地の塩、世の光

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

M130908 「地の塩、世の光」 マタイ5:13~20

1、地の塩
13節 あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

イエスさまは、「あなたがたは地の塩です。」と仰いました。人は毎日10数グラムの塩を摂取する必要があるそうですが、もし、塩を取らなかったら、体の抵抗力が落ち、弱って行きます。塩は私たちの生きて行く上で、欠かせないものです。古代ローマでは、塩が貴重なものであったため、兵士たちに、塩で給料を支払っていたそうです。それが、サラリーマンのサラリーの語源となったということです。

イエスさまが、弟子たちに「あなたがたは、地の塩です。」と仰ったのは、こういう意味だと思います。「あなたがたは、この世にあっては、少数派だ。決して多くはないし、あまり目立つ存在でもない。しかし、この世が悪に流されてしまわずに、その活動が健全に保たれて行くためには、必要な存在ですよ。」

日本でのクリスチャン人口は、1%未満です。まさに少数派です。しかし、「八重の桜」を見ていて思いますが、キリスト教が、日本の近代化に果たした役割は、非常に大きかったと思います。キリスト教が持つ倫理観、道徳律、たとえば、モーセの十戒にあるように「父と母を敬うこと」「殺さないこと」「うそをつかないこと」「盗まないこと」「偶像を拝まないこと」「姦淫しないこと」「むさぼらないこと」、それに加えて、イエスさまが新しい戒めとして与えてくださった「互いに愛し合うこと」「互いに赦し合うこと」そのような教えが、社会全体に影響を与えて来ました。

世の中、多数決で決まることがよくありますが、人数が多いからと言って、必ずしも真理だとは限りません。エルサレムの多くの群衆は、イエスキリストを十字架につけろと叫びました。そして、その声の大きさが勝ちました。しかし、真理は、ひとり十字架に付けられたキリストのうちにあったことを忘れてはいけないと思います。もし、キリストがおられなければ、この世の闇はどれほど深いものとなったでしょうか。

日本のクリスチャンは、少数派です。しかし、その存在意義は決して小さくはありません。ある先生は、「私たちは、ワンダフル・マイノリティーでありたい。」と仰っていました。私もそう思います。イエスさまは、「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」(ルカ12:32)と約束しておられます。ひとつまみの塩が、ぴりっと味を引き締めます。私たちクリスチャンは、世にあって、ワンダフル・マイノリティーでありたいと思います。

以前にも話したことがありますが、宮沢賢治に大きな影響を与えた、斉藤宗次郎という人がいます。斉藤宗次朗は、内村鑑三の影響で、クリスチャンになりました。当時、世の中が戦争に向かっている真っ只中で、軍国主義が盛んなころでした。洗礼を受けた彼は、親から勘当され、「やそやそ」と石を投げつけられました。しかし、彼はイエスさまを信じた喜びにあふれて、信仰を貫きました。小学校の先生をしていましたが、生徒に戦争の愚かさと平和の尊さを教えたので、いわれのない中傷を受けて教師も辞めなければなりませんでした。

それで、彼は新聞配達を始めます。朝3時に起きて、夏の暑い日も、冬の凍てつくような雪の日も、仕事を続けました。岩手の冬はしばれるのです。配達の途中、子供たちに会えばアメ玉をあげて励まし、病気の人があればその枕もとまでいって慰めの言葉をかけました。ある時、宗次郎の愛する娘が、子どもにおなかを蹴られたことが原因で、亡くなります。宗次郎は、たいへん悲しみました。しかし、彼は、学校前の雪かきをやめることはありませんでした。自分の娘を殺した子どもがいる小学校の前の雪かきをし、小さな子どもが動けないでいれば、負ぶって連れて行ってあげたのでした。

彼はそのようにして、20年間、地域の人たちのために働きました。そして、ついに花巻を離れて東京に行くことになりました。見送りに来る人など誰もいないとは思っていましたら、何と町長を初め、大勢の人が見送りに来てくれました。実は、大勢の人たちが斉藤宗次郎に深い感謝を持っていたのです。その中に、宮沢賢治もいました。賢治は、日蓮宗の門徒でしたが、宗次朗の生き方をじっくりと見て、その生き方にあこがれていたのです。そして、「わたしはこういう人になりたい。」と思って書いたのが「雨にも負けず」です。

「雨にも負けず、風にも負けず、雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持ち、決して怒らず、いつも静かに笑っている。1日に玄米4合と味噌と少しの野菜を食べ、あらゆることを自分の勘定に入れずに、よく見聞きし分かり、そして、怒らず、野原の松の林の陰の小さなわらぶきの小屋にいて、東に病気の子どもあれば、行って看病してやり、西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を背負い、南に死にそうな人あれば、行ってこわがらなくてもいいと言い、北に喧嘩や訴訟あれば、つまらないからやめろと言い、日照りの時は涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き、皆に木偶の坊と呼ばれ、褒められもせず、苦にもされず・・・そういうものに私はなりたい。」

斉藤宗次郎は、宮沢賢治と違って有名にはなりませんでした。しかし、まさに「地の塩」として生きた人物であったと思います。

2、塩が塩気をなくしたら
13節 ・・・もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

もし、クリスチャンが塩けを失ったら、もし、キリスト教が塩けを失ったら、何の役にも立たず、捨てられていまいます。塩の存在意義は、塩気を保つことによって、維持されます。もし、クリスチャンが、世と同じ価値観に染まって行ったなら、その存在意義を、失ってしまいます。

イエスさまはこう仰いました。「塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。」(マルコ9:50)

私たちは、どうやって塩気を保つことが出来るのでしょうか。イエスさまにお祈りをすることです。み言葉を読み、イエスさまとの交わりを通して、イエスさまのきよさ、イエスさまの愛、イエスさまの真実さ、イエスさまの誠実さを、私たちのうちにも分けて頂くのです。聖書は「しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。」と言っています。祈りによって、イエスさまと、一つのこころとさせていただくとき、聖霊によって、私たちのうちにも、塩気が保たれて行くのですね。

マルタとマリヤの姉妹のお話を思い出してください。姉のマルタは、おもてなしのために、忙しく動き回っていました。一方、妹のマリヤは、イエスさまの足元に座って、み言葉に聞き入っていました。マルタは、イエスさまに「この状況をご覧になって、何とも思われないのですか。マリヤに働けと言ってください。」と、文句をぶちまけました。彼女の心は満たされていませんでした。

それに対してイエスさまはこう仰いました。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」まず、イエスさまの足元に座って、お言葉に耳を傾けるのです。それから、働くのです。

9月に入り、2013年の締め括りに向かって歩み始めました。もう一度、主の御前に座って、自らのあり方を点検させて頂きましょう。朝のディボ‐ションは如何ですか。主との交わりの時間を持って、一日を始めましょう。

3、世の光
14節  あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。

イエスさまは、続けて、「あなたがたは、世界の光です。」と仰いました。この「世界」という言葉は、ギリシャ語でコスモスです。他の聖書箇所では「世」と訳されています。「世の光」です。この「世」は、「神の国」と対比されます。この世は、この世は、善と悪、正義と不正が入り混じった世界です。この世は、いずれ、審判のときを迎えます。しかし、神の国は、神の義が支配する、永遠の世界です。クリスチャンは、罪を悔い改め、イエスさまを信じたことによって、神の国の一員とされていただきました。

イエスさまを信じて救われた以上、既に神の国の一員とされているのです。罪と死の支配から解放され、既に、永遠のいのちを頂いています。多くの方が「え、私が世の光なんて」と思うかもしれませんが、もう既に、永遠のいのちに与っているわけですから、永遠のいのちの光が与えられているのです。山の上にある町は隠れる事ができないように、クリスチャンは、その与えられた光を隠すことは出来ません。

Ⅰヨハネ1:4~7
私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。」私たちが、その全き光であるイエスさまの方に、しっかりと顔を向け、人生を向け、光に向かって歩んで行くなら、私たちも、その光に照らされて、光を反射しつつ、歩むことができます。

ヨハネ 12章35、36節にこうあります。イエスは彼らに言われた。「まだしばらくの間、光はあなたがたの間にあります。やみがあなたがたを襲うことのないように、あなたがたは、光がある間に歩きなさい。やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」

もし、私たちが、真理に背を向けるなら、暗やみの中を歩むことになります。テレビの特集で、学校のいじめの問題が取り上げられていました。いじめている子は、自分がいじめている自覚がないのです。光が与えられていないのです。暗やみの中にいるのです。でも、先生や周りの人たちが、何度も何度も注意し、それは悪い事だと教えてあげるなら、だんだんと分かって来る子もいます。私たちは、決して、光を隠してしまっては、いけないのですね。

15節 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。

「あかりをつけて、それを枡の下に置く」とは、与えられた光を隠すということです。枡とは、木で造られた四角い箱です。豆とかの体積を測るのに使われます。当時は、小さな素焼きのオイルランプでひかりを灯していましたから、枡を逆さにすれば、すっぽりと覆うことが出来たでしょう。そうすれば、せっかくのあかりは、全く遮断されて、見えなくなってしまいました。そんなことをしてはいけないと、イエスさまは仰ったのです。

人は、どうして、光を隠そうとするのでしょうか。試練に会って、自分の救いが揺らぐとき、イエスさまを信じ切れずに、その光を隠してしまうことがあるかもしれません。あるいは、人から何かを言われることを恐れて、その光を隠してしまうかもしれません。しかし、イエスさまはこう仰いました。「人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」(マタ 10:33)

神さまは、私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みとの霊を与えてくださいました。私も、自分でおくびょう者だなあと思います。しかし、おくびょうは、聖霊によって、克服される必要があります。たとえ、シャイな性格であっても、いえ、自分が恥ずかしがり屋だと分かっているなら、そこに、主の助けを祈り求めることができます。主イエスさまにお祈りするとき、弱点は克服されて行きます。

新約聖書の多くを記したパウロも、実は、シャイな人であったのではないかと思います。しかし、パウロは、神の恵みによって、その弱点を克服して行きました。主イエスさまは、パウロにこう語られました。「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(Ⅱコリ 12:9)パウロは、イエスさまに強められて、「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」と言っています。

イエスキリストのうちにある、永遠のいのちをこの世の人々にお知らせできるのは、イエスさまを信じて、永遠のいのちを頂いている、クリスチャンしかいません。悪は裁かれ、
神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地が来るということを、世の人々にお知らせ出来るのは、聖書を知っているクリスチャンしかいません。そんなこと言ったら、馬鹿にされるかもしれないと、おくびょうになって、光を枡の下に隠してしまったら、他の人たちは、その光を見ることが出来なくなります。そして、自分自身も、光を見失って、暗闇の中に迷い込んでしまいます。

15節に「燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。」とありますが、私たちが持つ光では、とても全世界を照らすことは出来ません。しかし、その家にいる人々を照らすことは出来ます。遠くまでは照らせなくても、私たちが関わりを持つ、身近な人々に、イエスさまの光を照らすことは出来ます。私たちは、家にいる人々を照らすことを期待されているのです。その光が集められるなら、世界を照らせるようになると思います。神さまは、ひとりひとりに、光を照らす場所を備えておられるのです。

皆さん、アンパンパンをご存知ですか。アンパンマンは、敵を力でやっつけるヒーローではありません。窮地に陥っている人たちに、自分の顔のアンパンをちぎって分けてあげ、助けます。そして、自分が弱くなったら、ジャムおじさんのところへ行って、新しいアンパンの顔に取り換えてもらいます。私は、今でも、観ると感動します。

テーマソングの「アンパンマンマーチ」は、非常に深い内容です。果たして子供に分かるだろうかと思いますが、真理は、幼子にも伝わるのですね。実は、アンパンマンの作者のやなせたかしさんは、聖公会に属するクリスチャンだそうです。「アンパンマンマーチ」今月のアフタヌーン・コンサートで、ギデトの方々に歌って頂くようにお願いしましたが、今日は、歌詞を紹介させてください。

そうだ!嬉しいんだ 生きる喜び たとえ胸の傷が痛んでも
何の為に生まれて 何をして生きるのか 答えられないなんて そんなのは嫌だ!
今を生きることで  熱いこころ燃える だから君は行くんだ微笑んで。
そうだ!嬉しいんだ生きる喜び たとえ胸の傷が痛んでも。
嗚呼 アンパンマン 優しい君は 行け!皆の夢守る為

何が君の幸せ  何をして喜ぶ 解らないまま終わる そんなのは嫌だ!
忘れないで夢を  零(こぼ)さないで涙 だから君は飛ぶんだ何処までも
そうだ!恐れないで みんなの為に 愛と勇気だけが友達さ
嗚呼アンパンマン優しい君は 行け!皆の夢守る為

時は早く過ぎる 光る星は消える だから君は行くんだ微笑んで
そうだ!嬉しいんだ生きる喜び たとえどんな敵が相手でも
嗚呼 アンパンマン優しい君は 行け!皆の夢守る為

やなせたかしさんは、悲惨な戦争体験をされました。やなせたかしさんの弟さんは、特攻隊で、戦死したそうです。でも、イエスさまを信じて、ほんとうの幸せを発見したのですね。自分が経験した、生きる喜びを、アンパンマンという作品を通して、世の人たちに伝えたかったのだと思います。

さて、私たちは、どのようにして、イエスさまに与えらた光を、輝かせて行くでしょうか。それぞれに相応しい方法があるでしょう。神様に導かれた場所で、神様の方法によって、私たちは、イエスさまにある永遠のいのちの希望を、この世に照らして行きたいと思います。

14節  あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。

カテゴリー: 礼拝音楽メッセージ パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です