「渡ることが出来ない淵」ルカ16:19‐31

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M140803「渡ることが出来ない淵」ルカ16:19‐31

 

8月のウエルカム礼拝にようこそおいでくださいました。先日、横十間川のクロスオーバー橋を歩いていたら、盆踊りの音楽が聞こえてきました。今、ちょうど、そのような時期なのですね。ところで、「盆踊り」の由来をご存知でしょうか。斯く言う私もよく分かりませんでしたので、インターネットで調べてみたところ、とても興味深いことが分かりました。

 

お盆の謂われを簡単に説明しますと、昔、目連という御釈迦さんのお弟子さんが、亡くなった自分のお母さんが飢餓道の炎で苦しんでいることを知り、何とか助けたいと、お釈迦様に尋ねたところ、7月15日に、たくさんの僧に施しをしたらよいと言われ、お盆に載せて、ごちそうを振る舞ったところ、お母さんが飢餓道の苦しみから救われ、それを見た目連が、嬉しさのあまり踊りを踊った、それが「盆踊り」の始まりなのだそうです。3~4世紀に記された中国の「盂蘭盆経」に書いてあるそうです。

 

何だか、今日お読みした「ラザロと金持ち」の話と似ていますね。でも、決定的に違う点もあります。「人は、死んだらどこに行くのか」これは、古今東西、人類共通の問ではないでしょうか。誰も、死後の世界に行って、見て来た人はいない訳ですが、今日は、聖書の「ラザロと金持ち」の記事から、とても大切ななことを学ばせて頂きたいと思います。

 

1、ラザロと金持ち

19‐23節 ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。

 

ここに、全く対照的な2人の人物が登場します。病気で寝たきりで、自分で働くことも出来ず、助けてくれる身よりもいない、ほんとうに貧しく孤独なひとりの男と、一方、非常な金持ちで、いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた男です。主人公は、金持ちの方でしょうが、しかし、主人公の名前は書いておらず、貧しい男の名前はラザロと記されています。

 

聖書の中に「ラザロ」と言う名前の人は2人出て来ますが、ラザロとは、ヘブル語で「神が助けたもう者」という意味です。ひとりは、イエスさまによって死からよみがえらせて頂いたラザロ、もうひとりは、死んだのちに、アブラハムのふところに迎えられたラザロです。どちらも、その名前の通り、神が助けたもう者です。それは、ラザロが貧しいから神が助けたのではなく、ラザロが苦しみの中から、主を呼び求めたからでありましょう。

ロマ 10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」とあります。

 

一方、金持ちは、いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。自分のことしか考えず、神さまのことも考えず、目の前に困っている人がいても何の関心も払いませんでした。イエスさまが、聖書の中で最も大事な戒めと仰った『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』と『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という2つの戒めを、ことごとく、無視した人生を送っていました。

 

2、ハデスの苦しみ

22‐25節 さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。 彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。

 

ふたりとも死を迎えますが、死んだ後に行ったところは、まるで違っていました。ラザロは、アブラハムのふところに迎えられました。いわゆるパラダイス、天国と呼ばれる場所ですね。彼は、パラダイスで、安息、永遠の憩いを得ました。

 

一方、金持ちは、ハデスに落とされました。ハデスとは、日本語で黄泉と言いますが、最後の審判を受けるまで、入れておかれる留置場のようなところです。最終的な地獄ではありませんが、最後の審判を待つ待合室のようなところです。彼は、そこで炎の中で苦しみを受けるのです。私は、この炎は、物理的な炎というよりも、良心の呵責とか、あの時こうすればよかったという後悔の念とか、そのような苦しみを表しているのではないかと思います。

 

ハデスは、一時的な場所で、その後、すべての人は「最後の審判」を受けることになります。黙示録 20章13‐15節に、「死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」とあります。

 

最後の審判で、どう裁かれるのか、私たちは、神にお委ねするしかありません。しかし、ここでイエスさまが、仰りたかかったことは明白です。それは、生きている間に、悔い改め、罪の赦しを受け、聖書に従って生きなさいということです。決して、ハデスの苦しみを甘く見てはいけないのです。ハデスと天国の間には、誰も渡ることのできない大きな淵が横たわっています。

 

3、聖書に聴け

27‐31節  彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』 彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』 アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

 

ハデスでは、自分が歩んで来た人生の記憶がはっきりと残っているのですね人は死んだら、意識がなくなる訳ではないようです。むしろ、気を紛らわせるものが何もない分、いやがおうでも、生きてきた自分の記憶と、向き合わざるを得ないのだと思います。イエスさまから罪を赦して頂いた人にとっては、そこは、憩いの場、安息の場になりますが、罪の赦しがなければ、そこは、後悔の念、絶えざる罪の呵責に、苦しむ場所となるでありましょう。

 

彼は、燃えるような罪責感と、後悔で、苦しくてたまらなくなったのです。彼は、父アブラハムにお願いします。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』

 

彼が一番気になったのは、5人の兄弟たちのことでした。「彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。」とお願いします。「彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。」もし、ラザロが、生き返って、兄弟の所に行けば、彼らは、きっと悔い改めるに違いない。そう思ったのです。しかし、アブラハムの答えは、『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』でした。

 

「モーセと預言者との教え」とは、聖書のことです。彼らは、ユダヤ人ですから、聖書を知っていました。その聖書の言うことを聞かないなら、たとえ、死人がよみがえっても、聞く耳を持たないと、イエスさまは仰いました。人は、どんなすごい奇蹟を見ても、本当に聞く心、聞く耳、聞く心がなければ、受け入れはしないのですね。

 

4、家族の救い

使 16:31 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」

 

この話を通して、イエスさまが語りたかったのは、誰も、ハデスで苦しむことにならないようにして欲しいということと、救いは、聖書の中に書いてあるのだから、イエス・キリストを知り、信じて、罪の赦しを受け入れて欲しいということでありましょう。

 

イエスさまのとなりで、十字架に付けられた2人の強盗のうちのひとりは、イエスさまに対して「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と言いました。それに対して、イエスさまは、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と仰いました。救われるための条件は、悔い改めと信仰です。何も難しいことはありません。誰でも、自分の罪を悔い改めて、救い主イエスさまを信じるなら、パラダイスに行くのです。

 

決して、ゲヘナの炎で苦しむことがあってはなりません。死んでから、やっぱり、イエスさまにお従いしておけばよかったと思っても、ハデスとパラダイスの間には、深い淵があって、誰もそこを渡ることはできません。

 

聖書は、家族の救いについて、約束しています。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます。」どうぞ、決して、ゲヘナの苦しみに行くことがないように、イエス・キリストを信じて、罪の赦しを受け、家族そろって天国の喜びに与る者であらせて頂きたいと思います。

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