クリスチャンは「宝持ち」

20130922yuri

1、自分の宝
19 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
20 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。

イエスさまは「自分の宝」を天にたくわえなさいと仰いました。ギリシャ語を見ますと、ヒュミーン「あなたがたのために」という代名詞が入っています。直訳しますと、「たくわえなさい。あなたがたのために、天に宝を。」となります。クリスチャンは、宝とは縁遠い存在だと思っている方もおられるかもしれません。自分の宝を持つことは、かなわぬ夢だと思っている方もおられるかもしれません。

しかし、私たちは、いずれは露と消えてしまう「地上の宝」ではなく、それよりも、はるかに価値のある天の宝を持つのです。クリスチャンは、「金持ち」ではなく、「宝持ち」です。天にたくわえられた宝は、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。クリスチャンは、永遠の「相続財産」を持っているのです。

2、天の宝の価値に目が啓かれる
イエスさまは「自分の宝は、天にたくわえなさい。」と仰っいました。この「たくわえる」というギリシャ語は、「積み上げる」とか「保管しておく」という意味があります。文語訳では「汝ら、己がために、たからを天に積め」と訳されています。

ひとたび、天の宝の価値を知れば、天に宝を積むことが喜びとなり、この世の人生の大きな楽しみとなります。クリスチャンの人生は、「天に宝を積む人生」となるのです。

イエスさまが、こんなたとえ話をしてくださいました。「また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」(マタイ13:45、46)

全国を回って、良い真珠を捜していた商人が、素晴らしい真珠を見つけました。しかし、とても手持ちのお金では足りませんでした。それで、家に帰って、持ち物全部を売って、その真珠を手に入れました。さて、この商人は、損をしたでしょうか。得をしたでしょうか。もちろん、得をしたのです。その真珠の値打ちは、彼が手放したものよりも、はるかに高い価値をもっていたからです。

物の値打ちを見極める目をもった商人は、商売に成功するでしょう。しかし、見る目がなければ、失敗をします。私たちは、ほんとうに価値のあるものと、そうでないものと、良く見分けることが出来る人になりたいと願います。イエスさまの言葉に心を留めましょう。22~24節をご一緒にお読みしましょう。

「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」

私たちの心の目が、この世の欲望で曇らされていると、天の宝の価値が分かりません。黙示録で、ラオデキヤの教会に対して「目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」と言われています。この目薬は、心の目に塗る目薬です。私たちの心の目は、聖霊によって、啓かれて行きます。

パウロは、こう祈りました。「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」

3、神の前に富む
イエスさまは、「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。」と仰いました。これは、貯金するなと言っているのではありません。聖書の別の箇所では、「銀行に預けておけば、利子を受け取れたのに」と言っている箇所があります。イエスさまが仰りたかったことは、神の前に富む者となりなさいという意味だと思います。

有名なたとえ話があります。ルカの福音書12:16~21
「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

彼は、一生懸命に働いたことでしょう。そして、たくさんの収穫を得ました。そのことは、素晴らしいことで、誰からも評価されることです。しかし、自分のことばかり考えていたので、神様から「愚か者」と言われてしまいました。聖書でいう「愚か者」とは、目の前のこと、自分のこと、この世のことしかか考えない人です。逆に、聖書のいう「賢い人」とは、この世の先のことまで、つまり、永遠のことまで計算に入れて生きる人です。

私たちは、どこに自分の宝をたくわえるのでしょうか。それは、ひとりひとりの選択であり、その選択の結果を自分で刈り取ります。地の上にたくわえるのか、天にたくわるのか、誰も、強制されることはありません。神は、その意味が分かり、その価値が分かり、喜んで与える人を愛して下さいます。

4、与えることによって
具体的に、どのようにして、私たちは、天に宝をたくわえることが出来るのでしょうか。それは、与えることによってだと、聖書は言います。与えることは、犠牲を伴います。このことの最高の模範は、イエスさまです。イエスさまは、罪の中で苦しんでいた私たちのために、ご自分のいのちさえも与えてくださいました。イエスさまは、自分の人生のすべてを、心の貧しい人、罪に悩む人たちのために捧げました。私たちは、とても、イエスさまと同じようにはできませんが、しかし、与えるチャンスは、私たちの日常生活の中に、いくらでもあります。つまり、日々の生活の中で、私たちは、天に宝を積むことが出来るのです。

箴言19章17節
「寄るべのない者に施しをするのは、【主】に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる。」リビングバイブルでは「貧しい人を助けるのは、神に貸すのだ。神は、素晴らしい利息を払ってくださる。」となっています。

タイで実際にあった出来事です。ある少年が、お店から、痛み止めの薬と、少しの食料を盗みます。その店の店員さんが、少年を捕まえて、叱りつけます。向いの食堂のおじさんが、出てきて、仲裁に入ります。おじさんは、「お母さんが病気なのか」と尋ねるのです。そして、その商品のお金を払ってあげて、自分の店の食べ物と一緒に少年に渡してあげます。それから30年が経ち、ある日、食堂のおじさんは、仕事の途中で倒れて、入院することになります。

病院から提示された治療費は、莫大なものでした。しかし、命には代えられません。娘さんは、悩んだ末、土地と家を売りに出します。その後、お父さんのベットの脇で目を覚ますと、新しい請求書が届いていました。その請求書を見ると、治療費がゼロとなっていました。そして、こう書いてあったのです。「すべての費用は、30年前に既に支払われている。」何と、そのドクターは、30年前、食堂のおじさんが、代金を払ってあげたあの少年だったのです。

天に宝をたくわえるとは、自分に与えられている賜物を使って、隣人を愛することではないでしょうか。地上においてさえ、銀行に預けると、わずかですが利子がつきます。神さまは、天にたくわえられている宝に、ちゃんと利子をつけてくださって、私たちの地上の人生に還元してくださるというのです。

天に自分の宝をたくえるための資本は、神様が与えてくださっています。あれが足りない、これが足りないと嘆く前に、自分に与えられているものを、よく数えてみたら、十分な資本があることに、気が付くのではないでしょうか。

26節  空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。

28~30節 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

今日の講壇のゆり、美しいですね。花のいのちは短くてと言われますが、たった数日しか存在できない野の百合さえも、神さまは、これほどに美しく装わせてくださるのです。ましてや、人間は、神のかたちに似せて造られた最高傑作です。その人間同士が、自分の欲望のために、奪い合ったり、争そったりするのではなく、互いに愛し合い、いたわり合い、助け合って生きてゆくことを神は望んでおられるのです。神の国とは、そういうところです。

5、1日1日ベストを尽くして
33節 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
34節 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

私たちの人生目標が、「天に宝を積む人生」に定められるとき、私たちの人生も、天の御国のゴールにむかって、前進するようになります。私たちは、毎日の生活の中で、天に宝をたくわえて行くのです。聖霊によって心の目が啓かれて、聖徒の受け継ぐものが、どんなに栄光に富んだものか、分かる者とさせて頂きましょう。天に宝を積むことが、人生の楽しみ、喜びとなりますように。そうすれば、心配や、不安から解放され、与えられた1日1日を、ベストを尽くして生きて行く新たな力が湧いてきます。クリスチャンとは、天の「宝持ち」です。

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