マグニフィカート-主をたたえる人生

M131222 マグニフィカート-主をたたえる人生 ルカ1:46-55

1、マリヤの賛歌
46、47節  マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。

今日は説教題を「マグニフェカート-主をたたえる人生」と付けさせて頂きました。マグニフィカートとは、ラテン語で「拡大する」という意味があります。最近のスマートフォンや、デジタルカメラには、ズーム機能がついていますね。ズームインすると、遠くにあるものが、大きく見えるようになります。

実は、私たちの心にも、ズーム機能があることをご存知でしょうか。この心のズーム機能、少し困ったところがあって、何もせずにいると、「心配なこと」「いやな事」を選んでズームしてしまう性質があるようです。良い事もたくさんあるのに、たった一つの悪い事がクローズアップされて、そればかり見てしまうのです。すると、良いことは見えなくなり、まるで暗闇に覆われてしまったかのようになります。

しかし、マリヤは、主をあがめる人生を選びました。マリヤだって、私たちと同じように、幸いなこともあれば、悲しや苦しみだってあった筈です。私たちの人生に起こり得る悪い事を拡大して見るのではなく、主の恵みを拡大して見るようにしたのです。そうしましと、辛い事、嫌な事、悲しいこと等が、主の恵みによってすっかり、覆われてしまって、明るくなります。私たちの心の中でも、同じことが起るのです。

試練も恵みも、同じくらいあると思いますが、クリスマスは、特に、救い主イエスさまをズームして見たいと思います。そして、マリヤとともに、「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」と主を賛美したいと思うのです。

2、低い者を引き上げてくださる神
48節  主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。

マリヤは、自分のことを「卑しいはしため」と言いました。「はしため」とは、現代では死語ですが、「女奴隷」と言う意味です。しかも、「身分の低い女奴隷」と言うのです。マリヤは、主の御前に、身を低くしました。主をあがめるとは、自分を低くすることです。バプテスマのヨハネが、イエスさまに対して「私には、かがんでその方のくつのひもを解く値打ちもありません。」と申し上げましたが、マリヤもまた、主の前に自分を「卑しいはしため」と認識していたのです。

51~53節にこうあります。「主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。」

マリヤは、やさしと、柔軟な心の持ち主でしたが、一方、非常にダイナミックな信仰の持ち主でもありました。彼女が信じていた神は、高ぶる者を退け、自分の身を低くする者を高く引き上げてくださる神です。自分で、自分を高くしようとする者は、退けられ、自分の身を低くする者を、神が引き上げてくださる。それが、マリヤがほめたたえている神であり、私たちが信じている神です。私たちが信じている神は、低い者を引き上げてくださるお方です。

ここで、ショートムービーをご覧頂きたいと思います。題名は「耳の聞こえないバイオリニスト」です。【内容要約】耳の聞こえないバイオニストと、恵まれた環境にいるけれども、人を押しのけて這い上がろうとする友人の姿が対照的に描かれています。耳の聞こえない少女は、「耳が聞こえないのにバイオリンを弾くなんて馬鹿だ。」とさんざんののしられます。しかし、同じ耳の聞こえない先輩のバイオリン弾きのおじさんから、「目を閉じてごらん。音楽は目に見える。」と励ましを受けて、勇気をもって挑戦します。彼女がコンクールで演奏したとき、人々はその音の素晴らしさにスタンディング・オベーションを送ります。

世の中、そう上手く行かないと言われるかもしれません。確かにそう見えます。しかし、マリヤは、「高ぶる者を引き下ろし、低い者を引き上げてくださる神」を信じました。そして、自らを低くしました。神の恵みとは、「受けるに値しない者に注がれる神の無償の愛」です。神の恵みは、川の流れのようです。川の水は、高いところから、低いところ。低いところへと流れて行きます。神の恵みも同じで、へりくだる者に注がれるのです。

主をあがめることは、自分を低くすることです。自分を低くせずに、主をあがめることなどできませんし、自分を低くすることなしに、神の恵みに満たされることも出来ません。マリヤの素晴らしいところは、彼女の驚くべき謙遜にあったのではないでしょうか。もし、マリヤが、救い主の母として選ばれたことを、誇ったり、他の人に自慢したりしたら、とんでもなく嫌な人になっていたことでしょう。後の時代の誰も、彼女を幸せ者とは思わなかったと思います。

詩篇33篇1節に「正しい者たち。【主】にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。」とあります。神への賛美は、直な心から湧き出て来ます。「心の直な人」とは、主の恵みを素直に受け取る人です。神様が小さな私にも目を留めてくださった。私を罪から救い、永遠のいのちを与え、ほんとうに大きなことをしてくださったと素直に受け取るとき、神への賛美があふれて来ます。

3、力ある方が、私に大きなことを
49、50節  力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。

「大きなこと」とは、聖霊によって、救い主の母となる栄光が与えられたということです。「ナザレから何の良きものが出るだろうか。」と言われたナザレ村の、貧しい家に生まれた、何の変哲もない、若い乙女を、神は選び、彼女の人生に、非常に大きな栄光を与えてくださいました。救い主誕生は、全人類にとって、この上もない喜びの知らせです。

神は、マリヤの生涯に大きなことをしてくださったように、私たちにひとりひとりの生涯にも、大きなことをしてくださいました。私たちの人生における最大の出来事、それは、罪と死の束縛から救われたということです。神は、その御力によって、信じる者を、罪から救い出し、永遠のいのちへと引き上げてくださいました。神さまは、力ある方です。地上のどんな権力者にも真似の出来ないことを、主は成してくださいました。

ヨハネの福音書に、ニコデモという人が出て来ます。夜、こっそりとイエスさまのところにやって来て、こう言うのです。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」イエスは答えます。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモは、イエスの言っていることが理解できずに、再び、尋ねます。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」イエスは答えます。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。」

救われるって不思議なことです。イエスさまは、救われるというのは、「新しく生まれれる」ことだと仰いました。ニコデモは、その意味が分かりませんでした。「新しく生まれる」というのは、聖霊によって、私たちの魂が新しくされるということです。私たちは、罪を悔い改め、イエスキリストを信じる時、神が、私たちの魂を、新しく生まれさせてくださるのです。

これは、全く不思議なことです。理屈では理解出ません。しかし、信じる者の魂に、確かになされる神の力ある御業です。皆さんは、神が、どんなに大きなことをしてくださったか、自覚しておられるでしょうか。イエスさまを信じるとき、力ある神が、私たちの魂を、聖霊によって、新しく生まれさせてくださったのです。私たちは、その恵みを自分の人生の中で拡大して行く義務があるのです。それが、救い主をあがめる人生です。救い主なる主を喜びたたえる人生なのです。

4、主はあなたを永遠に忘れない
54、55節  主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」

アブラハムから救い主の誕生まで、約2千年の期間があります。その期間、イスラエルが、真面目に、救い主を待ち望んでいたかというと、そんなことはありませんでした。「もう、待てない。神の約束など、うそだ。」と言って、もっとご利益のありあそうな神々を求めて、神から離れて行ったことがしばしばありました。旧約聖書は、神に背き、神を忘れたイスラエルの歴史が、繰り返えされています。しかし、そんなイスラエルの民を、神は見捨てることなく、ある時は厳しく責め、あるときは、やさしく慰め、本当の救いを得ることができるように、忍耐して、導いてくださいました。主は、私たちの罪を完全に忘れてくださいますが、そのあわれみは、いつまでも忘れることがありません。

イザヤ 49章14~15節 
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」

私たちは、神さまは、私のことなんて、覚えておられるのだろうかと、疑うことがあるかもしれませんが、神は、絶対に忘れないのです。「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」神が、私たちの名前を手のひらに刻んだと言われるのです。イエスさまの手には、十字架の釘のあとがあります。イエスさまが復活された後も、この釘のあとは、消えることがありませんでした。私たちのいのちは、十字架の釘によって、イエスさまの手に刻まれたのです。この傷あとは、いつまでも、永遠までも消えることはありません。私たちは、彼の打ち傷によって、癒やされました。ですから、私たちも、主をほめたたえるのです。どんな場合でも、主は私たちへのあわれみを忘れることはありません。

まばたきの詩人と呼ばれる水野源三さんをご存知でしょうか。子どもの頃、小児麻痺を患い、首から下が動ななくなってしまったのですが、イエスキリストと出会い、救われて、源三さんがそこにるだけで、家族の人たちが慰められたと言います。たくさんの詩を作っておられるのですが、「十字架を仰いだならば」という詩をご紹介して終わりたいと思います。

「十字架を仰いだならば」水野源三
      あがない主なるイエスの
      十字架を仰いだならば
      憎しみもいかりも消えゆき
      み前に祈る静けさ戻りぬ

      あがない主なるイエスの
      十字架を仰いだならば
      不安もおそれも消えゆき
      み手によりたのむ心戻りぬ

      あがない主なるイエスの
      十字架を仰いだならば
      悲しみも悩みも消えゆき
      み許にある喜びが戻りぬ  アーメン

クリスマス、救い主が私たちのところに来てくださいました。私たちも、心いっぱい、主をあがめましょう。

マグニフィカートPPT
礼拝時にパワーポイントで使ったスライドをショートムービーにしたものです。ウインドウズ・メデイア・プレーヤーにリンクします。(中で使われている動画は、タイのテレビCMで使われたものです。低画質な為、小さなウインドウでご覧下さい。)

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