「霊的成長の勧め」

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M140126 「霊的成長の勧め」 Ⅰペテロ2章1-12節

1、新しく生まれる
2節 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。

「生まれたばかりの乳飲み子のように」とありますが、霊的成長の出発点は、「新しく生まれる」ということです。罪を悔い改め、イエスさまを信じ、聖霊によって「新しく生まれる」という新生経験なしには、霊的成長はありません。

ヨハネの福音書3章に、ニコデモという人が登場します。ニコデモは、ユダヤ人の指導者であり、律法をよく勉強し、人に教える教師でもありました。しかし、ニコデモは、自分がほんとうに救われているのか、確信がありませんでした。

イエスさまは、イスラエルの教師であったニコデモにこう言います。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)人は、新しく生まれなければ、神の国に入ることは出来ません。霊的成長の出発点は、魂が聖霊によって、新しく生まれるということです。

若き修道士であったマルチン・ルターは、ローマにあるサンクタ・スカラ教会の中にある大理石でできた28段の階段を、手と膝でゆっくりと登っていました。その階段は、聖なる階段と呼ばれ、その苦行をすることで、次第に罪が赦され、神に受け入れられると教えられていたのです。ルターは、痛みをこらえつつ、階段を昇っていた時、突然、魂の奥深くに「義人は信仰によって生きる」と宣言する声を聞きます。その時、ルターの心にあった罪の重荷は消え去り、キリストによって、「新しく生まれる」経験をしたのです。

神のいのちが与えれますと、人は、成長して行きます。聖霊によって「新しく生まれた」新生経験を確認致しましょう。もし、自分は、救われているかどうか分からない。あるいは、救いの確信がないと言う方が、おられましたら、あいまいにしたままにせずに、みことばを握って、救いの確信を得て頂くようにおすすめします。この「新しく生まれる」という新生経験が、霊的成長の出発点であり、土台となります。

2、罪を捨てる
1、節  ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、

霊的成長のために、私たちの側ですべきことが、おもに2つあります。「捨てるべきものを捨てる」ことと「得るべきものを得る」ことです。1節で「ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて」とあります。

エペソ4章22~24節にこうあります。「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」

せっかく、新しい、素敵な着物が用意されているのですから、汚れがしみ込んでしまった着物は脱ぎ捨てて、新しい着物を着ましょう。天の御国は、罪の臭いがしみ込んだ古い着物を着たままでは、入ることが出来ません。イエスさまが用意してくださった「白い衣」「義の衣」に着替えて、祝宴に着きます。

11節に「愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。」とありますが、この「遠ざける」ストラトユーオーと言う言葉は、軍隊用語で、いのちを掛けて戦うという意味があります。キリストは、私たちに自由を与えるために、来て下さいました。この自由は、罪からの自由です。この自由を得るための戦いがあります。

何度も、失敗するかもしれません。私も何度も失敗しました。しかし、あきらめないで、捨てるべきものを捨て続けて行くなら、私たちは、勝利します。既に、イエスさまは、世に勝ってくださいましたから、私たちも、イエスさまの力を頂いて、勝利したいと思います。主は、必ず、勝利を与えてくださると信じます。そして、自由を謳歌しながら、人生を歩んで参りたいと思います。

3、みことばの乳を慕い求める
2節  生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。

聖書のみ言葉は、私たちの心の糧、魂の糧です。み言葉を読み、味わい、実行して行くとき、私たちは、霊的に成長して行きます。聖書は難しいでしょうか。すべては理解出来なくても、読んでゆくと、必ず、心に響いてくる言葉があります。それは、真理の御霊である聖霊が、聖書の言葉を分かるようにしてくださるからです。私は、赤の色鉛筆を手に持って、心に響いてくるみ言葉に、線を引きながら、読んで行きます。2重線を引いたり、○で囲んでみたり、大胆に、聖書に書き込みしながら読んでいます。そして、後から、線を引いところを、もう一度、読み直してみると、より心に留まります。

一気に理解しようとしなくても大丈夫です。少しづつでも、続けて読んで行きましょう。イスラエルの民が荒野を旅するとき、人々は、毎日、天からのマナによって、養われて行きました。私たちは、毎日、新鮮なみことばのミルクが必要です。昔の恵みで、今を生きて行くことは出来ません。私たちは、その日その日の糧を、その日その日に、聖書のみ言葉から与えられて行きます。

また、みことばは、よく味わうことが大事です。み言葉は、かきこむようにではなく、よく味わって頂くのですね。3節に「あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。」とあります。み言葉は、「主の慈しみ」の味がします。私も、み言葉から、どれだけ慰めを受けことかと思います。失望、落胆したときも、み言葉を読むうちに、だんだんと心が慰められ、心に新しい希望が湧いてきました。

ダビデはこう言いました。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩119:105)み言葉は、私たちの人生の歩みを照らす、道の光です。暗やみの中を通るときも、みことばが、私たちを導いてくれます。ゲーテは、「私が獄につながれ、ただ一冊の本を持ち込むことを許されるとしたら 私は聖書を選ぶ。」と言ったそうです。

そして、私たちは、純粋なみことばの乳を飲みます。「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」とあります。私たちも、素直な心で、みことばを読む必要があるのです。「み言葉は、こういっているけど、私の考えでは、こう思う。」とか、「みことばは、こう言っているけど、この場合は、違う。」とか、みことばに混ぜ物をして読むことがないようにしたいものです。私たちは、あくまでも「純粋な」みことばの乳を慕い求めます。

詩 12:6に 「【主】のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀。」とあります。み言葉の乳は、余計な添加物の一切入らない、純粋な神の言葉です。7回も炉でためされて、不純物が取り除かれた、純粋なみことばの乳です。どうぞ、安心して、お召しあがりください。み言葉は、私たちの心を明るくし、魂を健やかにします。私たちは、みことばによって、成長して行きます。

4、祭司の務め
9、10節  しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。

12節  異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。

ここに「以前は」と言う言葉と「今は」と言う言葉が、2回繰り返されています。救われた人のビフォー・アフターです。クリスチャンは、イエスさまの救いによって、人生がリフォームされてゆきます。救われる以前の私たちは、「神の民」ではありませんでした。また、「あわれみを受けない者」でした。神を信ぜず、神さまの思いとは無関係に、自分勝手な道を歩んでいました。苦しくても、辛くても、ほんとうに慰めてくれる人はいませんでした。重荷に耐えきれず、疲れて、倒れてても、おこしてくれる方がいませんでした。

しかし、今は、違います。イエスさまの救いに与った今、私たちは、「神の民」とされ、「あわれみを受けた者」となりました。Ⅰペテロ 2:25に「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」とあります。滅びに向かっていた者が、イエスさまの救いによって、永遠のいのちに与ることが出来たのです。

私たちが、このような救いを受けたのには、目的があります。それは、私たちが「聖なる祭司」となることです。「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」とあります。聖なる祭司のつとめは、「やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、宣べ伝える」ことです。

私たちが救われたのは、自分の救いの為だけではありません。私たちは、主の救いを知らせる「祭司」の務めが与えられています。マルチン・ルターは、すべてのクリスチャンが、祭司の務めを果たすよう、万人祭司を主張しました。私たちも、「やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを」周りの人たちに証する者でありたいと思います。

1~3節  ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。

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