてくれます。

「文字は殺す」の「文字」とは「律法」を指しています。私たちは、「こうあらねばならない。」という律法が示されると、その基準に届いていない自分を見て、失望してしまうのです。しかし、「御霊」は、内側から、私たちを生かします。御霊を通して、神の愛が、私たちの心に注がれます。御霊の務めは、神様の愛によって、私たちを生かすことです。

2、義とする務め
9節  罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。

「御霊の務め」の2つ目は、「義とする務め」です。御霊は、私たちの心に、平安を与えてくれます。「あなたは、それで良い」という平安です。それは、何かが良く出来るからとか、素晴らしい結果を出しているからという理由ではなく、御霊が、私たちの心に、ともにいてくださるからです。御霊が、私たちの心に来てくださることは、私たちが、イエスキリストの贖いによって義とされたしるしなのです。

いつも、「自分は足りない」「自分はだめだ」と思わせるのは、律法による「罪に定める務め」です。私たちは、もはや、自分の足りなさ、乏しさに、怯えながら生きる必要はありません。イエスキリストの十字架の贖いによって、私たちは、「新しい契約に仕える者」となりました。もはや、律法の下にいるのではありません。御霊が、私たちの心に来てくださり、私たちがイエス様によって義とされたことを、確かなものとしてくださいます。

3、永続する務め
11、12節  もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、永続するものには、なおさら栄光があるはずです。このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。

「御霊の務め」の第3は、「永続する務め」です。御霊の働きは、一時的なものではありません。途中で、消えてなくなってしまうことは決してありません。たとえ、私たちが、不信仰になったり、不服従によって、御霊を悲しませることがあったとしても、それでも、御霊は、私たちを、正しい道へ導こうと働き続けてくださいます。

「永遠のいのち」とは、「御霊によるいのち」です。人は、いずれ、寿命が尽きて、死を迎えますが、肉体のいのちが終わっても、御霊が下さるいのちは、消えることがありません。私たちクリスチャンは、この御霊の永続する務めによって、神様のとこしえの愛の中に、生かされ続けて行くのです。何と、感謝なことかと思います。

4、心の覆いを取り除く務め
14~16節 しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。

「御霊の務め」の第4は、「心の覆いを取り除く」務めです。人は、罪に堕ちて以来、心に覆いが掛けられています。神様が、どんなに愛に富み、憐み深く、栄光に富んだお方であるか、そして、主に仕えて行く人生が、どれほど、素晴らしいのか、覆いが掛けられてしまいました。それと反比例して、この世の欲、この世のはかない楽しみに、心が惹かれるようになりました。

パウロ自身、あのダマスコ途上で、復活のイエスさまに出会う以前、心に覆いが掛かっていました。人は、律法を守ることによって、義と認められると信じ、その熱心は、他者を裁き、迫害するほどでした。しかし、復活のイエスさまと出会い、御霊によって、心の覆いが取り除かれたパウロは、価値観が全く逆転しました。パウロは、こう述べています。

「 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」私たちも、御霊によって、心の覆いが取り除かれ、イエス様の素晴らしさを体験する者でありたいと思います。

5、自由を与える務め
17節  主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。

御霊の務めの第5は、「御霊による自由」です。この自由は、罪と死の支配からの自由です。また、「こうあるべきだ。」「こうでなければならない。」という律法の縛りからの自由です。律法は、外側から、私たちを縛りますが、御霊は、私たちのうちに、自由を与えてくれます。御霊の自由があるとことには、喜びがあります。感謝があります。心の満足があります。私たちは、御霊の自由を楽しんでいるでしょうか。

この世にあっては、悩みも艱難もあります。しかし、その中にあっても、私たちは、御霊によって、心は自由とされています。悩みや、思い煩いに、束縛される必要はありません。私たちの肉体は、地上に繋がれていても、心は、「主の恵み」という大空を、空高く飛翔して行くのです。

6、キリストに似た者とする務め
18節 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

最後に、「御霊の務め」の第6は、「キリストに似た者とする務め」です。御霊は、復活のイエスキリストご自身と言っても、言い過ぎではありません。私たちが、御霊によって歩むとき、私たちも、イエス・キリストに似た者へと変えられて行くのです。これは、自分で、努力して、キリストの真似をするというよりも、祈りを通し、み言葉を通し、主イエスさまとの交わりを保って行くとき、御霊の働きによって、私たちが、知らず知らずのうちに、イエス様に似た者へと変えられて行くということです。

主に明け渡し、御霊に満たされ、御霊に導かれて、歩みましょう。それが、クリスチャンとして、最も幸いな生き方です。

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