信仰がないのは、どうしたことです。

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N130825「信仰がないのは、どうしたことです。」 マルコ4章35~41節 

1、ガリラヤ湖の船
35、36節  さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われた。そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。

今日の話しの舞台は、イスラエルの北部にあるガリラヤ湖と言う湖です。イエスさまは、ガリラヤ地方の町々を、連日のように歩かれ、病人を治したり、天の御国の福音を述べ伝えておられました。その日夕方、一日の仕事を終え、疲れを覚えておられたのでしょう。弟子たちと一緒に、人のいない向こう岸に行って、少し休みたいと思われたようです。

イエスさまと弟子たちが乗った舟は、どんな舟だったのでしょうか。週報に、イエスさまの時代に使われていた船の模型の写真を載せておきました。これは、ガリラヤ湖の水位が非常に下がったときに、浅瀬から発掘されたイエスさまの時代の舟を復元して、それをもとに造った模型です。発掘された舟は、黒く炭化していますが、現在、博物館に展示されていて、実際に見ることが出来ます。それによると、大きさは、長さ8.2m、幅2.3mほどでした。十数人は乗ることが出来たと思います。

舟の中は、弟子たちにとって、格別な場所でした。舟の中は、イエスさまと弟子たちが水入らずで一緒にいることができる唯一の場所でした。地上では、イエスさまは、いつも、大勢の人に囲まれていたので、弟子たちも、イエスさまとゆっくり話しをすることが出来ませんでした。しかし、舟の中は、他の人たちに邪魔されることなく、ゆっくりとくつろげる場所だったのです。ですから、イエスさまと弟子たちは、しばしば、舟で誰もいない向こう岸に渡っています。

2、突然の嵐
37、38節  すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」

しかし、この日、せっかくイエスさまと弟子たちが、水入らずで一緒におられたところに、嵐によって、水が差されました。キーワードは「突然」です。穏やかな、湖の風が心地よくふきつける快適な状態だったのです。ところが、突然、あたりは黒雲に覆われ、嵐になりました。突風が吹き荒れ、水は泡立ち、水が舟に入ってきました。最激しい突風で、水が舟の中に入り込んで来ました。舟は、木の葉のようにゆれ、水をかぶって、船は沈みそうになったのです。

弟子たちは、慌てふためきました。完全に冷静さを失い、平安はどこかに、ふっとんでしまいました。ところが、イエスさまはと言えば、とものほうで、枕をして眠っておられました。艫(とも)とは、舟の後方です。マルコは、わざわざ「枕をして」と書いています。座りながら、うたたねをしたのではなく、しっかりと身を横たえてお休みになられたのですね。

詩篇 4篇8節に、「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。【主】よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」とありますが、イエスさまは、どこでも、すぐに眠ることが出来たようです。父なる神を全く信頼し、全き平安の内におられたからです。平安を失って、慌てふためく弟子たちとは、あまりに対照的なイエスさまのお姿です。

私たちの人生においても、「突然」嵐のような試練に見まわれることがあると思います。そのような時、人の心の中に、恐れや不安がどっと入ってくるのです。しかも時は夕方です。あたりは、だんだんと暗闇に覆われてゆき、何かどうなって行くのか、様子がよくわかりませんでした。そのことも、弟子たちの心の不安と恐怖を大きくしたことでしょう。

しかし、それが人間の現実の姿です。いくら科学が発達したからといっても、人間は、自然の力に抗うことは出来ません。突風をおさめることは出来ないし、荒れ狂う波を静めることはできません。人間は自然の大きな力の前に、ほんとうに弱く、小さな存在です。いや、自然の力ばかりでなく、人生の突然の嵐にも、翻弄される存在です。

3、嵐を静めるイエス
38、39節  ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。

「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」これは、少し怒りを含んだ言葉に聞こえます。嵐の中で、何事もないかのように、寝ておられるイエス様のお姿に、弟子たちは少し腹が立ったのでしょう。イエス様を起こして言いました。「先生。私たちが溺れて死にそうでも何とも思われないのですか。」「私たちが、こんなに、大変な状態なのに、あなたは、私たちを助けもせずに、よく寝ておられますね。ひどいじゃないですか。」とイエスさまを非難しました。

弟子たちは、まだ、舟の中にいるのに、自分たちが溺れて死にそうだと言っています。まるで、最悪の事態が既に起ったかのように決めつけている訳です。恐れや、不安は、人から希望も、信仰も奪ってしまいます。舟の中にイエスさまが一緒におられるのに、イエスさまが、まるで何も助けてくださらないかのように、決めつけてしまっています。

イエスさまは、やおら立ち上がって、波を静められました。
39節 イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。

イエスさまが、風をしかりつけると、風はやみました。湖に「黙れ、静まれ。」と言うと、大なぎになりました。イエスさまは、自然界も治められる力ある神です。嵐を静めることのできるお方です。弟子たちは、まだ、そのことが分かっていませんでした。イエスさまは、尊敬すべき、素晴らしい先生でありましたが、風や波をも、治めることが出来るお方であると信じていなかったのです。

4、信仰がないのはどうしたことです
40、41節 イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」 彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

弟子たちはイエス様から、お叱りを受けました。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」私たちも、イエスさまが素晴らしい、愛のお方であり、私たちの罪を赦すために、ご自分のいのちを犠牲にしてでも、私たちを罪から救ってくださったことを知っています。イエスさまを愛しています。しかし、現実の難しい人間関係や、人生の具体的な問題に直面したとき、残念ながら、信仰よりも、恐れに支配されやすいのではないでしょうか。

波を見て怖くなり、パニックしてしまって、イエスさまをそっちのけで、自分で何とかしようと、もがくのです。自分で、もがけば、もがくほど、不安と心配の底なし沼に、ずぶずぶと、足を取られて行きます。しかし、嵐に翻弄さえる舟の中に、イエスさまが一緒におられることを忘れてはいけないと思います。

初代教会は、教会を、舟になぞらえました。当時、クリスチャンたちは、ローマ帝国の迫害に苦しめられていました。まさに、迫害の嵐が吹き荒れていました。しかし、彼らは、いくら、荒波に翻弄されようとも、イエスさまがともにおられ、助けてくださることを堅く信じていました。

現実から、目を背けるのではなく、現実をよく見て、そこに、主イエスさまの助けがあることを信じるのです。私たちを取り巻く現実は、非常に厳しいものです。桜島の噴火で、鹿児島の街が火山灰で覆われる様子を見ると、富士山の噴火を考えさせられます。エジプトの内戦や、シリアでの毒ガス、福島原発から高濃度の汚染水漏れ、聖書に記されている終わりのときの前兆と重なって見えます。

秘密のベールに包まれていたTPPの内容が、少しづつ明らかになるにつれ、黙示録に出てくる「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロンが乗る獣」(黙示録13:11~18、18:1~20参照)の姿と重なって見えてきます。私たちは、現実を、しっかりと見ないといけないと思います。サタンは、非常に危険なことを、楽観的に見せようとします。「まあ、大丈夫だよ。そんなことにはならないよ。」でも、滅びは、突如としてが襲いかかります。私たちは、現実から目を背けるのではなく、たとえ、何が起こっても、イエスさまが一緒にいてくださるから大丈夫という、イエスさまに対する信仰をしっかりと持たせて頂きたいのです。主を信じる者は、勝利するのです。

嵐を静める力をもったイエスさまが一緒におられます。どんなに暗黒と見える事態が襲ってきても、歴史を支配されるイエスさまが、私たちとともにおられるのです。ですから、何も恐れることはありません。イエスさまは、波を見て、恐れていた弟子たちに、「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」と仰いました。

5、落ち着いて信頼する
イザヤ書 30章15節  神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」

オーストラリアのゴールドコーストで活躍する、プロのライフガードをされている方が、海でおぼれそうになった場合、どうすればよいか書いておられました。とても参考になりますので、ご紹介します。

「一番大事なのは「あ、ヤバイ!」と思ったその瞬間。ライフガードが監視している旗と旗の間で泳いでいたのなら、「ライフガードが見てる」ということをすぐに思い出してください。我々は遊泳区間をくまなく監視しているため、遊泳者が「ヤバイ」と思うころには、既に救命用ボードに手がかかっています。救助はすぐに来ます。安心してください。パニックを起こして身体を硬直させない限り、不用意に海水を飲むこともありません。あわてず、その場を動かず、我々プロにお任せください。

次は、泳げる人の場合です。経験から言えば、泳げない人よりもある程度泳げる人の方がおぼれるケースが多いようです。泳げる人は恐怖心が少ないので、足が立たなくてもどんどん沖へ出て行けます。そしてしばらく行くと、海面が洪水の川のように流れている個所に出くわし、そこで初めて「ヤバイ」と気付くというようなことがよくあります。しかし、引き返そうとしても岸に一向に近づけず、そのうち体力を使い切ってしまいます。

対処法は泳げない人の場合と同じです。「ヤバイ」と思った瞬間、我々がもう向かっていることを思い出してください。そしてその場から動かないこと。体力を温存し、押し寄せる波をくぐりながら、手を上げて位置を知らせましょう。泳げる、泳げないにかかわらず、「ヤバイ」と思った瞬間、ライフガードの存在を思い出して待つ。対処法はこれに尽きます。決して自分で解決しようとしないこと。我々を信じてください。そのために、日々訓練を欠かさずにいるのですから。」

何とも、心強いアドバイスだと思います。

しかし、イエスさまこそ、私たちの真のライフガードです。私たちが人生の具体的な問題の中で、溺れてしまうことがないように、いつも見ていてくださるのです。もし、「あ、ヤバイ。」と思ったなら、すぐに、イエスさまにお祈りしましょう。慌てふためく前に、お祈りしましょう。すぐに、イエスさまが助けてくださいます。恐れると、信仰が働きません。ですから、恐れないで、イエスさまが助けてくださることを信じましょう。

残念ながら、弟子たちは、まだその方法を身に付けていませんでした。それで、イエスさまから、お叱りを受けてしまいました。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」「わたしが、舟に一緒にいるというのに、どうして、そんなに怖がるのですか。私があなた方を助けることが出来ないとでも思うのですか。」イエスさまは、私たちにも。そう仰るときがあるのではないでしょうか。

イエス様は嵐を静められる主です。イエスさまは、歴史も、自然界も、また、私たちの人生も、すべてに権威をもっておられるお方です。イエスさまが助けることが出来ない問題は、ありません。そのイエスさまが、いつも、私たちと一緒にいてくださることを忘れててはならないのです。イエスさまに、信頼しましょう。

もし、私たちが人生の嵐にあったなら、それは、嵐を通して、このお方に信頼することを学ぶチャンスということです。嵐の真ん中で、イエスさまが助けてくださることを体験するのです。私がこんな大変な目にあっているのに、イエスさまは、何もしてくれないと、ぼやいてはいけません。イエスさまは、ちゃんと、すべてをご存知なのです。私たちは、恐れないで、ただ、信じていればよいのです。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」のです。

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