疲れを癒やしてくださる主

M130714 「疲れを癒やしてくださる主」Ⅰ列王19章全

今日は、御殿場の東山荘で教会学校のサマーキャンプが行われており、CS生とスタッフは、東山荘で礼拝を守っています。先週は、だいぶ暑い日が続きました。この暑さで、お疲れを覚えておらえる方がもいらっしゃるかもしれません。人間の心や体は、気候の変化や、状況の変化に、影響を受けやすいものだと思います。聖書に登場する、信仰の巨人たちも例外ではありません。彼らも、私達と同じ弱さを持った人間でした。今日は、神様が、エリヤの疲れをどのように癒してくださったか、ご一緒に学んでみたいと思います。そして、主の恵みによって、この夏を乗り切らせて頂きましょう。

1,疲れを理解する
1~4節  アハブは、エリヤがしたすべての事と、預言者たちを剣で皆殺しにしたこととを残らずイゼベルに告げた。すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」彼は恐れて立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。ユダのベエル・シェバに来たとき、若い者をそこに残し、自分は荒野へ一日の道のりをはいって行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」

エリヤは、カルメル山で、バアルの予言者450人を相手に一人で対決し、見事な勝利をおさめました。大勝利したのですから、エリヤは、もっと喜んでいいのではと思いますが、しかし、実のところは、エリヤは疲労困憊していました。エリヤは、力を出し切って、疲れていたのです。アハブが、奥さんのイゼベルに、「俺はエリヤに負けた」と告げると、イゼベルは、怒って、エリヤに向かって「お前を必ず殺してやる」と言いました。エリヤはその言葉を聞いたとたん、非常に恐れ、自分のいのちを救うため逃げ去りました。

エリヤは、荒野へ逃れて行き、えにしだの木の陰にすわりました。自分の死を願って言いました。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」「もう十分です。もう戦えません。」もう解放してもらいたいと願いました。エリヤでさえ、こんな気持ちになる時があるのですね。

大きな出来事や、戦いの後には、必ず危機がやって来ることを、私達は知っておく必要があると思います。親しい方が無くなられたあとや、全力を尽くして大きな事を力を成し遂げたあと、人は、自分でも気が着かないうちに、力を消耗し、からっぽの状態になっています。

サムソンは、千人を相手に戦って、勝利したあとで、ひどく渇きを覚え、【主】に呼び求めて言いました。「あなたは、しもべの手で、この大きな救いを与えられました。しかし、今、私はのどが渇いて死にそうで、無割礼の者どもの手に落ちようとしています。」すると、神はエン・ハコレの泉を用意してくださり、サムソンは水を飲んで元気を回復して生き返った。とあります。

疲れたとき、どうやって回復したらよいのでしょうか。最近、社会の厳しさが増してきて、「うつ」的な状態に陥る人が増えていると言われます。しかも、若い人に多いのです。私達は、自分のこともそうですが、他の人の「疲れ」に対しても、よく理解しておく必要があると思います。

疲れている人に、頑張れと言ってはいけないのですね。エリヤのように、頑張ろうとしても、頑張る力がないのです。全く励ましにはならず、かえって、その人を苦しめることになります。イエスさまは、その人の苦しみも疲れもよくご存知でした。イエスさまは「悲しみの人で病を知ってしました。」イエスさまは、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と、招いておられます。現代のストレス社会は、かなり厳しいものだと思います。だからこそ、イエスさまのところに行って、疲れを癒やして頂く必要があります。

2、休む必要
5、6節  彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい」と言った。彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入ったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。

ポットや電子レンジや、ほっとプレートなどたくさん電気器具を使うと、よくブレーカーが落ちます。使える電気の容量をオーバーするからですね。その時は、ポットを使うのをやめるとか、電子レンジをやめるとか、電気を使う量を減らします。同じように、私たちも、あれもこれもと、自分の容量を超えてしまうときがあります。そんな時は、何かを思い切って「休む」必要があります。

エリヤは、えにしだの木の下で横になって眠りました。しばらくして、起きて食べました。そして、また横になって眠りました。ようするに、食っちゃ寝、食っちゃ寝している訳です。でも、これは、怠けている訳ではありません。高ぶった神経を休め、消耗した体力を回復させます。私たちの心と体は密接に関連しているので、体を休める必要もあるのです。

主は、疲れたエリヤのために、彼の好きなスイーツと、飲み物を用意してくださいました。そうして、エリヤの疲れは徐々に癒されて行きました。疲れが激しければ、激しいほど、回復に時間が掛かかります。主は、エリヤの回復に、ゆっくりと、つき合ってくださいました。

3,触れてくださる主
7、8節 それから、【主】の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから」と言った。そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。

主の使いは、ただ言葉を掛けただけでなく、「彼にさわって」話しています。5節では「ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい」と言った。」とあります。また、7節では、「それから、主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」と言った。」とあります。この「さわる」という言葉は、へブル語で【ナガー】ですが、御手をなが―く伸ばして、触れてくださったのですね。触ることによって、「これまでよく頑張って来たね。疲れているね。休んで元気になりなさい。」という無言のメッセージが伝わったと思います。

以前いた奉仕していた教会は、いろいろな意味で戦いの多い地域にありました。市の教育委員会もよく分かっていて、優しい先生方を送ってくれました。小学校の校長先生が、毎朝校門に立って、生徒ひとりひとりと握手をして、挨拶をされていました。子供たちは、校長先生から「○○君おはよう。」と、名前を呼ばれて、手を握って励ましてもらうのです。親が夜、働きに出ていて、ひとりぼっちで夜を過ごさなくてはならない子供もいます。親の手をさえも、しばらく握ったことのない子が少なからずいるのです。その子たちにとって、校長先生の大きな手は、どれほど温かく力強かったことでしょうか。

イザヤ書には、こうあります。「あなたの神、【主】であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから。」今の時代においては、聖霊が、私たちの心に触れてくださいます。神の愛をもって、私たちを慰め、励まし、強くしてくださるのです。主に触れていただくとき、私達もまた癒されます。

4,主の前に立つ
8節~10節 そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。 彼はそこにあるほら穴にはいり、そこで一夜を過ごした。すると、彼への主のことばがあった。主は「エリヤよ。ここで何をしているのか。」と仰せられた。エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」

エリヤは、誰もいない、静かな、神の山ホレブに、ひとり神と会うためにやってきました。
主はエリヤに、「エリヤよ。ここで何をしているのか。」と仰せられました。エリヤは答えます。「私は万軍の神、主に、熱心に仕えました。しかし、イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました。ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています。」

これは、エリヤの「言い訳」かもしれません。神様は、エリヤの言い訳に対して、何もコメントしていません。神さまは、黙って聞いてくださいました。神の前に、すべてをさらけ出す、強がらずに、自分の思いを、ありのまま申し上げる、それが癒しに繋がってきます。

11節 主は仰せられた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。

「外に出て、山の上で主の前に立て。」恐れと不安の渦の中に巻き込まれてしまっていたエリヤに対して、神は、「主の前に立て。」と命じられました。「主の前に立つ。」「主の前に出る。」いろいろな心配や不安で、自分を見失っていたエリヤは、もう一度、自分の立ち位置に戻るよう、導かれました。エリヤの思いは、不安の中をさ迷ってしました。しかし、主は、エリヤをそこから引き上げ、岩の上に立たせてくださいました。

ダビデをはじめ、古の聖徒たちは、同じような経験をしてきました。
詩篇31:8に「あなたは私を敵の手に渡さず、私の足を広い所に立たせてくださいました。」とあります。主は、私たちを、イエスさまの救いという岩の上に立たせてくださいます。確かな土台の上に立つ信仰を与えてくださいます。私たちも弱さをもったまま、ありのまま、主の前に立つのです。

5、神の細き声を聞く
12、13節  地震のあとに火があったが、火の中にも【主】はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。すると、声が聞こえてこう言った。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」

癒やしにどうしても必要なのが、神の細き声を聞くことです。エリヤは、激しい大風や、地震や、火という、センセーショナルな出来事の中では、主の語り掛けを聞くことが出来ませんでした。神様の語り掛けは、かすかな細い声です。この「かすかな」という言葉は、ヘブル語で【デマー】というのですが、「ささやき」とか「平穏」という意味があります。

15、16節 【主】は彼に仰せられた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油をそそいで、アラムの王とせよ。また、ニムシの子エフーに油をそそいで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラの出のシャファテの子エリシャに油をそそいで、あなたに代わる預言者とせよ。

神さまの癒やしの最終段階は、エリヤが、神から与えられた使命に戻るということでした。
神のお取り扱いを受け、元気を回復したエリヤに、主は「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。」と仰せになりました。エリヤに新しく与えられた使命は、「ハザエルに油をそそいで、アラムの王とすること。また、ニムシの子エフーに油をそそいで、イスラエルの王とすること。また、エリシャに油をそそいで、新しい預言者とすること。」でした。神の業が継続して進められて行くために、その働きを担う後継者たちを、任命し、育てることが、エリヤに新しく与えられた使命でした。

人は、いくつになっても、使命があります。H・ホイヴェルスが書いた「最上のわざ」という詩の中にこうあります。「神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ。手は何もできない。けれども、最後まで祈ることはできる。愛するすべての人のうえに、神のめぐみを求めるために。」

何が出来なくても、祈ることは出来ます。それこそ、キリスト者に与えられた、最上のわざです。「使命」とは、「命を使う」と書きます。「主のために、自分の命を使う」実は、そうするときに、真の回復が与えられるのですね。

イエスさまは、こう仰っています。
マタイ11:28~30 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

暑さの続くときですが、主によって疲れを癒されつつ、主のくびきをしっかりと負って歩ませて頂きましょう。

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