説教 「負けるが勝ち」 創世記32章22~32節 牧師 川嶋直行
M130602 「負けるが勝ち」 創世記32章22~32節
今日の説教題は「負けるが勝ち」とつけさせて頂きました。子どもの頃、兄弟げんかをして、母からよく言われました。「負けるが勝ちだよ。」いったい、この「ことわざ」の出どころは何処だろうかと調べてみましたが、よく分かりませんでした。しかし、聖書の中に、「負けるが勝ち」とはこういうことかと、よくわかるお話がありますので紹介したいと思います。創世記を読んだことがない方もおられると思いますので、少し背景を説明致します。主役はヤコブという人です。ヤコブには、双子の兄弟の兄エサウがいました。この時から遡ること14年以上前、ヤコブは、兄のエサウが受ける筈だった長子の権利を、父を騙して自分のものとしました。長子の権利とは、その家の正式な跡継ぎとなる権利です。それを知った兄のエサウは怒り、父が死んだら、弟のヤコブを殺そうと計画を立てました。母のリベカは、ヤコブに自分の兄であるラバンのもとに逃れるように言います。ヤコブは、叔父のラバンのもとに逃れ、叔父の娘を妻に迎え、14年間身を粉にして働くのです。神様がヤコブを祝福してくださり、ひと財産を築き上げます。そして、ついに家族を引きつれ故郷に帰って来ることになりました。
しかし、その途中、兄のエサウが400人の郎党を引き連れて、こちらに向かってくるという知らせを受けます。ヤコブはとても不安になりました。兄は、まだ怒っているに違いない。私に復讐をするつもりだ。家族を殺し、財産を奪うに違ない。そう思いました。それで、何とかしようと考えました。2つのグループに分けて、一つが打たれても、もう一つは逃れられるようにしました。そして、こちらに向かってくる兄エサウに、贈り物を届けるように手配しました。しかも、1回だけでなく、2回、3回と波状的に、贈り物を届けるようにしたのです。しかし、それでもまだ不安は去りませんでした。家族を先に行かせて、ひとりだけ後に残りました。
22~24節 しかし、彼はその夜のうちに起きて、ふたりの妻と、ふたりの女奴隷と、十一人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを渡った。彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物も渡らせた。ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。
夜です。月明かりはありましたが、あたりは、真っ暗です。不安を抱えたヤコブは、ひとり、ある人と格闘しました。この「ある人」が誰であるか、聖書は明確に書いてはおりません。しかし、その後を読んで行きますと、人の姿をとって表れてくださった神であったことが分かります。28節にこう書いてあります。「あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」
この格闘において、いったい、どっちが勝ったのでしょうか。ヤコブが勝ったのでしょうか、それとも、神が勝ったのでしょうか。25節にこう書いてあります。「ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。」ヤコブは、その方の前に、がくっとひざまづくような格好になったでしょう。自力では立っていることが出来ずに、組み合っていたその方にすがりつくような格好になったと思います。つまり、ヤコブは、この格闘で負けたのです。ところが、不思議なことに、神さまは、ヤコブに「あなたは神と戦い、人と戦って、勝った。」と仰いました。負けたヤコブが勝ったとは、是如何に。まことに不思議なすもうです。しかし、ここに、「負けるが勝ち」の深い真理が隠されているのです。神の前に負けることが、逆に、人生の勝利者となると、聖書は言っているのですね。
私達も、いろいろな問題と格闘することがあります。対人関係で悩むこともあります。すもうではありませんが、つっぱって、つっぱって、相手を力づくで土俵の外に押し出そうとすることがあるかもしれません。ヤコブはそのような人生を送ってきました。しかし、ここで人生の大転換を迎えます。ヤコブは、問題と格闘することをやめ、ひとりになって、神と格闘しました。その問題を神様のところに持って行って、不安から解放されるまで、神とがっぷり4つに組んだのです。
26節 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
ここに、ヤコブの必死さがあらわされています。このどうしようもない恐れ、恐怖、不安から、私を解放してくださるまで、あなたを去らせません。」と言ったのです。人生には、いろいろな不安がついてまわります。将来の不安、子育ての不安、健康の不安、経済の不安、ひとつ乗り越えたと思ったら、また、別の不安がやってきます。人生とはそのようなものではないでしょうか。もぐらたたきのように、ひとつ、またひとつと、解決しても、次から次へとやってきます。個別に対処して行くうちに、人生が終わってしまいます。結局、不安、解決、不安、解決、不安、その連続なのです。
「それが人生だ。」という方もおられると思います。しかし、ヤコブは、ここで不安の連鎖を断ち切りたいと思ったのです。いくら兄のエサウのご機嫌をとったところで、また、別の不安が襲ってくる。もっと、根本的な解決が欲しい。もうこんな不安に追いかけられる人生はいやだ。たとえ、いろいろな問題があっても、いつも安心していられる、真の平安が欲しい。そう思ったのではないでしょうか。それで、ヤコブはひとり残って、神と格闘したのです。実は、この不安の原因は、彼自身の中にありました。
27節 その人は言った。「あなたの名は何というのか。」彼は答えた。「ヤコブです。」
神さまは、別にヤコブの名前を聞いた訳ではありません。「あなたは、どういう人物か」と尋ねられたのです。それに対して、ヤコブは素直に「ヤコブです。」と答えました。ヤコブとは、「人を押しのける者」という意味です。創世紀 27章36節 にこうあります。
エサウは言った。「彼の名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけてしまって。私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった。」
ヤコブが生まれてくるとき、何と、双子の兄エサウのかかとをつかんでお母さんのお腹から出て来ました。ヘブル語で「かかと」を「アケブ」と言い、そこから、ヤコブと名前が付けられました。この生まれつきもった「人を押しのける」性格は、もちろん、ヤコブのせいではありませんでしたが、ヤコブにとって、しばしば人とトラブルを起こす原因ともなりました。神が、ヤコブに「あなたの名は何というのか。」と尋ねたとき、神は、ヤコブに「あなたの、その人を押しのける性格が、自分の人生に不安をもたらしてきたことを認めますか。」そう尋ねたのです。「人を押しのけて」でも、自分が前に出ようとするとき、必ず、そこに衝突が起こります。ヤコブは、この時、神の前に、そのことを認めました。「はい。私はヤコブです。人を押しのける者です。」と。
彼は、何とか自分で解決しようとしてきましたが、出来ませんでした。最後に残された方法は、神に変えて頂くことでした。神は、私達が、自分でどうすることも出来ない問題を、根本から変えることのできる唯一のお方です。ヤコブは、神と格闘するなかで、いわゆる「自己中心」というかたくなな心が、砕かれ、やわらかにされ、神の愛に満たされるという経験をしました。自分を悩まし続けてきた「人を押しのける性格」が変えられたのです。
32章28節 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」
神との格闘に負けたヤコブは、もはや以前のヤコブではありませんでした。「つっぱらなくてもよくなったのです。自分で押しのけようとする人から、神の前にへりくだった、神により頼む人に変えられました。その結果、ヤコブは、不安から解放されました。自分が自分がと思っていたときは、常に不安がつきまとっていましたが、神さまが、祝福してくださると信じて、常に平安でいられるようになったのです。これこそ、「神の勝利」です。まさに「負けるが勝ち」です。
32:29 ヤコブが、「どうかあなたの名を教えてください」と尋ねると、その人は、「いったい、なぜ、あなたはわたしの名を尋ねるのか」と言って、その場で彼を祝福した。
祝福とは、ヘブル語でバラフといいますが、これは「ひざまずく」という意味があります。神の前にひざまずくこと自体、祝福なのです。「祝福はひざ来る」のです。神の恵みは、へりくだった人と共にあります。祝福とは「負けるが勝ち」ということです。
こんな話を聞きました。
ある深い渓谷に、1本の巨木が根元から倒れて、橋となっていました。ひとりが木の根元から渡って行くと、枝の方から渡ってくるもうひとりの人と、ちょうど真ん中あたりで、鉢合わせになりました。どちらも、引き下がろとしません。しばらくいがみ合った後で、根元から来た人が、のこぎりを取り出して、先の部分を切ってしまいました。枝の方からやってきた人は、木と一緒に深い渓谷に落ちて行きました。根元から来た人は、かろうじて根があったのでそこに留まることができました。「やった。俺の勝ちだ。」と思いましたが、もはや、彼は向こう側に渡ることが出来なくなってしまいました。一方、アンデスの険しい山々に住む山羊は、崖っぷちの細い道で出会ったときに、1頭が、しゃがみ込んで、相手を先に行かせるのだそうです。しゃがむ方が弱いような印象を受けますが、しかし、しゃがんで相手を行かせる方が、狭い道で相手を乗り越えて行くよりはるかに安全なのです。ここでも、「負けるが勝ち」の原則を見ます。
私たちの救い主イエスキリストの十字架こそ、「負けるが勝ち」の最も良き見本です。私たちの罪を背負って、十字架に掛かって、死なれたことは、完全な敗北と見えますが、しかし、神の力によって3日目によみがえり、その愛と謙遜によって、多くの人たちを罪から救っているのです。イエスさまの前に、降参するなら、神が、私達を勝利者としてくださいます。「負けるが勝ち」これは、聖書に見られる偉大な真理です。他の人や、問題に打ち勝とうと戦い続ける人生ではなく、神の御前に、自分の罪と弱さを認めて、神によって勝利する人となりたいものです。